詩は読み方も書き方も、教えられるものではない。生まれつきの感覚が多分にあるが、ではそれは一握りの者しか持ち合わせないのかと言うと、そんなことはない。子供はたいてい生まれつき、詩のリズムに反応する。だからこそ詩に早いうちから触れさせる必要があると思える。
谷川俊太郎は他の著者たちとともに、塾のテキストに作品を無断掲載されたことを問題視しているので、そういった受験用の出版物で目にする機会は多くないかもしれない。しかしながら現存の詩人の中では、大人も子供も鑑賞すべき抒情詩を最も数多く書いている。その意味で必読書中の必読書であり、選詩集全三冊は決して多すぎない。
詩なり国語なり、何かが苦手であるとなると、子供の場合はまず親が躍起になる。そうして子供の非力をカバーしてやりつつ、できるだけ効率よく他の子に追いつかせようとする。国語で言えば、いろいろな問題集をやらせたり、テキストで子供向けの文章のさまざまな断片を読ませたりする。詩であれば、なお断片として読ませやすい。と言うより、親からしてそもそも詩を断片としてしか認識していない。そして、それだから子供がいつまで経ってもできないのだ、と決して気づかない。
詩であれ小説であれ、書いているのは一人の人間で、しかもかなりの労力をかけ、命がけで書いている。断片でよいという意識で読むかぎり、そこがわからない。他人にどうしても伝えなくてはならないという切迫感だけは、秀れた作品の断片であれば伝わってくることはあるが、その著者がなぜ、それを伝えなくてはならないと思っているか、その「思想」からくる必然性は感覚的にすら把握できない。
ただ一人の作家あるいは詩人でも、その思想の核心なり美意識なりをがっちり把握した、という感覚を経験すれば、読解力は飛躍的に伸びる。なぜなら「人間」の構造は同じだからだ。それを生涯かけて表現してゆく方法は人それぞれのバリエーションはあるが、それがそこに書かれ、目の前に出現するに至るという事態が起きた「必然」は、自分も含めた「人間」の営為として当然の帰結だ、と感じることが第一歩であり、すべてでもある。
谷川俊太郎の、そのごく若いデビューから今日までに連なって表現されている「人としての孤独」。その感覚は、むしろ少年の日にこそ敏感に、また切実に感じられるものだ。その孤独感を透徹して見つめることで透明な世界が現出し、そっと伸ばされた指に他人の指が触れる。極めてピュアな喜びをもって、他者との出会いがある。その瞬間、巨視的な広がりをもった宇宙、世界がしゅっと身近な、温もりのある日常へと戻ってくる。それへの理解に、大人だから子供だからという区別はない。
谷川俊太郎を、それも詩選集 1~3 を読むべきなのは、このような誰もが覚えのあるピュアな感覚を表現した秀作が、たまたま出来た一篇か二篇というわけではない、と確認するためなのだ。処女詩集『二十億光年の孤独』から60年後の今日に至るまで、谷川俊太郎は成長したり、結婚の情景を描いたり、社会性をにじませたりしながら、基本的には変わらない。そのことは読む者を深く説得する。人が人に心底説得されるということは、人というもののあり様を心底納得する、ということに繋がるのだ。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■