日本文学の古典中の古典、小説文学の不動の古典は紫式部の『源氏物語』。現在に至るまで欧米人による各種英訳が出版されているが、世界初の英訳は明治15年(1882年)刊の日本人・末松謙澄の手によるもの。欧米文化が怒濤のように流入していた時代に末松はどのような翻訳を行ったのか。気鋭の英文学者・星隆弘が、末松版『源氏物語』英訳の戻し訳によって当時の文化状況と日本文学と英語文化の差異に迫る!
by 金魚屋編集部
箒木
片や、あんな女はこんな女はと尽きぬ談義に、左馬頭はもう引っ込みがつかないようで。誰しも一目には如何なる難があるようにも見えない、それはそうです、でもそこから一人択びとらねばならぬとなれば愁顔にためらう、これも然り。
つまりそれは重職に就いて務めを果たしたいという丈夫連を引き合いに出せば得心のいくことで。国家安寧の守護として誰をその礎に据えるか択ばれよとなればどうです、途端に頭を抱えることになりましょう。幸いにもこれぞという好人物に行き当たったとしてもです、それが如何なる才に恵まれていようとも、一人二人の力では政事を治められようはずもないと、どうして思わずにおられましょうか。国を治めるというのは上様が臣下の扶けを受けてはじめて恙無く立ち行くもの、臣もまた上様をしかるべく敬い忠君奉らんとすれば、事は自ずから持ちつ持たれつの和心に調うものです。身内の如き内輪事とても、そう。悉く望みに適う良き妻を迎えようというなら、数々の嗜みを修めていないことにははじまらない。そこで厳しく品定めをすることにかまけて、ああでもないこうでもないとけちをつけてばかりいては、けちのつけようのない御方など望むべくもない。然るに吾等は辛抱しませんと、些細な不満には目を瞑り、惚れた当初の胸の温もりというものを、絶やさず焚きつけ、守るのです。誠とはかような男のことをいうのです、そしてかような男の伴侶こそが真に可愛がられる果報者です。ところがどうです、ぐるりと世の中を見渡せば、なんと面白くないことか。上の上から相手を探そうという諸兄におかれては、御心に適うが如きの得難さは一入とお察しします。
女というものの器量と気性はまこと取り取りでございますな。瑞瑞として愛らしく生まれつきながら手前勝手と言うほどに引っ込みがちなのもある。筆を執っても清浄無垢。ところが、その文のどこかに、そそられるほどに艶かしい趣きが綴じこまれていることがある。こんなのがきっかけで思いがけず恋に落ちてしまったりするのだけれど、それきり取りつく島もない。御声を聴くだけならばとお近づきを許されたとて、押し殺された息遣いのか細い声は聴けども聴こえぬ、なんていうね。が、巧みにそんな女のふりをした食わせ者もございますからご注意召されよ、水面には波一つ立たないのに底は渦を巻いているという手合いなのです。こうした女はおしなべて慎ましく見えるのだけれど、親しむにつれ、当初思っていたのとはまるっきり違った気性が露になってくるのです。こんな瑕物もあるということを心せねばなりません。
他にも女の気性といえば、多情なあまり可愛げがありすぎるというのもあって――恋の気を嗅ぎつけてはたちどころに溺れてしまう。情をいくらか差し引いて、そこに分別を加えればまこと良い按配となるのですがね。
あとは、ほら、真に働き者で――まこと働きすぎなくらいに――家内の勤めにいそしむのはどうか、お髪を掻き上げて*1下女のように家事に齷齪しているのは。夫はたいてい務めに出ては日がな家を空け、公事につけ私事につけ須く世の動きを見聞きするわけです、様々な事を、良きも悪しきも。それを他所の者に漏らすはずもないが、しかし心安い身近な者となら話したい。心のうちに様々なものがわだかまってつい笑いもすれば打ち沈みもする。ときには政事向きのことに発した苛立ちに辛抱堪らないこともある。かような話を優しい伴侶に打ち明けたくなる、宥めてもくれようし、気の毒がってもくれましょう。しかしかような女というものは、わかってはくれないのです、わかろうともしないのです。これでは夫がみじめなものです。己の見込みや志に思い悩むようなときには、慰めを得られる見込みこそ無い。悩みの半ばを分かち持つどころか、うっかりこうです、「どこか痛みまして」堪忍袋を試すにも程があろうというものだ。
こうしてひとつひとつと審らかにした挙句、これに如かずと言えるのは品良く慎ましいのを択ぶこと、そしてこの上望むべくもないという女房を手本にして自ら伴侶の手を取って躾けること。これに勝る計はなし、そうでしょう。無駄な骨折りとはなりますまい。そうは言っても、かように躾けて、付き合うに足ると見えた女であっても、目を離しては落ちぶれます。能無しの地金が出て、ときに身の程をわきまえぬ作法に及べば、それが善行であれ悪行であれ興を醒ますのはどちらも同じ。結局男女は相容れぬものか。――さあ、そこなんです、日頃はさして好もしいとも思われぬ女の内にも何かをきっかけに無性に愛らしく目も離せぬ輝きを放つのがいる。
とりとめもなく語る名調子がはたと止み、左馬頭はしばらく物思いしておりましたが、やおら調子を取り戻し――
つまるところ、繰り返すようですが、こう言うほかはありますまい。家柄や器量にこだわりすぎてはならない、品良くおとなしいのを択んで、これぞまたとなき御息所と思い定めることです。たまさかそれがやんごとなき生まれで、優しい気性に恵まれていたのならば目出度、つまらぬけちをつけようなどとはなさらぬことです。況してや、それが善心の清浄なる御方なれば、麗らかで長閑な人柄ばかり目につくようになりましょうとも。
気後れしすぎる、内気にすぎる女というのもありますが、この手のは懐が深いあまり恨み言を言ってもいいような腹立たしさにも気がつかないふりをしてしまうものです。その悲しみや苦しさがやがて堪えきれなくなる時が来る。しかしそれを直面に訴えたり、歎いたりはしない。吐き出す代わりに、山奥の隠れ里とか、海辺の人知れぬ漁場なぞに雲隠れしてしまって、あとには痛ましい文や恨めしい歌がぽつんとあり、自らを悲しい思い出としてしまいます。幼少の時分にはそんな話を女房らに読み聞かせられて、女の情けの哀しみに涙を流したものですが、今となってはなんと馬鹿なことをするものだと呆れますね。何でしょうこれは、こういうことではないですか、その女は、苦しみを知る身でありながら、我が身を思ってくれている心に背を向けて、逃げ出すのです、人の心など一顧だにせず、その女を誰より大事に思っている人が哀しむことも苦しむことも意に介さずに。そればかりか、こんな馬鹿げたことをしでかすのは恋人の情の深さを試すためだったりもするのだから、浅ましい女狐め。
【註】
*1 仕事に取り掛かろうというときに髪を掻き上げるのは、女性らしい仕草のひとつ。
(第08回 了)
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