『シャッターアイランド』Shutter Island 2010年(米)監督:マーティン・スコセッシ
監督:マーティン・スコセッシ
キャスト:
レオナルド・ディカプリオ
マーク・ラファロ
ベン・キングスレー
マックス・フォン・シドー
上映時間:138分
1954年、重度の精神病を患う犯罪者たちを収監する島で一人の女性患者が脱走したという知らせを受けて島へと調査に出向いた連邦保安官のテディ(レオナルド・ディカプリオ)と新しく彼の相棒となったチャック(マーク・ラファロ)。島の責任者である医師(ベン・キングスレー)に案内されながら捜査を進めていくうちにテディは島に隠された秘密に気づきはじめる。何かがおかしい…。やがて彼は酷い偏頭痛に悩まされ、幻覚を見るようになっていた…。
本作は巨匠マーティン・スコセッシとレオナルド・ディカプリオが四度目のタッグを組んだ本格ミステリーであり、しばしば「衝撃のラスト」や「どんでん返し」が一つの呼び物になっていた。しかし本作は『シックス・センス』The Sixth Sense(99)や『アザーズ』The Others(02)のように「主人公は既に死んでいた」「全て主人公の妄想であった」という繰り返し採用されてきたプロットを最大の魅力にはしていないし、そうした展開を最終的な「結末」にはしてはいない。
事実、本作は「すべて主人公の妄想だった」という展開を終盤に挿入し、すべての謎が明らかになったと見せかけ、最後の最後に本作が最も強調していた1950年代的及び社会派的主題を暗示させていた。すなわち赤狩りの恐怖である。本稿では、この「赤狩りの時代」というキーワードと共に『シャッターアイランド』のテーマと映像表現の価値に迫っていくつもりであるが、まずは「赤狩り」の主題について考えていくとしよう。
■赤狩りとシャッター■
本作の舞台である1954年という時代は共産主義者との全面戦争に突入した時代であり、アメリカ国内で共産主義者を告発する動きが見られた赤狩りの時代であったことはよく知られている。アメリカ国内では共産主義者はもちろんのこと、コミュニストに協力したり匿ったりした市民が公然に逮捕され、投獄されるまでになっていた。さらに赤狩りを非難する者がいれば「共産主義者だ!」と言われ、権力者は共産主義者を逮捕すると彼らに仲間を売るように促す。まさに隣人が隣人を共産主義者ではないかと疑う時代、あるいは言論と思想の自由を抹殺する時代でもあったと言えるだろう。
そうした50年代における共産主義者の恐怖をハリウッド映画はホラーやサスペンスといった娯楽作品に乗せて暗喩的に描き、プロパガンダ的な思想を観客に提供していた。謎の生命体が人々に寄生し、世界中が感情のない画一的な人間になっていく恐怖(共産主義者の恐怖)を描いた『ボディ・スナッチャー 恐怖の街』Invasion of the Body Snatchers(56)はその典型であるし、放射能の影響で巨大化したアリが都会の地下に棲みつき大繁殖をしていく恐怖を描いた『放射能X』Them(54)などの50年代におけるSFホラー映画もしばしば共産主義者蔓延の恐怖を描いた作品だと言われている。
だがその一方で共産主義者を迫害する「赤狩り」そのものを恐怖として描いた作品もある。ロバート・デ・ニーロ主演の『真実の瞬間』Guilty by Suspicion(91)やジョージ・クルーニーが監督・主演を務めた『グッドナイト&グッドラック』Good Night, and Good Luck(05)は直接的に赤狩りの恐怖を正面から問いかけた作品の中でも有名な作品の一つである。
本作『シャッターアイランド』は、そうした赤狩りの恐怖を暗喩的に描いたハリウッド映画の代表作ではないだろうか。『真実の瞬間』にも出演していたマーティン・スコセッシ監督の『シャッターアイランド』は、言論と思想の自由が事実的に弾圧されていた赤狩りを暗喩的に描いた幻想ミステリーであり、社会派ミステリー映画の秀作と言える。では本作『シャッターアイランド』は赤狩りの恐怖をいかにして描いていたのだろうか。この問題を明らかにするために、まずは本作の核となる物語を分析してみることにしよう。
一人の女性患者の失踪を追ううちに主人公のテディ(レオナルド・ディカプリオ)は島の人たちの奇妙な振る舞いに疑問を抱き、島に隠された秘密、すなわち囚人に人体実験をしているという闇の実態を明らかにしようとする。だがその一方で彼は島に着いてから現実か夢か判断できぬほどの幻覚に悩まされていた。火事で死んだ妻、ナチスのユダヤ人収容施設で目撃した地獄絵図と自分たちがしたドイツ兵虐殺のトラウマ。彼は過去の心の傷を幻覚として見ていた。そして脳を弄って感情を削除するロボトミー手術の実験をしているという灯台へと彼は向かうが、そこで相棒のチャックが行方不明になり、彼を救出するためにも灯台へ侵入していく。しかしそこはただの灯台であり、もぬけの殻。最上階では島の責任者である医師が座っていた。そして医師は彼に告げる。テディの本名はアンドリュー・レディスであり、アンドリューは子供殺しの妻を殺害した精神病患者であるということを。又、彼が現役の連邦保安官であるということや火災で妻が死んだこと、テディという人物までもが、全て彼自身(ディカプリオ)が作り出した妄想であるということが明かされるのだ。おまけに彼の相棒であったチャックは、実のところ彼の担当医であったことも告げられる。
そしてテディは当時のことを思い出し、医師たちに囲まれながら自分が犯してきた罪や状況、自分が本当は何者であるかを語っていく。ここまで見ると「すべて主人公の妄想であった」という結末になるだろう。だが、その後、ディカプリオ演じる主人公のテディは、担当医であるはずの相棒のチャックに「この島を出たほうがいい。こんなところにいてもロクなことにはならないぞ」と密かに呟く。チャックは責任者の医師に彼が治っていなかったことをアイ・コンタクトで合図し、島の権威たちは彼にロボトミー手術を受けさせるために動き出す。そこでテディは「心配するな。奴らは俺たちを捕まえられない」と言い、チャックは「あぁ、俺たちの方が奴らより賢い」と彼に話を合わせる。そしてテディは、そんな彼を見透かしているかのように意味ありげに囁く。「ここにいると考えるんだ…。どっちが悪い方向に向かうだろうか…。モンスターとして生きるか、善人として死ぬか」。
このラストは主に次のような解釈ができるだろう。サイレント映画の傑作『カリガリ博士』の如く、すべてが主人公の妄想であり、正気に戻ったラストでも未だに主人公は過去に悲観し、死を選択するという物語がそれである。他にも様々な解釈の幅があり、本作は意図的にその幅が広げられていた。そこで筆者は一つの解釈を論じたいと思う。それが「赤狩り」との関連である。
赤狩りという文脈で見た場合、原作者のデニス ルヘインが『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』を織り交ぜたと語っているように、本作は共産主義者を隔離して薬によって幻覚を見させ、あたかも狂人であるかのように見せかけたところで、患者にロボトミー手術受けさせるか(自由思想の抹殺=投獄)、あるいは密告者(仲間を売って生き延びる)に成り果てるか、のどちらかを選択させる物語を有した作品、つまり「赤狩り」の黒歴史をファンタジックに描いた作品だと見ることができるだろう。
言うまでもなく、筆者の解釈によれば、相棒のチャックは、赤狩りにあい、権威側について、密告者に成り果てたのではないだろうか。そのように見れば「どっちが悪い方向に向かうだろう…。モンスターとして生きるか、善人として死ぬか」(Which would be worse, to live as a monster or to die as a good man)という台詞は、テディがチャック(密告者)に向けて放った究極の嫌味であり、アイデンティティと信念を曲げないことの重要性を説いたものに他ならない(このシーンで一瞬、テディは憐みの眼差しをチャックに向ける)。ロボトミー手術を受けてしまうことを怖れて密告者(モンスター)に成り果てて生き延びるか、あるいはアイデンティティと思想と言論の自由を貫いて(善人として)生きるか、という二つの選択肢を突きつけられた時、テディは(チャックとは異なり)善人として、個人の自由とアイデンティティを訴えて死んでいくことを決意したのだと考えられる。
そうした彼の勇気ある決断は、火事で失った亡き妻の亡霊と罪悪感という「遠ざけてきた過去」と真摯に向き合い、残忍で過酷な体験を受け止めることと結びつき、それは自己の信念とアイデンティティ、自身の存在そのものを骨に焼き付けていくこと、つまり「犯されない精神」を抱えて死んでいく覚悟を表明したものと読み取れるだろう。ラスト・ショットで映し出される灯台は、(施設と思われたが、もぬけの殻だった)「虚構」と(最上階にいる医師のイメージ)「権威」の象徴であり、主人公が口にシャッター(shutter)を下ろされてしまうイメージを暗示していたように思う。
結末の解釈がなんにせよ、本作が記憶や思考の自由と抑圧、権力と市民の従属関係と迫害を描いていることは間違いないだろう。洞窟の中に住んでいた女性と対話するシーンで「黒幕は政府だよ。あんたはハメられたんだ」「ドイツはユダヤ人を、ソ連は囚人を、我々はシャッターアイランドの患者を実験台にした」という台詞からも(たとえ主人公の妄想であったとしても)本作がアメリカの黒歴史である「赤狩り」の汚い仕事を主題に添えていることがわかる。
その意味で『シャッターアイランド』は、医師や政府といった権力や権威の罠にはまり、思考や記憶を消されてしまう言論・思想の自由が抹殺された時代、すなわち赤狩りの時代を暗喩的に描いたミステリー作品と言える。だが本作は「解釈の多様性」と「社会派映画としてのテーマ」や「赤狩りに対する批判を積極的に行うスコセッシ的作品」として愉しめるだけではない。『シャッターアイランド』の最大の価値は、ジャンルを忘却させ、ジャンルの枠を越境する幻想シーンや悪夢シーン、および作品全体を取り巻く妖しげな雰囲気と世界観の表現性にあるのではないだろうか。中でもディカプリオの鋭い苦悩的眼差しと彼の背景を取り巻く絵画のようなミザンセーヌに注目していただきたい。
■苦痛の正面、破滅的な背景■
『シャッターアイランド』は脚本の段階で非常に魅力的ではあるものの、本作を幻想ミスリーの傑作に至らしめているのは、映像表現の分野の貢献が大きいと思われる。そもそも本作に謎と奇妙さを提供しているのが、プロットだけではないことに注目してほしい。事実、船に乗って島にたどり着いた連邦保安官が島の責任者に女性囚人脱走の経緯を説明され、異様な悪夢を見るというプロットは、簡易的なミステリー(謎)しか生み出してない。本作が非常にミステリアスだとすれば、それはスクリーン全体から滲み出る「異様さ」の表現があるからではないだろうか。
とりわけディカプリオの顔を正面からクロース・アップしたショットが多いことに注目されたい。映像は人物の表情だけを強調することはせず、むしろ人物の背景に映る暗闇や美術を異様な世界観で写し、奇妙なワンショットを提供していたように思えるのだ。すなわち「正面を見つめる人物」と「破滅的で異様な背景」の合成である。それが最もよく表れているのが車を爆破するシーンである。
亡き妻と少女がマリアの如く神秘的に佇み、爆発による炎が彼女らを包む。しかし彼女たちは燃えることはなく、まっすぐ正面を見つめている。また死に行くドイツ兵を見つめるディカプリオのショットやマッチの火で照らしながら牢獄を進むシーンでも背景がグロテスクなまでに美しく描かれ、ディカプリオの苦痛的表情と重なる。そうしたグロテスクなほどに美的な背景と人物の顔は、『カジノ』Casino(95)や『ケープ・フィアー』Cape Fear(91)『ディパーテッド』The Departed(07)から人物の魅惑的で印象的な仕草(ほとんど偶発的な仕草)を引出し、カメラに収めていくスコセッシ作品をより深化させたものとして価値があるだろう。勿論スコセッシの背後には撮影監督のロバート・リチャードソンの存在があることも忘れてはいけない。
『カジノ』や『イングロリアス・バスターズ』Inglourious Basterds(09)『ヒューゴの不思議な発明』Hugo (11)などの撮影監督として知られ、アカデミー賞撮影賞を受賞しているロバート・リチャードソンの仕事は、悪夢のシーンや回想シーンで見ることができる。まるでポスターを連続的に見ているかの如く洗練されたフレームの構図は、スコセッシ作品における表現の可能性をより拡張させるものとして大変に興味深い。『シャッターアイランド』『ヒューゴの不思議な発明』に続いてスコセッシ作品がどのような映像表現で魅せてくれるのか、愉しみなところである。それともう一つ。『シャッターアイランド』だけではなくスコセッシ作品に見られる声の銃弾も忘れてはならない。
■スコセッシ作品の台詞、あるいはサウンドの銃弾■
スコセッシ作品の一つの魅力は台詞回しにあると考えるのは私だけではないはずだ。ジョー・ペシやロバート・デ・ニーロ、ディカプリオの会話から滲み出る覇気は、壮大なサウンドよりも観客の胸に突き刺さる強度がある。それ故(ほとんどの外国映画がそうであるように)スコセッシ作品において吹き替えは作品の魅力を大きく削ることになるだろう。もはや文章で説明することはこれ以上不可能なため、実際に劇場で体感してみてもらえれば良いわけだが、弾丸のように放たれて突き刺さる台詞のダイナミズムは『シャッターアイランド』において十分に機能していた。
ここで重要なのは『シャッターアイランド』が、そうした従来のスコセッシ作品の魅力に溢れる一方で、グロテスクで美的な背景と顔面の相互作用と異化効果が奇妙で謎めいた雰囲気を醸し出しているという、ある種の作家性と革新性の両方を兼ね備えているという点である。その意味で本作は、謎を前面に押し出し、「どんでん返し」を魅力にしただけの作品では収まりきれない価値と魅力のある映画作品と言えるだろう。勿論そうした表現性の巧妙さの数々と社会派的主題が、本格ミステリーというジャンル映画の中で表現されていた点も評価したい。そして映画の多面的魅力を武器にするスコセッシ映画の今後に期待である。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■