『傷だらけの天使』
・放送期間 昭和49年(1974年)10月5日~昭和50年(1975年)3月29日
・時間 毎週土曜日22:00~22:55PM
・系列 日本テレビ系
・放送回数 全26話
かつて「テレビ映画」というジャンルが存在した。現在では滅多にお目にかかることもないが、フィルムで撮影されたこれらのドラマは、1970年代の日本のテレビにおいては、質・量ともにビデオドラマと拮抗する重要なジャンルであった。それはフィルム特有の粗い画面によってたしかに映画を彷彿とさせるのだが、テレビという装置を経由したことでなにがしかの変容が生じた(映画にとってもテレビにとっても)奇妙な異物である。これから、「テレビ映画」独特の魅力とその批評可能性について考えていきたいと思う。
今回取り上げるのは、1974年から75年にかけて日本テレビ系列で放送された『傷だらけの天使』である。言わずと知れたテレビ映画の傑作だ。萩原健一(修)と水谷豊(亨)という絶妙なコンビによる絶妙な掛け合いは、画面から溢れ出てくる彼らの身体運動の強烈なエネルギーと相まってこのドラマに驚くほどの活気を与えており、どの回も文句なしに面白い(私はCS「ファミリー劇場」の再放送によってこのドラマを現在初めて体験しているが、実はまだようやく半分の第十三話までを見たところである。視聴率の低迷によって軌道修正したとされる後半については別の機会に改めて論じたい)。
物語は一話完結。主人公の二人が毎回、岸田今日子(綾部)と部下の岸田森(辰巳)が仕切る怪しげな探偵事務所から厄介な仕事を依頼され、その解決に奮闘するという大枠のみが設定されており、このシンプルな設定がそれぞれの回のオリジナリティの発揮に大きく寄与している。メインライターは市川森一。このドラマはしばしば彼の代表作としても言及されるが、全体にそこはかとなく漂う物憂げな雰囲気の構築は市川の優れた脚本の功績だろう。
しかし、である。実際に映像を見て一番驚いたのは、とにかく台詞が全然聞こえないということであった。ロケーション撮影による都会の喧噪が台詞をかき消すばかりではない。俳優たちは視聴者などお構いなしに小さな声でぼそぼそとしゃべったり、逆にまくしたてるようなマシンガントークを繰り広げたりで、話されている内容そのものにちっとも注意が向かない。なによりも萩原健一のあの威勢のよい罵声である。その声はあまりにも大きいため、いつも音が割れてしまっている。そもそもこのドラマはオープニングからして音が良くない。薄っぺらい板かなにかで作ったような黒い幕が左右に開くと、そこにはヘッドフォンとゴーグルを付けたままベッドに寝そべる萩原の姿がある。足を少し持ち上げ、その反動を利用して彼がぐっと勢いよく起き上がるのと同時にテーマ曲が流れ始める。井上堯之バンドの軽快な音楽だ。しかし、その音楽はやや遠いところから聞こえてくるようであり、CDで聞くような明瞭な音質ではない。まるでわれわれも萩原と同じヘッドフォンを装着させられているかのような音のこもり方だ。
私はこの作品をHDリマスターされたCS放送によって見ているが、それですらこうなのだから、当時の放送を見ていた視聴者にとって、それは台詞の言い回しから複雑な心理描写を読み解くようなドラマとは異質のものであっただろう。要するに、決して脚本の意義を低く見積もるわけではないのだが、われわれが実際に映像上で目撃しているものは、文字として書かれたものとも発せられた言葉とも違う別の何かなのだ。ドラマを脚本家の作品として理解するのでは到底汲み尽くせないテレビ映画の豊穣な魅力が、フィルムという媒体を介してここには現れているのである。
第一話、第二話の演出を担当した深作欣二は、テレビ映画の仕事に関するインタビューでテレビ特有のスピード感を指摘されると、「ゆっくりと構えてたら話の嘘がバレバレになっちゃう(笑)」と述べているが(『映画監督 深作欣二』、221頁)、深作の言う通り、その荒唐無稽なストーリーとなるとほとんど思い出すことができない(何せ台詞が聞こえないのだからストーリーなどそもそもわかるはずもない)。記憶にあるのは、轟音を立てる山手線の電車をバックに警官隊と乱闘を繰り広げる萩原や、手錠をかけられた萩原を後部座席に乗せた車が派手に横転し、そのすきに全速力で走り去っていく彼の後ろ姿だったり、あるいはクライマックス、車に乗り込もうとするやくざを振り払うために、これでもかというぐらいに砂埃を立てながら車を激しく運転する際のカメラの回転運動などといった、過剰な運動の数々である。こういった見方は多分に映画的(ゴダール的?)な見方だろうか。しかし、工藤栄一が演出した回を見ても、狭い部屋の中や通路などで大勢の男たちが激しい乱闘を繰り広げる様子が特に鮮明に思い出されるのだが――まるでカメラマンも一緒にこの乱闘に巻き込まれているかのような映像だ――、そこには並々ならぬエネルギーが溢れ、画面全体に躍動感がみなぎっている。
しかし一方で、神代辰巳による演出は、単に激しいアクションとは一線を画しており、そこには見る者を唖然とさせるような驚くべき身体運動が刻印されている。第四話の一場面、画面後方から土手の上を萩原と水谷がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。彼らは互いの背中を押したり、ひざを後ろから蹴ったりして無意味に戯れており、横顔をこちらに向けたまま地べたに座り込む。そこで萩原は水谷の肩に腕をまわし、そのまま二人は目の前の斜面をゆっくりと滑り降りるのだが、カメラもその動きと並行して緩やかな移動ショットを形成する。萩原は持っていた手榴弾を取り出し、それをわれわれの方へめがけて思い切り投げつける。手榴弾を画面におさめるため、一気にズームアウトするカメラ。爆発。
この約1分間にわたる長回しの場面の魅力を言葉で説明するのは非常に難しい。それは物語の進行にはほとんど寄与しない、二人の仕草をただ単に記録してみせたかのような無償の映像である。『傷だらけの天使』にはこういった映像が実は多く、それが監督それぞれの手腕の見せ場にもなっている。ドラマ自体の長さはオープニングとCMを除いて正味45分であり、この制約が物語の展開を必然的に早め、そのテンポのよさが圧倒的な魅力であったことは間違いない。しかし、そういったスピーディな物語の随所から湧き出てくる奇妙な「停滞」の中にも独自の躍動感を見出すことができるのであり、それが実に心地よい。神代が担当した第四話では、プールサイドの鉄棒にぶらさがる岸田森をホーン・ユキがおんぶするまでの両者のしなやかな身体運動をとらえた長回しもまた素晴らしい。
もう一つ例を挙げてみよう。鈴木英夫が演出を担当した第十話に次のような場面がある。萩原と水谷と小松政夫、三人のうち誰かが身代わりで刑務所に行かなければならない。小松の部屋で相談を始めるが、互いが相手のことを思うふりをしながらも自らがブタ箱行きになるのを懸命に避ける様子がコミカルなタッチで描かれる。どうにも決まらないために、トランプを使い、一番小さい数を引いたものが行くことになった。最初に小松が「12」を引き当てる。安堵の笑みがこぼれる。次の水谷が引いたのは「3」だ。落胆の表情。一方の小松や萩原は内心の喜びを隠せず、「しょうがないよ、お前にはまだ未来があるよ」などと言ったりしながら、水谷を外へと送り出そうとする。水谷も玄関までしょぼしょぼと歩いていくが、ふと気がつき顔を振り向かせる。「兄貴、引いたっけ?」「俺はいいよ」「いやそりゃ引かなきゃだめだよ」。萩原が引く。数字は「2」だ。水谷から思わず笑みがこぼれる。最後まで往生際が悪かった萩原だが、結局彼が刑務所に行くことになり、次のシーンの冒頭では萩原の逮捕を伝えるニュース映像が画面を満たしている。
この一見何の変哲もないトランプのくだりが、実に5分ほども続く。実際、それを見ているとその長さが引き起こす物語の停滞ぶりに心底驚いてしまうのだが、その間、われわれは何か生々しい記録映像を目撃しているかのよう奇妙な錯覚にとらわれる。
おそらく「深作欣二」や「神代辰巳」といった監督名を目印にして『傷だらけの天使』の特定の回だけを見てもそれほど感動はしなかったかもしれない。いや、感動はするのだが、それは「ああ、(映画で知っている)いつもの深作の、神代の面白い演出だな」と思うだけだろう。しかし、第一話から順にこのテレビ映画を「連続ドラマ」として見ていると、各回ごとの監督の独自性がより明確になり、その中でもまた特に、その圧倒的なオリジナリティにおいて神代の演出に度肝を抜かれたりするのである。これは連続ドラマという形態が可能にした特性だろう。躍動する画面(深作、工藤)と停滞する運動(神代、鈴木)の鮮やかな対比が生まれているのだ。こういったことがテレビ映画の醍醐味の一つなのかもしれない。『傷だらけの天使』は単に個々のエピソードがそれぞれ「映画的」であるから優れているのではなく、「連続ドラマ」としてこそ楽しむべき「テレビ映画」なのである。
木原圭翔
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■