「泣ける」と一口に言っても、それが人それぞれなのだから、難しくもあり、面白くもある。いつだったか『初恋の来た道』という中国の映画を観ていて、女の子が作った餃子(だったか?)を持って男を追いかけてゆくという場面で、周り中の女の子たちが泣き出したのでびっくりした。何が哀しいのやらついていけず、なんだか損した気持ちになった。
だがその映画のファースト・シーンでは、語り手の父が離れた土地で死に、歳とった母親が「家までの道を車を使わず、人手で担いで連れて帰る」と、駄々をこねていた。単なる婆さんのワガママとして見過ごしたそれが、文化大革命を経た恋愛の末の結婚で、彼が帰るまで待ち続けた「道」だったからだと最後にわかったとたん、泣けてきた。
餃子を抱えて疾走する美少女に同情できなくて、婆さん(同一人物だが)のこだわりに泣けるというのは、歳のせいなんだろうか。ともあれ、モトが取れてよかった、という気になった。
「泣ける」というカタルシスを与えるのは、確かに代価を取れるぐらいのものではあるのだ。ある知り合いの女性は劇場でスピルバーグの『E.T.』を観てわあわあ泣いて、「あー、くだらなかった。帰ろ」と宣った。チケット代を払ったから泣くのであって、テレビだと泣かないわけだ。
浅田次郎の『鉄道屋』には 8 つの短編が収録されている。高倉健で映画化された「鉄道屋」が有名だが、これも泣ける人と泣けない人に分かれるようだ。自分は泣けなかったので、甘く見て電車の中で読んでいて、次の「ラブ・レター」がいけませんでした。
先の『E.T.』の女性ではないが、必ずしも心底感動したから泣くわけでもない。クサいな、と思いながらも、自分のツボにはまると泣けてくるという条件反射のようなものだ。どこで泣けるかを聞いてまわると、人それぞれのツボのありかがわかって面白い。
『鉄道屋』はやたらと保険のかかった短編集で、どんな人もたいてい一つは琴線に触れるものがあるらしい。しかしながら、泣けない、琴線に触れないからと言って、理解できなかったということでもない。非常に楽しんだとは言えないにせよ、冷静なぶん、読解としては正確であるということもあるだろう。
「鉄道屋」は、廃線目前の鉄道の、定年間近の駅長の前に死んだ娘が現れ、成長した姿を見せるという物語である。年齢や立場が近い方が共感しやすいのが一般的だが、実際、この作品のキーワードは「死んだ娘」ではなく、「定年間近」ではないか。「定年退職したら、もう(娘を亡くしたことを)泣いてもいいのではないか」という下りがある。ここがミソというか、キモだろう。
固い鎧の建前に覆われた、柔らかな真情。口には出さずして、それを察すること。それこそが日本に特徴的な美学である。日本人の心の琴線に触れるものとは、結局のところ『勧進帳』に尽きる。それを理解できれば「大人」なのである。日本の子供が大人に成長するとは、弁慶の辛さ、察する関守の心情、そこから得られる一種マゾ的な快感を理解することにほかならない。
金井純
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