『ゼロ・ダーク・サーティ』Zero Dark Thirty 2013年(米)
監督:キャスリン・ビグロー
キャスト:
ジェシカ・チャステイン
ジェイソン・クラーク
ジョエル・エドガートン
上映時間:157分
イラクで活躍するアメリカの爆弾処理班が体験する危険な日常をサスペンスと絡めて描いた『ハート・ロッカー』The Hurt Locker(08)でアカデミー賞作品賞と監督賞をW受賞したキャスリン・ビグロー監督の最新作。
『ハート・ロッカー』は戦場の最前線で活躍する男性兵士を主人公にしていたが、本作『ゼロ・ダーク・サーティ』では逆に戦争の舞台裏で活躍する女性CIA諜報員を主人公にしており、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロから2011年5月のオサマ・ビンラディン殺害作戦までを描いている。
アカデミー賞最有力候補と謳われ、5部門でノミネートされる一方で、本作はCIA関係者の証言に基づいて脚本が構成された作品でもあり、「米政府が隠し続けた衝撃の真実、ここに解禁!」「本当は何が行われたのか?」という宣伝文句が呼び物となった。またハリウッドの巨額の予算によって創られたビンラディン潜伏場所と同じサイズの建物や現地ロケ、数多くのエキストラや望遠レンズを多用した撮影法など、<証言>という<真実>により説得力をもたせてくれるだろう一種の「リアリティ」が本作の一つの巧妙さとも言われている。
確かにハリウッド映画ならではの巨額の予算を投じた現実味や観客を映画館に運ばせる訴求効果、これまでほとんど知られることのなかったビンラディン殺害作戦の全容などは、非常に魅惑的であり、それこそが本作の唯一の価値にも見えてくる。だが本稿では少し視点を変えて、人間ドラマという観点から『ゼロ・ダーク・サーティ』が有する表現性と価値を分析してみることにしたい。そして最終的に近年大変注目を浴びている女性監督キャスリン・ビグロー作品にもスポットを当てて、彼女の骨太作品の魅力についても考えていくことにしたい。まずは本作における登場人物の心理表現について見ていくことにしよう。
■視線と虚脱の先に…■
ハリウッド映画は「わかりやすさ」の中で人物の内面を表現し、観客の心を突き動かしてきた。ある作品では主人公が涙を流しながら自らのトラウマを話したり、虚ろな眼差しで罪悪感を暴露したりもし、又ある作品では怒りや憎しみ、喜びや哀しみ、愛までも言葉で伝えようとする。登場人物がどのように考えて行動に至ったのか、そしてどのような心理でいるのかを明確に示し、たとえサイコ・キラーのような人物でも「狂人」「理解不能」という明解さが前提にあったように思われる。議論と対話の文化が根付いている欧米諸国ならではの表現と言えるかもしれないが、それこそがハリウッド映画における一つの本質的な特徴であり魅力でもあった。言語が異なる世界配給が前提的なハリウッド映画にとって、「わかりやすさ」は非常に重要な要素であったことは間違いない。
だがその一方で、観客に人物の心理を明確に伝えず、その答えを観客に委ねてきた作品が映画のみに関わらず様々な作品において常套手段となっているのも事実である。キャスリン・ビグロー監督の『ゼロ・ダーク・サーティ』も登場人物に自らの心理を喋らせない作品の一つであり、彼女らが一体どのような心理で仕事に従事し、あらゆる結果について何を思い考えているのかを決定的な台詞によって暴露しようとはしない。
女性分析官マヤを除いて他全てが男性の会議で彼女が男女差別を受けるシーンでもマヤは自分のことを「隠れ家を見つけたクソ野郎です」と自虐的に話すだけで、それ以上の言及はない。死んだ同僚の女性や眼をそらしていた拷問に対しても決定的な心理を暴露することはなかった。ビンラディン殺害作戦の際にもテロリストの男性とその妻を射殺した兵士やビンラディンを射殺した兵士は突然仲間に「奴を撃った」「男と彼の妻を殺した」と意味ありげに何かを訴えようと呟くだけで、それ以上のことを話そうとはしない。仲間も「そうか。手伝え」と言うだけで、極端に説教をしたり、感情を露わしようとしたりはしない。
イラクで起きた実際のアメリカ兵による強姦殺人事件をフェイク・ドキュメンタリータッチで描いたブライアン・デ・パルマ監督の『リダクテッド 真実の価値』Redacted(08)で兵士たちの戸惑いや苛立ちや怒りと哀しみが台詞や態度によって極めて明瞭に示されていたように、ハリウッド映画の基本はわかりやすさにあるが、本作にはそうした明確さが暗部として意図的に隠されていたように思える。だが本作は単に台詞を排除するという脚本上の演出によって魅力的となるわけではない。本作『ゼロ・ダーク・サーティ』の一つの魅力は、登場人物たちの心理を人物の視線と表情によって語り、そうした曖昧な表現性によって、「内的葛藤と苦闘の果てに滲み出た虚脱」と「行く先の見えない終末感」という特殊な心理を匂わせている点にあると思う。
事実、テロリストとその妻を撃ち殺した兵士を映すシーンで、カメラは暗視ゴーグルによって緑色に照らされた兵士の眼をクロース・アップする。立ちつくし、暗視ゴーグルを通して死体を見つめる兵士。そしてビンラディンの死体を見つめる兵士たちの視線や表情、基地で「奴を撃った」と仲間に漏らす兵士の虚ろな眼差しは、一体何を観客に提供しているのだろうか。それは観客にしかわからない。これらの何気ないワンシーンの数々は本来であれば物語とは関係のない描写である。にもかかわらず本作は、台詞を排除することによって(又は彼らの些細な仕草や視線を視覚的に捉えることで)意図的にその点を強調していた。クロース・アップされる視線と不可思議な表情の強調の数々は、ハリウッド映画を見慣れ、アクション活劇を期待するものにとって少々退屈かもしれないが、少し視点を変えて彼らや彼女らの曖昧な視線や表情、言動に着目して見れば、何かを感じさせられずにはいられない大変に刺激的な157分となるに違いない。
しかも本作で表現されているのは、喜怒哀楽の枠に収まるような日常的心理ではないことにも注目してほしい。本作で彼らが抱えるのは、軍という国家防衛のもとで働く人たちの心理であり、それは大抵の観客には想像もつかないような心理である。彼らは一体どのような考えで仕事をしているのか。それすらもわからず、様々な登場人物が出てきて、様々な感情や心理を些細な視線や表情の強調によって視覚的に語られていくわけだから、これほどまでに曖昧で知的で刺激的な心理表現は類を見ない。
ラスト・シーンは、視線と表情だけで曖昧な心理を表現した描写の極致と言える。高校卒業から十数年間ビンラディンの追跡に従事してきた女性分析官のマヤ。ビンラディン殺害という10年以上にわたる任務を全うし、一人で軍事飛行機に乗る彼女はパイロットに「どこへ行きますか?」と聴かれるが、答えられない。カメラはバスト・ショットで彼女を正面から映す。そして彼女の眼からは涙がこぼれ、虚脱的表情のまま幕を閉じる(上記図)。
虚無感の漂う表情を備えたジェシカ・チャスティン(マヤ役)は、このラストについて「マヤは高校を出てから十年間、ビンラディンだけを追い続けてきたから、底なしの虚脱感に襲われたのでしょう。その感覚は、私がビンラディン殺害のニュースを聞いた時に近いかもしれない。決して「やった!」ってガッツポーズするんじゃなくって、「…そう…死んだの……」としか言いようがない感じ。それで一つの輪が閉じたわ。この十年間は何だったのか……。911テロと、それに続くアフガンとイラクの戦争で死んだ何十万人以上の人は帰って来ない。そしてマヤもまったく違う、自分の知らないマヤに変わってしまった…」と述べているように、本作のラスト・シーンは、まさしく911以降に大量破壊兵器が見つからず当てのないまま流れてきた十年間という年月を顧みてしまったアメリカの虚脱感の表象とも読み取れるだろう。又、本シーンはマヤ自身の内的葛藤の結論として訪れた個人的な空虚感としても示唆的であり、何も語らないことで何かを表現した「眼差し」と「表情」は心理表現の表現要素として極めて効果的であったように思える。
しかしキャスリン・ビグロー監督のフィルモグラフィにおいて、内的葛藤や壮絶なる格闘の末に到達した虚無感や虚脱感の表現は『ゼロ・ダーク・サーティ』に限定されるものではない。むしろ格闘の末に訪れる虚脱感と空虚感は、キャスリン・ビグロー作品の主要なテーマであるように思える。次項ではビグロー作品において特徴的なテーマを分析し、『ゼロ・ダーク・サーティ』の位置付けを考えたいと思う。
■キャスリン・ビグロー、お前は誰だ?■
新人の女性警察官がスーパーの強盗を射殺するが、犯人が彼女に向けたはずの拳銃が紛失していた。発砲の正当性が疑われ停職処分になる彼女の前に一人の男が現れ、恋愛関係になる。だが、その男こそスーパーに居合わせて犯人の拳銃を盗んだ張本人であり、殺人に快楽を覚えるサイコ・キラーだった。彼はストーカーと殺人に熱狂し、ついに彼女と対決することになる。
キャスリン・ビグロー監督の『ブルー・スチール』Blue Steel(90)は、男性社会である警察署内で男女差別に葛藤しながらも女性警官としてサイコ・キラーと孤独の戦いを繰り広げることになるスリラー作品。本作のラスト・シーンは『ゼロ・ダーク・サーティ』とよく似ている。上の図を見ていただきたい。かつて愛したサイコ・キラーを(無防備であったにも関わらず)自らの判断で撃ち殺したヒロイン。パトカーで虚ろな眼差しを浮かべながら俯いている。同一ショットで男性警官に支えられながら車外にだされてどこかに連れていかれていき静かに幕を閉じるこのラスト・シーンは、『ゼロ・ダーク・サーティ』と同じく女性主人公が内的葛藤と格闘の行く末に見た虚脱感そのものではないだろうか。さらに『ブルー・スチール』でもヒロインが無防備のサイコ・キラーを撃ち殺したこと(違法の発砲)に対する彼女自身の弁明や訴えはない。なぜ彼女は彼を撃ち殺し、その後に彼女は何を思い、何を見つめているのか。映画は、その点を明らかにしないまま幕を閉じていく。
さらに19世紀に起きた小島での殺人事件の真相を追う現代の女性作家が体験する歪んだ性愛事件を過去との回想と共に描く『悪魔の呼ぶ海へ』The Weight of Water(2000)でもラスト・シーンに待ち受けるのは夫を失い、何かを悟ったヒロインの虚無的眼差しである(上記図)。タバコを吸いながら海を見つめる彼女が本当に見ているのは何なのか。明確に彼女の心理や登場人物の考えを明らかにせず、固定化されたキャラクターを確立させない作劇術と人物描写は、ビグローの作家性を感じさせられる。
一方、ハリソン・フォードとリーアム・ニーソンの共演が話題になった『K-19』K-19: The Widowmaker(02)は、実在した米ソ冷戦時代の原子力潜水艦を舞台に危機的な状況下で任務を遂行する男たちの苦闘を描いた作品で、こちらも過酷な内的葛藤を抱えて部下と共に歩む主人公がかつての仲間たちと再会するラスト・シーンは、驚くほど感傷的であった。彼らの言葉よりも彼らの表情や眼差しが、雄弁に彼らの苦闘の結末を物語っていたように思う。
他にもアカデミー賞受賞作品の『ハート・ロッカー』も爆弾処理班の麻薬的な危険に興奮しながらも憂鬱な表情を浮かべる主人公の表情(アメリカに帰ってきて、しばしの休暇を家族と共にすごしながら見せる横顔(上記図))は、野獣のような勇敢さと獰猛さで爆弾を解除する現場での彼の仕事姿とは恐ろしくかけ離れていて、見えない敵との戦いの末に見える虚無感を体現していたように思える。そして再び防護服を身にまといながら戦場へと向かう彼の後姿は、「格闘と虚脱、そして再び格闘」という終わりなき囚われの世界として暗喩的であった。
このようにキャスリン・ビグロー作品における内的葛藤の末に訪れる虚脱と得体の知れない登場人物の心理表現は、一つの作家性と言っても過言ではない。登場人物の想いを曖昧にし、一般的に抱くことのないだろう複雑で想像し難い心理を観客に問いかける心理表現の数々は、どのような実話的物語よりも刺激的でありミステリアスだ。その意味で『ゼロ・ダーク・サーティ』は、彼女のフィルモグラフィにおける集大成と言えるかもしれない。
男性社会で戦う女性主人公。10年間という格闘の日々。そして突如訪れる戦いの終わり。さらにその先には何があるのだろう。本作の最後の台詞となる「どこに行きますか?」という問いかけは、ビグロー作品の作家的問いかけであると同時に、今後の彼女の作品の行き先を暗示するものであった。作戦時刻の軍事用語でもある『ゼロ・ダーク・サーティ』、それは文字通り、暗闇の少し先を描いた映画である。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■