特に児童書とはいえない、大人向けの小説が中学入試にも出題されるケースが増えている。児童書についてはすぐに出し尽くされてしまい、特定の作品があちこちで出た、と言われてしまうのだから、広く目が向けられるようになるのは自然の趨勢だろう。
それでも、というよりそれだからこそ、一般の小説の中から選ばれるのにははっきり傾向があって、たいていは子供が出てくる。家族の話というのが、したがって多くはある。
乃南アサの『家族趣味』の短編はしかしながら、ほとんど入試問題の対象から外れていると推測される。タイトルになっている短編「家族趣味」は、家族を自分のエゴを満たす要素としか考えていない女の話だ。「家族趣味」というのは、この女の状況を示すのに、だから正しい造語ではなくて、「趣味の家族」という方が正確だろう。
「家族趣味」の女主人公のエゴのあり方は病的で、だから子供向けではないのだと気づいた。つまり子供には基本、健康なものしか読ませないものらしいのだ。子供は成長するのに忙しい。ビルディングス・ロマンが子供向けの基本となるのは、何を隠そう、成長に手いっぱいだからだろう。
太ったことを恋人に指摘され、始めた水泳をきっかけに病的に身体を鍛えはじめ、恋人など眼中になくなってしまう男など、この短編集の主人公たちは、どこか生活に飽きている。飽きるのは大人の特権だ。
何ごとにも例外はあって、その特権を子供の頃から持っている者もいる、という設定が「デジ・ボウイ」だ。そしてこの作品は、短編集中、最も鮮やかに印象に残る傑作となっている。
中学入試問題は基本、ビルディングス・ロマンすなわち成長物語の集合なのだが、では成長とは何なのか。物語であるからには無論、肉体でなく精神的成長を問題にするわけだが、要はそれは広い意味での共感性の発達にほかならない。共感する能力が高い者が、まあつまり、大人だ、と褒められるわけだ。
だけどその共感、というのが何に対する共感なのか、と突き詰めてゆくと、結局はそれを褒めたり評価したりする側、世の大人たちの感覚に共感できることを推奨されている、としか思えない。つまりは大人の都合、ってのに近いのかもしれない。
共感性を完全に欠落させている、というのは一見、非常にエゴイスティックに見えるだろう。しかし本当にエゴイスティックなのは、そのような共感を強いている周りの人間たちではないのか、と「デジ・ボウイ」は思わせる。人というのは、よりエゴイスティックになり、しかも社会の一員であることでそれを非難されないようになるために「成長」しているのか。
成長を拒否した「デジ・ボウイ」は子供のままで、しかも成長に幻想を持たないという意味で、すでに老人でもある。そのピュアさを人間存在のゼロ地点だと定義してもよい。
金井純
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