3つの短篇が収録されている。シューマン「子供の情景」になぞらえて「子供は眠る」、バッハ「ゴルドベルク変奏曲」により「彼女のアリア」、サティ「童話音楽の献立表」から「アーモンド入りチョコレートのワルツ」。それぞれ13歳、14歳、15歳という設定だが、子供から大人への成長ぶりというのは目を見張るものがあると、あらためて思う。
13歳をはじめとするの男の子たちの群れは、毎夏に集まる別荘で、そのオーナーの息子をボスにいただき、いつまでも子供のふりをしている。が、それぞれ微妙に成長してしまい、それを押し隠そうとしながら力関係のずれが生じてくるのを止めようもない。子供でいられなくなることの切実さ。それへの諦念が「成長」というものなのだ。ビルディングス・ロマンとして、なかなかの傑作だ。
14歳の男の子は14歳の女の子の虚言、というより夢の中の話に翻弄される。男の子はすべてを真に受けるのである。ここで生まれている性は、13歳の延長としての「実」を生きている14歳の男の子と、言語によって構築された「虚」の世界を自身の現在、そして未来として生きてしまおうとする14歳の女の子との差異である。
その接点は「眠れない悩み」を打ち明けあう、というところから始まっている。それはなかなか象徴的だ。「眠れない」ことは少年にとっては単なる肉体的な、しかも一過性の悩みにすぎなかった。が、それが少女の耳に入り、大仰な共感の言葉を呼び覚ますと同時に、サービス精神あふれる面白くもびっくり仰天の出来事が次から次へと、あたかも昼メロからサスペンスに至るまで展開されてゆく。それこそ眠らない精神が生み出した夢の産物だ。
女の子たちは言語能力が高く、男の子たちを置いてけぼりに大人たちの世界を覗こうとする。表題作「アーモンド入りチョコレートのワルツ」では、ピアノの先生とその恋人の間に割り込んだり、取りもったり、二人の仲を思いわずらったりする女の子たちはしかし、成長の痕跡を見せない。彼女たちが覗き込む「大人の恋」は「虚」を通り越して「空」なる絵空事の感がある。
楽曲をモチーフとして小説を書こうとする森絵都という作家の、その辺りがどうも資質の核心 = 文学的に言えば可能性の中心であるようだ。はなから絵空事というわけではない。男の子たち、子供たちのあり様は「実」として捉えられている。それもかなりのリアリティをもって。幼いとはいえ、それは紛れもなく「人間」たちの姿である。が、その延長線上としての大人たちの世界 = 俗を描こうとする意欲がない気がする。
つまりそこから先は、音楽にでも乗って、「空」なるものとして天に抜けていこうとでもするようだ。児童文学作家の資質とも言えるし、詩人気質とも言えるかもしれない。
ようするに、金と権力とセックスについては書く気がない、という宣言に近いものが見受けられるということだ。だがしかし、それはその能力がない、ということとは違っている。そして作家は常に全体。性を、世界を書き尽くす可能性を追求するものだ。その可能性が垣間見えるのは、例の虚言癖のある少女の作り話なのだ。嘘とわかっている事柄を、嘘という前提のもとで、エネルギッシュに語り尽くす。「俗」などというものは、その程度のものかもしれない。そうとわかれば、「アーモンド入りチョコレートのワルツのように生きてゆく」だけだろう。
金井純