子供に翻訳ものを読ませる必要があるとして、それは手に取る側にしてみると、たまたま翻訳ものだった、ということに過ぎないことが多い。入試対策のビルディングス・ロマン(成長物語)であれ、おしゃれな舶来ふうの絵本であれ、日本に住む私たちの生活に加えられるものとして読まれる。つまり、私たちの生活と社会に加わってくる子供らの糧として与えられるものなのだ。
もし、そうではないもの、すなわち日本社会に組み込まれる予定の子供たちのその準備に、何らの寄与もしないものがあれば、それは本当に他者の文学だ。しかしなおかつそれが日本語で読めるとするなら、それは本当の翻訳文学というべきだろう。
「トム・ソーヤーの冒険」は、元気ないたずらっ子の物語で、そんな少年は世界共通に愛すべき存在のはずだが、日本でそれほど浸透はしていないような気がする。理由としては、子供向けにしては重い悪漢との対決、そこから与えられる PTSD にもなりかねないプレッシャーがあり、またそのいたずらから端を発する行方不明事件は葬式寸前までに至り、子供を猫可愛がりする日本の大人たちにしてみれば、とうてい洒落にならない、ということが挙げられようか。
一方で日本社会、日本文学はどこへの成長もとりあえず目指さない、純粋な子供時代を賞揚して表現する、ある種の贅沢で洗練された非モダン(プレ=ポストモダン)文化でもある。トム・ソーヤーはタガが外れたぐらいの悪ガキだが、それなりに成長し、物語の最後に行方不明になる事件は好きな女の子と一緒であり、悪漢の最期に同情し、親友ハックルベリー・フィンをなだめすかしもするようになる。
われわれ日本人としては、だからこのトム・ソーヤーに共感しようとしては引かざるを得なかったり、肩すかしを食らったりする。そして私たちを中途半端な状態に置いたまま、トムはどうやら成長していってしまうようなのだ。立派な「アメリカ人」へと。
私たちは、だからこの「トム・ソーヤーの冒険」を他者なる文学、生粋の翻訳小説として読まなくてはならない。それは日本文化の糧としては消化し切れないものを抱えている。私たちが肉体感覚としては理解し得ない文化も社会も、現に存在するのだ、と肝に命じることはしかし、何より教育的かもしれない。なおさらに、その一つが今や我々に最も近しいと勘違いしがちなアメリカだ、と知ることは。
実際、アメリカ文化は、その一部の母体であるはずのヨーロッパ文化よりも、あるいは未開の地の原住民の文化よりも、理解しづらいところがある。個々のアメリカ人が、いたずらっ子だが心優しい、成長しつつあるトム・ソーヤーのように単純で愛すべきであるにもかかわらず、アメリカそのものは「トム・ソーヤーの冒険」のように消化できない。
もちろん「トム・ソーヤーの冒険」は、あのアメリカ文学の源とも呼ばれる「ハックルベリー・フィンの冒険」の前身でもある。トムのように容易く馴致されようとしないハックルベリー・フィンと、より大きなアメリカ社会との対峙が目前に晒されれば、子供に目のない私たちにも消化不良の原因が微かにわかるというものだ。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■