久保ヒャダ こじらせナイト
フジテレビ 不定期・次回放映調整中
「こじらせ系」という言葉の意味への理解をうながす番組である。もちろん、番組自体はその理解を前提にしている造りだが、多くの視聴者は初めてなるほど!と膝を打った…というほどでもないか。
しかし、たとえば「赤文字系」といった言葉なら、一度意味を聞けば誤解が生じる余地はない(男受けするメジャーな女子という王道路線を疑いなく突っ走ることができてしまう女子向けのファッションが、主に表紙に名前が赤文字で書かれているファッション誌の系統であることから言う)。
それに対する概念であるはずでもある「こじらせ系の女子」を例に挙げると、それがどういうものかについては、そのときどきで揺れ動く。そこで言葉の誤用が生じやすい。
「こじらせ」という言葉からして、そこにはまず「こじれてない」状態、まっとうな道というものが前提となっている、ということが大事だ。「こじらせ」とは、最初にそれへの距離感がある。間違えてはならないのは、メジャーへの距離感だけでは「こじらせ」には至っていない、ということだ。
この距離感を覚えている、もしくは覚えざるを得ない女子については、女子の内面に注目するようになった高度成長期以降には「オタク女」、「腐女子」、またそれ以前には、可愛い女に引け目を感じざるを得ないだろう存在としての、単なる「ブス」かつ「デブ」とかいう呼び名が付いていた。
「こじらせ」とは、老若男女を問わずにメジャーに距離感を感じているのみならず、それへの異議申し立てを行うことだ。が、「こじらせ」というインパクトのある印象を受け取る、他者目線が介在していることがポイントなのだ。
多く誤解されているように、それはやっかみからくる屈折を指しているのではない。本人のコンプレックスがいっそう深くて「こじれて」いるのではない。「こじらせ」とは「風邪をこじらせ」の用法を思わせるが、この「ら」は使役も重なっている。その異議申し立てによって、話がややこしくなっていなくてはならない。
つまりは「こじらせ系」とは若干クレーマー入っている、という意味であって、しかしたいていのクレームがそうであるように、「一理ある」。借りに99%がやっかみから生じたものであったにせよ、距離のあるところから発される批評的言説の、1%は虚をつかれて納得させるものがある。もしなければ、ただのやっかみであって、何もこじれない。
新企画の「こじらせ人生相談」は、以上のことをさらに明確化するものだ。そもそも、メジャーなマスコミの人生相談に寄せられる悩みとは、自ら「こじれて」いるに過ぎないものが多いが、それに勝手に回答する久保ミツロウとヒャダインは当然「こじらせ」を意図する。それを支えるのはむしろ、その悩みに「まっとう」に答えたと思しき、メジャーなマスコミの正規の回答のはずなのだが。
なかなか、そうはいかないもの。人生相談の回答者になるほどの人は、こじらせたぐらいじゃ済まないツワモノもいる、と素直に認めるところもまた、教育的である。
山際恭子
http://youtu.be/gJLVBnM4Z_o
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