『戦争と一人の女』 2013年(日)監督:井上淳一
監督:井上淳一
キャスト:
江口のりこ
永瀬正敏
村上淳
柄本明
上映時間:98分
戦争中の日本。飲み屋の女将であり元娼婦の女(江口のりこ)は、ある日偶然店にいた小説家の男(永瀬正敏)と戦争が終わるまで夫婦になり、滅茶苦茶な淫乱生活を送ろうと半ば絶望的口調で約束を交わす。そして生活感のない小説家の家に住むことになった女は、男と淫らな新婚生活を送ることになる。その頃、戦争で片腕を失くした帰還兵(村上淳)は勃起不全に悩んでいた。彼はある日女性が強姦される姿を見て、性的興奮を催す自分に気付くこととなる。そして彼は女の首を絞めながら強姦するというサディスティックな犯罪に身体を染めることになるのだが…。
戦争に絶望し、性に溺れる男女の行く末を描いた坂口安吾の同名小説の映画化である本作は、その性的描写の過激さや戦争責任という題材を扱っていることから、しばしば「タブーへの挑戦」と称されるかもしれない。勿論そのようなタブーへの反骨や戦争に関する様々な糾弾は本作における一つのメッセージであり、魅力的要素とも言えるだろう。しかし本作の真の魅力はもっと映画ならではの表現性の部分、あるいは主題と表現の相互作用によって生まれる希望的で絶望的な人間ドラマの側面にあると思われる。では具体的に本作のどこがそれほど人間ドラマとして優れているのかを明らかにしていくとことにしよう。
■退廃的背景と剥き出しの性■
本作は確かに露骨な性描写が多く見られるが、それらは必ずしも観客に性的興奮を催すように演出されてはいないように思える。というのも本作の性描写には日活ロマンポルノに見られるような甘くエロティックなメロディもなければ極端に乳房や唇をクロース・アップしたりすることもない。むしろカメラはフルサイズか望遠で撮っており、身体そのものに対しての極端な見世物的描写がほとんどないのである。そうした非見世物的エロスから見ても本作が女性の身体をエロティックに彩っているわけではないことがわかる。では本作は構造的な面において、一体何を表現していたのだろうか。それは理性や希望を失くした人間を覆う「欲望への徹底した充足願望」と「満たされない欲望の虚無感」だと考えられる。
そもそも愛のない性欲は「本能」「快楽主義」「暇」「思考の放棄」と関連付けることができることから、過剰で連続的な性欲処理は専ら「怠惰」と「自暴自棄」の暗喩として視覚的に受け止められるだろう。当然のことながら朝から昼、晩までセックス三昧で、常に性欲を満たそうとする渇望行為は、真面目で理性的な行為の反対に向かう行為であることは言うまでもない。そうした性的快楽への徹底した渇望が、戦争中の焼け野原を背景に行われた時、我々はそこに希望を失くした人間の姿を見ることになるのではないだろうか。実際に小説家の男は、このようにつぶやいている。
「どうせ戦争で滅茶々々になるのだから、今から2人で滅茶々々になって、戦争の滅茶々々に連絡することにしようか」。
原作にも書かれているこの台詞は、まるで世界の滅亡を目前にしてセックスに浸る男女、あるいは戦地に行く前に娼婦を抱く兵士の本能とよく似ていると指摘することができる。焼け野原で下半身を露出し、日を浴びながら昼間にセックスをする男女は、そうした世界終末を目前にした一市民に見えてくるから不思議だ。本作はそうした絶望的状況に置かれた男女の心理を抉っていくため、もはや戦争映画の面影はない。本作は戦争という絶望的状況を背景に「日本が滅びる」と自暴自棄になっていく男女の心理を描いた人間ドラマなのではないだろうか。
焼夷弾が民家に落とされていく中でも女は焼夷弾を「綺麗!花火のようだわ」と言ってウットリ見つめる。そして吹き飛ばされ、燃え盛る家を前に庭でセックスをし、興奮する彼女たちは世界終末的な世界で快楽に勤しむ亡者であり、そうした彼女達からは戦争の虚無感や退廃的な心理を感じさせられた。
そして本作は、彼女達の虚しさや悦びへの渇望感を強調するために戦争が終わった後の彼女たちの行く末を描いていく。女は戦争が終わったという実感がなく、戦時中と同じように娼婦をしながら生活をしており、小説家の男は麻薬中毒になって文字通り破滅的生活を送っていた。そうした戦後の戸惑いと破滅は、恐らく女の「本当に戦争は終わったのかしら?」「結局、日本は滅びなかったね」という言葉に集約されていると言って良いだろう。世界終末が誤報であったことに気付いた男女のように、彼女たちは「どうせ破滅する」という自暴自棄を失くし、途方に暮れ、希望のない虚無の世界をさまよい続ける。そうした満たされない欲望と終末的な絶望感、又はそこから生じる破滅的感情は、片腕を失くした帰還兵にも見ることができるだろう。
■戦争を背景にした男女の虚無と絶望、そして希望の表現性■
フロイトが「腕は男性器の象徴だ」と言ったように、彼は片腕を戦争で失くしたことで勃起不全となり、女性が苦しむ姿に性的快感を覚えるようになる。そして彼は戦争時に自分が犯した強姦や虐殺、強盗など悪徳の数々を忘れることができず、戦地と同じように女性を強姦し、絞殺してしまう。アブノーマルな快楽はやむことなく、彼は戦争が終わっても女性を犯し続け、ついには死刑になってしまう。彼は警官に日本の戦争責任や矛盾、そして日本兵が行った極悪非道の数々について話すが、それらは彼の行為を弁護する理由にもならない。滅びゆくような絶望の中で快楽にはしり、過去の事件について話すが、それは理性的なものではなく、まるで何かの戯言のようであった。彼の言動は、退廃し腐敗した社会や倫理観そのものであり、言い換えれば戦争という矛盾と混沌の渦の中で理性を失った人間そのものであったように思えるのだ。
このように本作に登場する男女三人は、絶望を愛し、腐敗を信じていた。彼らは戦争とは無縁のように見えるが、実ところ彼らは最も戦争を愛し、戦争に期待し、破壊と破滅を求めていたのかもしれない。女が「戦争が好き」と言うように、破滅こそ快楽の理由であり、戦争と日本の破滅こそ、彼らが快楽に浸りながら暮らすことに対する最大の言い訳であったのではないだろうか。
しかし日本が破滅するというのは幻想であった。1945年8月15日以後、日本は破滅どころか経済を少しずつ発展させていき、活気にあふれていく。その一方で日本が破滅すると夢見ていた男たちは、相も変わらず戦時中と同じことを繰り返し、破滅へと向かうことしかしらない。その絶望と虚無。それこそが本作の醍醐味であり、エロスよりも過激な人間の性であったように思える。しかし本作は絶望と虚無だけでは終わらない。女のお腹には小説家の子どもが宿っていた。戦時中、女と小説家が「男性器のようだ」と呟いた木には、葉が輝いている。それは希望の印であり、女に赤ん坊という希望と未来が生まれた証だったのではあるまいか。
視覚的な暗喩と肉体の絡み合い、そして焼け野原の舞台装置によって人間の本能と絶望、そして希望をも描く『戦争と一人の女』は、坂口安吾の小説を忘却させ、戦争映画であることを感じさせない珠玉の人間ドラマであった。ドキュメント・タッチの映像表現も観客の心理を操作するというよりも人間そのものを観察するという観客の眼、あるいは生き物の性行為を映す冷徹なカメラ眼として機能しており、絶望へと向かうことを望みながら戯れる男女の虚無感と絶望感を表現するのにすこぶる適切だったように思う。まさに現代の戦争ドラマであり、文芸映画の秀作なのである。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■