松井冬子展 世界中の子と友達になれる
於・横浜美術館
http://www.yaf.or.jp/yma/index.php
会期=2011/12/17~2012/03/18
入館料=1100円(一般) カタログ=3000円
評価=総評・80点 展示方法・80点 カタログ・80点
横浜美術館は平成元年(1989年)に横浜博覧会のパビリオンの一つとして開館した。オープニングの展覧会はチェース・マンハッタン銀行所有の現代美術コレクションだったと記憶している。建物の設計は都庁や国際連合大学などの設計で有名な世界的建築家・丹下健三氏で、現在の運営・管理者は横浜市芸術文化振興財団・相鉄エージェンシー・三菱地所ビルマネジメント共同事業体だが、実質的に横浜市によって運営されている。横浜ゆかりの美術品のほか、主に現代美術を数多く収蔵する美術館である。
今回展覧会が開催された松井冬子氏は昭和49年(1974年)東京生まれ静岡育ちで、平成6年(94年)に女子美術短期大学造形科絵画科を卒業後、東京藝術大学美術学部絵画科日本画で学び、平成19年(2007年)には同大学院博士後期課程を修了して博士号を取得した才媛である。博士論文は『知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避』。まだ38歳で、略歴によれば過去7回ほどしか個展を開いていない画家の回顧展が美術館で開催されるのは異例中の異例のことである。それだけ多くの美術関係者や愛好家の目が松井氏に注がれているわけで、日本画の世界のみならず、これからの日本美術界をしょって立つ若手のホープである。
カタログの略年譜によれば、松井氏が日本画家に転向したのは平成8年(1996年)22歳の時であり、それから現在までのキャリアはわずか16年である。この間の松井氏の努力と精進は作品を見れば一目瞭然だが、作品数は決して多くはない。展覧会は現在までの松井氏の代表作をほぼ網羅しており、そのほかにデッサンなどの下書きも展示されている。松井氏の絵は繊細で美しく、また暗くおどろおどろしい。手足の指に血をにじませた少女や、内蔵を溢れさせた動物や人間、狂気の相を浮かべた女性、腐乱死体や幽霊なども画題にしている。大作が多いのも松井絵画の特徴だろう。言うまでもないことだが大作を描くには高く正確な技術が必要とされる。一般的に言えば暗く不安な絵は絵画市場では好まれない。大作となればなおさらのことだ。しかし松井絵画は多くの人々を惹き付けてやまない。松井氏が市場で好まれる絵を知らないはずはない。松井氏の絵は挑戦的な意図を秘めていると言うことができる。
また松井氏は饒舌な画家だ。求められれば飽くことなく作品の創作意図や背景を言語化する。今回の展覧会開催に際しても氏はカタログ冒頭に文章を寄せている。「氾濫する複雑な芸術作品の刺激は、かつて「美」と言われてきたものの美的価値の基準を喪失させてきた。(中略)単なる感傷とは異なる知覚的な痛覚の現象は、おびただしい量の情報、世界中に溢れる芸術作品により事象として把握されるべきであろう。痛覚は、われわれの身体的共感を持ち、直感的なものを暗示している。その痛覚をアウフヘーベン(注・弁証法的止揚)し、美術として飛躍させられると私は信じている」と書いている。これらの言葉に、少なくとも表向きの松井氏の絵画戦略のようなものが表現されているのは確かである。
松井氏が言うように現代社会(文明)は「美的価値の基準」を「喪失」している。何が美で何が醜なのか誰にもわからなくなっているのである。それを松井氏は「痛覚」によって回復・奪還したいと述べている。痛覚は「身体的共感を持ち、直感的なものを暗示」する人間存在共通の根源的感覚だからである。ただそれは「単なる感傷とは異なる知覚的な痛覚の現象」によって達成されなくてはならない。この意味で松井氏が描く残酷かつグロテスクでもある図像は、感傷を排した純粋な痛みの表現であると言うことができる。根源的感覚である痛覚を基盤に、それをアウフヘーベン=止揚し、美でも醜でもあるような新たな絵画表現に飛躍したいというのが松井氏の制作動機の一つなのだろうと思う。
展覧会では現在進行形で制作中の『九相図』が5点展示されていた。『九相図』は古くは鎌倉時代初期まで遡ることができる仏教系の絵画で、多くの場合は美女が死に、その死体が腐乱して犬や鳥に食い荒らされて骨になるまでが描かれている。仏教的無常観が根底にあるのは言うまでもないが、どんなに悲惨で残酷でも現実から決して目をそらさずに見つめ続け、それにより何事にも動じない悟りを開くための修行に使用される絵画だと考えられている。しかし松井版『九相図』では既に1枚目で美女は内蔵をさらして死んでおり、2枚目3枚目で腐敗が始まり、4枚目5枚目で骨と化している。『九相図』というからにはあと4枚連作が続くはずだが、それがどのようなものになるのかは作家以外にはわからない。既発表の5枚の間を埋める絵になるのかもしれない。松井氏は円山応挙や河鍋暁斎とは異なる斬新な幽霊画を描いているので、霊的表現から再生へと筆が進むのかもしれない。ただ松井版『九相図』が、いわゆる悟りとはほど遠い生々しいものであるのは確かである。
また展覧会の最後の部屋には『無傷の肖像』『無傷の標本』と題された一種の連作が飾られていた。『無傷の肖像』には兎口の少女が描かれ、『無傷の標本』では大木の根元に腰掛けて足を拡げ、無毛の性器を露出させている少女が描かれている。口と股間に一種の傷痕(聖痕)を持つ美少女の絵は僕を惹き付け、それに『無傷』というタイトルが付けられていることに僕は微かに苛立つ。このような分裂こそアウフヘーベンされるべきなのではないかと思う。
松井氏が現在進行形で旺盛な活動を続ける画家である以上、その全貌を把握するのは難しい。僕たちは松井氏の変化と飛躍を固唾を呑んで見守ってゆくしかない。ただ松井氏の絵は極めて饒舌だという印象を受ける。絵の鑑賞から言葉(解釈)が無限に湧き出てくるという意味ではない。絵そのものが饒舌なのである。曖昧な言い方だが、絵の中にびっしりと言葉が書き込まれていて、それが絵画化されるのをじっと待っているような印象を受ける。絵が物言いたげなのだ。松井氏が抱える創作欲動のすべてはまだ絵画化されていないのではないか。松井氏の画業はこれからも変わり、伸び続けてゆくだろうと思う。
申し分のない展覧会でしたが、若い現存作家の回顧展に点数を付けるのはためらわれたのですべて平均点にしました。また松井氏の絵は僕にとって極めて魅力的だが、展覧会を見ても腑に落ちた感じはしなかった。大きな楽しみではあるのだが、まだまだパズルには余白が多い。それでも彼女の絵を壁に掛けて朝から晩まで眺め暮らしたら、いつかわかる日が来るのではないかと、禅の修行者のようなことをちょっと夢想しました。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■