いわゆる童話である。子供にとって難解なところはないし、大人の世界のことを知らなければならないわけでもない。が、子供たちをふるい落とすための中学受験で、必読書の一つとなっている。それも六年生ぐらいで勉強するのに不足はないとされている。
実際、宮沢賢治は童話作家たらんとして童話作家となったわけではない。その表現がたまたま童話的であり、童話として読めるというだけのことだ。童話作家たらんとした者が童話を書く場合と、それはまったく違う。
たとえば童話作家たらんとするなら、読者の年齢層を考えるだろう。しかし、たまたま童話的な表現をとる場合には、そういったことは考えない。大人から子供まで、というよりは、読者は作者と等身大、むしろ作家本人が子供であると自覚されてもいる。
このようにして書かれた “ たまたま童話 ” の魅力は、教訓臭がないことである。大人が子供に言い聞かせるスタンスとは違うのだから、当然ではある。そして童話のような形式で語られるのは相応の理由があるはずで、それはたいてい作家の社会への不適応とか、つまり裏を返せば純粋さとか、そういう切実な感じが透けて見えることになって、なかなか胸にせまる、ということになる。もっとも、それを感じとるのは大人の読者だけだが。
では六年生にもなった児童、しかし大人でもない子供に、宮沢賢治の何を読みとることを課題としているのだろうか。
たとえば表題作「注文の多い料理店」なら、その内容読解については何ということもないだろう。食べるつもりが食べられそうになる、というのが自然の山の中などに暮らしていれば、ショッキングであると同時に、実はかなり切迫したことなのだ、ということはある。他の作品にも見受けられる問答無用な残酷さはもちろん、秀れた文学作品であることの証でもあるが、宮沢賢治特有の読解の主眼というのとはちょっと違うように思われる。
文学概念における「残酷さ」というのは、人間社会において安心して暮らしてゆくためのコード、すなわち「通俗な意味性」を剥ぎ取られた、ということである。そこを感じとれ、というのは、子供には無理な相談だ。その「通俗な意味性」すらまだあやふやで、学んでいる最中なのだから。
だが子供は、いや少なくとも子供の一部は、生まれながらにして言語的な音感、リズム感を持っている。そして宮沢賢治のそれは、ヴィジュアルなイメージとともに突出して秀れている。
「通俗な意味性」を乗り越えてゆく「運動」そのものでもあるリズムを楽しめる子供であることは、どうやら選抜する立場の大人にとっても望ましいらしい。その子らの中から「詩人」が出ることが果たしていわゆる出藍の誉れに該当するかどうかの方が、実に課題である、とは思うが。
金井純
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