工藤直子は、その『てつがくのライオン』など、動物が出てくる子供向けの詩を最近、よく目にするようになった。コピーライター出身で、いわゆる詩壇といったところとは無縁であった人のようだ。
本書はエッセイ集で、主に友人たち、人間関係について書かれている。そのこと自体、少し意外である。物書き、特に詩人というのは対人関係について独特のポリシーなり、障害?なりを持っていることが多いような気がする。それが作品世界を作ってゆくための環境作りのひとつなので、そのために世に容れられなくても、あるいは逆に異常なほどの人タラシとなっても、それ自体はたぶん、たいした意味を持たない。
というか、少なくとも個々の対人関係にたいした意味を見い出さないのが、筆者のようなレビューアーも含めた、物書きの特徴ではないか。大切なのは作品を生み出す自身の「世界」と自身との関係、と言ったらよいだろうか。つまりは本質的に「人嫌い」である。好きになるのは、ネタにするときだけなのだ。
工藤直子は台湾で生まれ、子供の頃から各地を転々としてきた。そのたびに環境に馴染み、友だちを作るということに、おそらくは相当に頭を悩ませてきたのだ。本書にも、周囲の気を引くためにお姫さまの絵を描きまくってプレゼントしたり、お話を作って聞かせるというサービスを開業したりという教室での奮闘ぶりがある。
工藤直子の対人関係のポリシーは、「会ったとき、まず、相手のひとの好きな部分のほうを先に探しだすのである。好きなところを見つけて『うん!』と、そのひとをまるごと好きになる。きらいなところを見つけるのはあとでよろしい。きらいなところがあっても別にかまわないじゃないか。とにかくまるごと好き、というのは、『きらい』をひっくるめて好きなことである。そのうえで、そのひとの、好きな部分にだけパチパチと拍手する。」
言われれば、それでいいのではないか、と思える。なぜ私たちは、こんなふうにできないのだろう、最初に嫌なところを探し出してしまうのだろう、と。
ひとつには、がっかりするのが怖いのだと思う。騙された、と傷つくことも。だから、「この人はダメ」のパターンをできるだけ用意しておいて、それに当てはめてゆく。どれにも当てはまらなけれは、ちょっぴり期待して付き合いはじめる、というわけだ。そういうふるい分けは、時間の節約にもなる。入社試験なんかでのやり方だ。
けれどもそもそも、何も期待しなければ、がっかりも騙されもしないのだ。工藤直子は、それほど「人が好き」にもかかわらず、樹や草、鳥や虫とも友だちである。その付き合い方は、それらを眺めるのでなく、それらに「なってみる」。
こういう世界を持っている人は、実は人間の友だちに対しても、樹や鳥に対してと同様、100%のシンパシーと0%の期待感で付き合っているのではないか。なるほど物書きだ、と思う。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■