アルチュール・ランボーが「酔いどれ船」を手にたずさえてヴェルレーヌを訪ったのは、一七歳の時でした。
レーモン・ラディゲが「肉体の悪魔」を書いたのは一八歳。三島由紀夫の短編「花ざかりの森」は一六歳、綿矢りさの「蹴りたい背中」は一七歳。
早熟といわれる詩人や小説家はたいてい十代後半にデビューしています。これはジャンルを問わないようです。エヴァリスト・ガロアが素数次方程式を代数的操作によって解く方法をあみだしたのは一七歳。モーツァルトは五歳で作曲をはじめましたが、ちょっと聴いただけでモーツァルトだなと万人をうならせる曲を作ったのは一七歳になってからです。ちなみにその曲はピアノ協奏曲第五番と交響曲第二五番です。そのモーツァルトにあこがれたメンデルスゾーンが「夏の夜の夢」への序曲を作曲したのは一六歳。パブロ・ピカソが初の個展を開いたのは一八歳。十代後半というこの年代が学術や芸術の才能を開花させる時期であるというより、どんな天才でもその開花には思春期に至るまでの成熟期間、モラトリアムが必要だってことでしょうね。
さて今回取り上げる作家、樋口六華さんは一七歳。はじめて書いたという小説「泡の子」が今年の「第48回 すばる文学賞」を受賞しました。こういう才能をしっかり見逃さないところ、さすが「すばる」ですね。ワタシなど、むしろ編集部の眼力の方に感心しきりです。というのもいまや文学という世界では、いや数学や音楽の世界でも同様ですけれど、若き天才などという存在は一九世紀ロマン主義の残滓か、それ以前の時代がそうだったように珍奇な見世物にしかならず、もはや絶滅種と言っていいからです。
お話の舞台は新宿歌舞伎町の〝トー横〟。ヒヒルという一〇代の女性を語り手に、OD(オーバードラッグ)、セックスに犯罪というこの手の話に欠かせない道具立てを用いて、同じ〝トー横キッズ〟である七瀬とトシとの三人の日々を切り取ったもの語りで、凄惨とも退屈ともいえるでしょうけど、まあじっさいよくある話ですね。なのであらすじは紹介しません。この作家の腕の見せどころは、ストーリー展開より語り口にあるからです。読者を語りだけでどこまで自らの世界に吸い寄せ、反芻させ、浸らせることができるか。たしかに尋常の語り手ではありません。こんなことばがよく出てきたなあとおどろくほどに、四方八方から飛び交う位相の異なることばどうしが混沌を生み融合と離散をくり広げていくさまは、壮観でもあります。
ノスタルジアが残した虫歯の痛みに似た疼きは、心の奥のこそばゆさに、また沈殿していく。
首筋をじりじりと焼く日差しは影の底を深くして、溜まった影が空気を二分する。ひんやりとした薄暗い方にはまだ活動時間でないごく少数の人間が屯してるだけであって、その中ではあの夜の毳毳しさは息を潜めている。
もっと打て。もっと打て。冷めるまで、焠ぎながら鉄の棒は私を貫く。それは絶えず変容しながら私の中で跳ねてる。竈の中でひだが畝る。
あれから七瀬が死んだ季節は二回過ぎて、私はだらりと生き続けている。死ぬ機会をあの時失ってから、荏苒と日々を過ごす私にとって、あの時の記憶は拭えないほど濃く染みていた。
(樋口六華「泡の子」)
ホメておきながら何ですけれど、多くのことばが地から遊離して虚しく宙をただよっています。「地」とは「現実」というより、ことばのもつ「リアリティ」のことです。くり返されるODが生み出す妄想世界に生きる〝トー横キッズ〟の内面描写にはふさわしい表現かもしれません。でも語り手が作者=主人公ならともかく、一〇代の女の子が行為の真っ最中に「焠ぎながら」と言ったり「荏苒と日々を過ごす」なんて自己描写をするでしょうか。語り手は作者なのか主人公なのか。作者のせいとはいちがいに言いきれません。ことばという「地」とはなにかを、これまで学ぶ機会がなかったのでしょう。同じ樋口さんでも樋口一葉さんの「たけくらべ」や「にごりえ」がいま読んでも身震いするほどすばらしいのは、王朝文化と遊里の世界と底辺の人びとの暮らしをともにじぶんの身の丈の世界として描きえたからです(ここで「ともに」というところが肝心です)。だからこそ、そのことばは明治という日本近代文学の黎明と実験の時空に、日本語という「地」のあらたなつながりを奇蹟のように生じさせたんです。その意味では、樋口六華さんもわたしたちも文学の貧しく不幸な時代を生きている。あるいはそう思われ、思わされている。そのことを自覚しているひとも気づいていないひとも、みんなじぶんのあらたな「地」に降り立とうともがいているわけです。
「リアリティ」という点でいちばん気になるのは、主人公のヒヒルは女性であるはずなのに、その語りはいくら読んでも女性がつむいだ言葉には(すくなくともワタシには)感じられないということです。いやもちろん、あえてジェンダーレスな、あるいは両性具有的な語り方をする作家もいますし、語り手は女性なのに男性のように語らせる女性作家だっています。そう思わせておいてじつはボク、男性の語り手でしたあ! と言われたら、みごとにだました作家の実力をたたえなくてはなりません。ホントのところワタシは、樋口さんという作家が女性なのか男性なのか知りません。けれど読者を欺くことが、私小説形式のこの作品にどれほど貢献するでしょうか。女性らしい語りことばをつむいでいる男性作家だと素直に解するのがこのばあいにはふさわしい。そうすると、この作家は女性になり切ることもできず、そのためなり切っている自身を突き放して視ることもできない大根役者とみなさざるをえなくなります。
けなしているんじゃありませんよ。いやけなしてるか(笑)。待って下さい。このひとには、それを補って余りある可能性があるから言ってるんです。
こんどはホメましょう。思わずハッとする場面があります。トー横友だちの七瀬が「魂って、21gらしいよ」と言う後半を過ぎたあたりからもの語りは「地」に徐々に足を降ろして歩くようになります。
七瀬がいた。
波のさざめきに耳を傾けながら、ただ風を待つ澄んだ顔と、靡く髪、彼女特有の香りが空気をピンクに染める気がした。(中略)
亡くしたはずの匂いが七瀬を包んでいた。
ああ、確かにこんな香りだった。どろどろに溶けた『彼女』の香り。鼻に絡みつくように、彼女が内側から包み込む。
二人の『彼女』が重なる。そして、反発し合う。彼女が私に微笑んだ。『彼女』は私を凝視する。私はようやく知った。
あんた。七瀬じゃないのね。溶けちゃった、あの子の子供なのね。
彼女の子は、ただそこにいる。ただその澄んだ眼差しを私に向けてる。睨んでる。私を責めてる。
(同)
ムリやり孕まされながら生まれ出ることもかなわず、作品のタイトルでもある「泡の子」の後を追いかけるように逝った七瀬の幻影をヒヒルが視るこのシーンは、じぶんもその世界にずっと浸かっていたいと感じさせるうつくしい箇所で、このような美質を樋口さんは一度ならずみせてくれます。
こんなふうに欠点と美質とがむき出しになった作品ですけれど、まさにそんな粗削りな小説であるだけに、次作をぜひ読んでみたいと思わせるのです。読者にそんな期待を抱かせてしまえば作家の勝ちでしょう。もちろんどっちへ転ぶかわかりませんよ。大化けするか。シャボン玉のようにフワフワ飛んでこわれて消えてしまうか。すぐにとは言いませんが、このひとがもし、ごくありふれたことばをあえてありふれた表現で「ただそこにいる」ように語る方法をほんとうに身につけたら、すごいことになるかもしれません。
ともあれ、あやうくてキラキラした魅力をもった樋口さんという作家のこれからが楽しみです。
萩野篤人
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