子供が欧米文化に憧れる、という風潮は今はどうなっているのだろう。オーベー化!?といったギャグが受けていたところを見ると、日本社会も成熟したのかな、と思う。
それでも子供と欧米文化は本質的に相性がよさそうだ。未成熟なんだから、当たり前か。少なくともシチューやハンバーグが好きな子供の方が、煮魚が大好きという子供よりも普通だ。後者の場合、よほど母親が料理上手と見るべきか。
何もかも茶色く醤油に染まってしまう煮魚より、カラフルな皿に目を奪われるということもあるだろう。表記で言えばカタカナが混ざって、軽く明るくなる。
『西の魔女が死んだ』は学校に通えなくなった少女の物語で、そこはごく一般的なものだ。ただ、この少女はクォーターで、西洋人である祖母の家に預けられる。その辺りが児童文学として変わっているというか、やや妙なところでもある。しかし読んでいて違和感を覚えるか、と言うと、それはまったくない。
妙だというのは、児童文学は普通、何らかのかたちで子供の成長を促すものなので、いや成長でない後退を促すようなナンセンスなものであっても、主人公である子供に対して、読者である子供は共感以上の一体感を持たなくてはならない。主人公がクォーターであるといった特殊もしくは特権的な設定は、通常は考えにくいのだ。
違和感がないのは、物語が始まってしまえば、主人公は普通の日本の少女にすぎないだけで、ただ祖母が外国人であるだけだからだ。そして祖母が外国人であるのは、読者と主人公にとっての「異界の人」であるという距離感を生んでいる。その意味で、この人は必ずしも祖母である必要はない。が、外国人として登場してくる根拠が、単なる欧米信奉とされては困る。子供にとって血縁関係は、大人と接触する最も自然な理由付けになる。
「西の魔女」は言う。悪魔はいるのだ、と。精神力の弱い人間を取り込もうとしている、と。そういった西欧的な見方は、日本の日常を生きる子供たちに世界の別の見方、異なる様相を提示してくれることになる。そして精神力の弱い人間とは、日本的な意味での根性がない、ということとは違う。正しい方向をキャッチするアンテナを立てて、心と身体でそれを受けとめる。そうやって自身で決める力、決めたことをやり遂げる力を精神力という。
精神力を養う方法は、最初のうちはごく普通の生活習慣、体力を養う方法と大差ないと言う。早寝早起き、適度な運動など。そんな当たり前の「修行」を通して、だが人は一歩ずつ「魔女」に近づくのかもしれない。自分自身に。それ以外の何も「特権」などというものはないのだ。
「西の魔女」こと祖母は亡くなり、つまり本当の「異界」へと去る。その異界に心のどこかを残すことでしか、人の「修行」は続かず、生きてゆくことすらできない、ということだろう。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■