絵のある本にはいくつかの種類がある。絵が主体の画集や写真集は、テキストがその絵の解説になっているものだから別として、テキストに絵が添えられる目的によって分かれる。
第一には子供向けに親しみやすくしたもの。絵本から始まり、テキストの分量が増えるにつれて、絵の占める割合は減ってゆく。子供向けでありながら絵がまったくなくなるか、あるいはないに等しいということになれば、中学受験によく出るということにもなる。入試問題は言語能力をみるものだから、絵は通常は入らない。しかしまあ、そうなると大人向けの普通の小説やエッセイで、子供が登場するとか、直接的に性的なことが書かれてなければ用は足りる。
二番目に、テキスト内容をわかりやすく図式にして挿入している場合。絵は単なる手段に過ぎないが、たとえば難解な哲学書などでは、そのように図式化して把握できたことがすなわち理解である、と考えられる。こういう図とは手段であると同時に、最終的に伝えたいイメージそのものでもある。
そしてそのような哲学的な難解性は、ときに子供向け、幼児向けの内容と通じるものがある。そのとき絵は、本質の抽出と単純化の両方の役割を担い、同時にもうひとつのテキストとして読解可能ともなる。すなわちテキストと、図像のテキストは呼応し合い、全体として第三のテキストを現出させる。
三番目は、この第三のテキストを現出させる全体性を、最初から目的としたものだ。よくできた詩画集、選び抜かれた挿絵画家に依頼された児童書などには、この類いの傑作がある。つまりこのような本は、第三のテキストとしての全体性が現出しているという、それ自体で傑作なのであり、成功しているのだ。
したがって絵のある本の駄作とは、第一、第二の範疇にあるものだ。第二の、テキストの内容を説明するという目的において、わかりづらくて失敗しているもの。これは、いわば第0の範疇である画集や写真集に付加されているテキストが、絵や写真の鑑賞を台無しにする場合と同様だ。美術展のカタログなど、上手くいっているものは数少なく、しかし傑作というべきものは、もちろん書籍として扱うに足りる。
最も嘆かわしく、批判の槍玉にあげるか、無視に価するものは、第一の範疇の児童書において、絵や色を「飾り」として考えているものである。「本」とは知性の賜物であって、どんなときも本質にせまるべきものだ。飾りならば、即座に排除しなくてはならない。それが理解できないセンスの持ち主がテキストの方であろうと、デザインの方であろうと、もしその書籍に関わっているならば、その本はすなわち唾棄すべきものとなる。大人であれ子供であれ、手にとる者を愚かしくしてしまうからだ。
絵のある本のはなしは、中学受験のための読書をする手前のものではなく、本によって世界観を得るという、最も本質的な読書のためのものである。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■