物語の趣向としては、非常によくあるものである。いわゆる別世界へ入り込む系、典型的なファンタジーだ。
「私」はときおり「すきま」に落ちる。どの瞬間にそれがやってくるのか、わからない。道に迷ったときであったり、しょうゆさしを倒したときであったり。行く先は、小さな女の子がお皿と暮らしている世界だ。
別世界が常にそうであるように、そこではお皿が車を運転したり、ふろしきの夫婦が叫んだりする。しかしながら最も本質的な違いは、時間の流れにある。
「私」がこちらの世界に戻ると、離れたときから時間は経っていない。しょうゆさしが倒れた瞬間に戻るわけだ。一方、久しぶりにあちらの世界に行くと、そこを去ったときから時間が経っている。一年前、あるいは八年前に急にいなくなったと、お皿に怒られる。しかし小さな女の子は小さな女の子のままである。逞しくて、何でもできるが。お皿もお皿である。感情の起伏が激しくなると、割れたりはするが。
彼らは「私」が会うたびに様子が違うといい、それが気に入らないらしい。結婚して子供を生んだり、歳をとったりしているだけだが、女の子は「お客さまは選べない、ちょっとへんでも仕方ない」と歌っていた。
そういう普通の「変化」というのは確かに、彼女の言う通り、「ちょっとへん」なのかもしれない。まともなものは変わったりしないのかも、と思わせるところがある。
江國香織は「変化」を拒絶する作家である。観念的な作家だ、と言ってもよい。世の中の事象はすべて変化するが、観念だけは変化しないからだ。音楽も変わらない、とどこかで書いていた。
そして人間に変化や成長をもたらす「教訓」も拒絶されている。「すきまのおともだちたち」が、結構としてはありふれたファンタジーでありながら、魅力ある作品になり得ているのはそのためだ。ウサギ穴に落ちたアリス以来、異界を旅する主人公はたいてい、何かの教訓を土産として現実世界に持ち帰ろうとしていた。それが結局、アリスに遠く及ばぬ凡百のファンタジーを生んできたのだ。
「私」の旅は文字通り「すきまに落ちる」だけであり、何ら意味はない。「旅は迷子とおなじー。生まれるのとおなじー。死んじゃうのとおなじー。忘却ともおなじー。おなじったらおなじー。」と女の子は歌っている。
主人公の「変化」を意味のある「成長」として読み解くことがポイントである中学入試にとって、江國香織を出題することは逆説的なことだし、教育機関としての自己否定にも近い。それでも今後、江國香織の作品からの出題は増えるのではないかと予想される。なぜなら入試などというものはそもそも逆説的な必要悪であり、とりわけ難関校の入試問題というものは、巷間で流布される「ポイント」なるものを外そうとするのが常だ。
変化を嫌う作家は、これも逆説的に時の流れが生む絶望と喪失感、愛惜すべき過去にひどく鋭敏なのだ。そこをつかまないと、クリアは実に難しい。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■