備前焼三耳壺(室町時代)
前回はすみだ焼の創始者・佐原鞠塢について今わかっていることを書いたので、だいぶ理屈っぽい文章になってしまった。そこで今回は気楽な骨董を。誰が見てもひと目で備前焼とわかる壺である。例によってと言うべきか、まったく名品ではございません。まあ魔が差して買ってしまったんですね。
骨董で魔が差す時はたいてい安かったからである。この壺は1万2千円でした。骨董の世界で折敷と呼ぶ竹細工の敷板の上に乗せて写真を撮ったが、折敷の方が高かったくらいだ。時代は恐らく室町中期の一四〇〇年代半ばから後半。五百年前の物が1万ちょっとならいいんじゃないかと買ってしまったんですね。
骨董(古美術)は徹底したデータベース世界である。道具屋は室町時代からいたが近代になって趣味の世界から学問対象になり、現代ではたいていのジャンルで詳細な研究が積み重ねられている。今でも骨董は趣味のお遊びの世界だが図録を眺め解説を読めば、自分が買った物がいつくらいに作られて、どの程度の審美的水準にあるのかだいたいわかる。
ただま、骨董は出たとこ勝負である。あれが欲しいなーと思って探してもたいてい見つからない。思いがけない時に思いがけない物に出会う。でもちょっと魅力があったり値段がこなれているとすぐに誰かに買われてしまう。即決しなきゃならない。
で、思いきって身銭を切って目の前の骨董を買えば、物がどの程度のレベルなのか身に染みてわかる。上には上があり下には下があると気づくわけだ。たいていの場合、そこからいわゆる名品と呼ばれるような物を目指して物を売り買いしてステップアップすることになる。それがフツーの骨董好きのあり方だ。今回紹介する壺は備前焼入門にはうってつけだろう。上もあり下もあるフツーの骨董。では簡単に備前焼についておさらいしておきましょう。
備前焼は備前の国、今の岡山県岡山市で焼かれた陶器である。例によって源流は須恵器。日本は古墳時代である。この時代、朝鮮半島では高句麗、新羅、百済が鼎立していた。西暦六六〇年に新羅が半島を統一するがその前後に大量の渡来人がやってきて帰化した。王族らの知識人が多くの家臣を引き連れて渡来したのである。
『日本書紀』によれば日本に仏教をもたらしたのは百済の聖明王で欽明天皇十三年(五五二年)のこと。百年ほど後になるが斉明天皇と中大兄皇子(後の天智天皇)が百済の遺臣・鬼室福信の要請を受けて半島に出兵し敗退している。白村江の戦いですな。日本の歴史上最も半島との交流が密な時期だった。『万葉集』にも帰化人の歌がかなり収録されている。機知に富んでいて日本人より上手い歌も多い。いつの時代でも優秀は人はいるのである。
焼物はおおまかに土器、陶器、炻器、磁器に大別される。土器は縄文土器や弥生土器が代表だ。陶器は唐津焼や古瀬戸、炻器は備前や信楽、磁器は伊万里焼などがその代表である。いずれも粘土から作るのだがカオリン(カオリナイト)と呼ばれる成分が重要になる。良質の粘土にはカオリンが含まれているがその含有量が増えると真っ白な磁器が焼けるようになる。粘土の質によって焼成温度も違う。
土器はだいたい八〇〇度、陶器は一一〇〇度、炻器は一二〇〇度から一三〇〇度、磁器は一三〇〇から一四〇〇度程度で焼く。当然だが焼成温度が高くなるほど固く焼き締まる。土器や陶器を上限温度以上で焼くと割れてしまうということでもある。古墳時代に国産の焼物は土師器と呼ばれる低温で焼いた土器だった。それが帰化人がもたらした須恵器に変わりまたたくまに主流になった。須恵器は炻器で伊万里とほとんど変わらない高温で焼く。陶器だが恐ろしく頑丈だ。実用で酷使できるから普及した。真偽定かでないが須恵器は朝鮮語で固い焼物を意味するスエが語源だと聞いたことがある。
岡山県には須恵器の窯跡がたくさんある。五世紀初め頃から焼かれていたようだ。古墳時代に畿内で大和王朝の支配が盤石のものになるが、そこで使用するための須恵器が畿内周辺で盛んに焼かれた。焼物はいつの時代も実用のための商品である。使いやすいかどうかが最大の商品ポイントだ。それがさらに使い勝手のよい物が現れると時代遅れになり、物そのものが持っている色や形の面白さが目に飛び込んでくるようになる。そうした物が美的価値を持つ骨董になってゆくのである。
【参考図版】櫛描草花文壺
鎌倉時代 高三三・四センチ
頑丈な陶器(炻器)の作り方は朝鮮系の陶工によって日本にもたらされたが、鎌倉時代頃になると様子が変わってくる。須恵器は平安時代後期まで焼かれたがそれと並行して日本人好みの焼物が作られるようになった。
「櫛描草花文壺」は初期の方に属する備前焼。胴に櫛で描いたような草花模様が陰刻されている。これは平家から鎌倉時代に至るまで行われた日宋貿易で盛んに輸入された下手の宋白磁や青磁の技法だ。日本ではまだ絵付けの技術が普及していなかったのである。渥美焼などにも同じ技法が見られる。
須恵器との最大の違いは須恵器が轆轤成形なのに対し、古備前は粘土を紐状にして巻き上げた紐作りだということ。焼成温度は須恵器とほぼ同じで恐ろしく頑丈だが陶体が厚くて重い。使い勝手から言えば須恵器の方が遙かに軽くて使いやすいのだが壺や摺鉢などの実用品を中心に重く武骨で頑丈な和様陶器が増えてゆく。これは六古窯と呼ばれる瀬戸、常滑、越前、信楽、丹波、備前焼などでも同じである。紐作りは縄文土器や弥生土器と同じなので技術的には退行である。なぜそんなことが起こったのかと言えば、日本人が須恵器の技法を完全消化して自分たち好みの陶器を作り始めたからとしか言いようがない。
比喩的に言うと歴史は同じ速度では流れない。外来文化が大量移入された時期にはそれまでの文化が急激かつ劇的に変化する。古墳から飛鳥時代がそうで日本人は仏教伝来によって体系的な宗教と思想を知り、漢字移入によって文字表記技術を得た。激動の時代は平安初期まで続く。しかし菅原道真によって寛平六年(八九四年)に遣唐使が廃止され外来文化の大量移入が止まると国風文化時代になる。外来文化を消化して和様化する時代になるのである。時間はゆっくり流れ始めるのだ。
陶器はいわば文化の末端に過ぎないが国風文化による和様化を物で表現している。平安時代を通して陶器はゆっくり和様化して須恵器が廃れ、以後は平安末から鎌倉時代頃に確立された様式が次の時代の表現基盤になってゆく。
【参考図版】火だすき棒の先水指
桃山時代 高一四・七センチ
【参考図版】三角花生
桃山時代 高二五・八センチ
【参考図版】火だすき徳利
桃山時代 高一一センチ
備前焼が最盛期を迎えたのは桃山時代である。桃山時代はスペインやポルトガルなどとの南蛮貿易が盛んだった。徳川幕府の鎖国令でその影響は封印されてしまった気配があるがコップなどポルトガル語源の日本語が残っていることからもわかるように、一時期は大量の異文化が流入した。ただ日本文化が南蛮文化一色に染まることはなく和様文化にそれが付加された。その影響を陶器で最も強く表しているのが戦国武将・古田織部による織部焼である。
織部は利休高弟だが利休の佗茶を引き継ぎながら華やかな大名茶を創始した。領地だった美濃(現・岐阜県)で焼かれた織部や志野焼の絵付けに南蛮文化の影響が見て取れる。それだけでなく織部は土が自然に固まり勝手に窯の中に入って焼かれたような武骨で無造作な日本人好みの陶器も形にしてみせた。
「火だすき棒の先水指」と「三角花生」は最初から茶道具として作られている。特に「三角花生」は織部好みである。伊賀や信楽焼に織部所持と伝わる同じ形の作品がある。織部は豊臣秀吉の文禄慶長の役で北九州の名護屋城に滞在したがその間に唐津焼も指導している。ただ六古窯で織部の影響が及んだのはほぼ信楽、備前焼だけである。特に備前焼に織部の影響が顕著だ。
鎌倉時代後期には陶体に釉薬を掛けて焼く施釉陶の技術が普及していた。しかし備前焼は今に至るまで釉薬を掛けない。土の質がいいからである。瀬戸焼や織部、志野焼の土は質がよくないので釉薬を掛けて焼かないと水が漏ることがある。
室町時代までの備前焼は採掘した陶土を最低限度精錬しただけだった。それでじゅうぶん固い焼物ができたのである。しかし桃山時代になると土の精錬方法(水簸と言う)が細やかになり不純物の少ないねっとりした陶土を使うようになった。それにより轆轤を使った薄い成形が始まった。桃山の備前焼のほとんどが轆轤成形である。
焼成技術も上がった。火だすきは陶体に稲藁を巻きつけて焼く技法である。そうすると稲藁に含まれる塩化カリウムが陶土と反応して縞模様ができる。どんどん薪を焚くだけでなく窯の空気の入り口を塞いで酸素不足にして焼く方法も一般化した。還元炎焼成である。空気をいっぱい与えて焼くと粘土に含まれる鉄は黒くなるが還元炎で焼くと赤く発色する。火だすきがあり、赤く発色した備前焼が最高の作だといわれる。他の窯では不可能だからである。
「火だすき徳利」も茶道具で茶事の後の懐石料理の席で使われた酒徳利である。肩が張っているので肩衝徳利とも呼ばれる。昭和の名工・加藤唐九郎が備前の徳利が珍重されるのは、手に取った時に酒がどのくらい残っているのかすぐわかるからだと言っている。陶器でそんな薄手の徳利を作れたのは備前焼だけである。ただまー数が少ないので恐ろしく高い。無傷で高さ15センチ程度の使い勝手のいいサイズなら一千万近くするでしょうね。
余談だが桐箱に入っていて桃山備前と貼り紙のある無傷の徳利が百万、二百万で売られていたら物を見なくても贋作である。もしくは幕末から明治頃に作られた倣製品だ。百万二百万は大金だが上には上があるのである。じゃ、もしそういった贋作を掴んでしまったらどうすればいいのか。「こんな贋作を掴んだのは自分がニセモノでダメな人間だからだ」と数日間は眠れない夜を過ごすことですね。そうすれば自ずと物を見る目は上がる。業者を含め骨董好きで一度も贋作を掴まなかった人はいない。一番よくないのは贋作から目をそらしてなかったことにしてしまうことである。
備前焼三耳壺
室町時代中期 高二五・八×胴径(最大値)二三・四センチ
さてここからはもっとザックリとした陶器の鑑賞方法である。焼物の世界ではしばしば「味がいい」とか「景色がいい」といった感覚的褒め言葉を使う。たいてい陶器に対して使われるが侘び寂びと同じで何を言おうとしているのか正確にはよくわからない。しかしある程度まで筋道だって説明することはできる。
僕が骨董コレクターで一番尊敬しているのは柏木貨一郎である。明治政府最初の美術品調査「壬申検査」に同行した人だ。興味のない人が見ればゴミみたいな骨董も丁寧に和紙に包んで保管していた。明治初期の人なのでコレクションには贋作も多いが稀代の目利きだった。この柏木さんの次に尊敬しているのが写真家の土門拳さんである。この人も骨董の目利きだった。
土門さんは家が貧しくご両親がお前に残せるのは「拳」だけだという理由でその名をつけられた。写真家としての業績は言うまでもないので骨董に限れば浮世離れした骨董好きではなかった。土門さんは借金して買った古九谷の皿を売ってマンションを買ったそうだ。そのくらい値上がりしたのである。骨董を含む美術品を好きで集めているだけだ、好きだから贋作でもいいんだという人がいるがどーもスッキリしない。んなことあるわけがない。土門さんの流通価値を含めた冷徹な骨董への処し方の方がよほど正直で好感が持てる。
土門さんは信楽焼もお好きだった。「結局、化学産業として合理性に背反したところに、美は生まれているのである。(中略)僕の信楽大壺の鑑賞も、器体の全面にとどめられた壮烈な土と火との格闘の跡を、戦記ものでも読むみたいにたどることを覚えたときに、自分なりの方法論をつかんだと云えよう」(『わが信楽』)と書き残している。この土門さんの鑑賞方法は信楽以外の陶器にも適用できる。「味」や「景色」といった感覚的言葉の論理的説明である。
日本の陶器の鑑賞・評価方法は特殊だ。世界基準では左右対称の均整の取れたフォルム、達人による流麗な装飾が施された陶磁器を最上とする。しかし日本の陶器の名品はそんな「合理性に背反」している。いびつな形、時には割れ物までが名品となる。人間が施した作為を嫌うのだ。もっと正確に言えば無銘の作だろうと作家モノであろうと作為を超えた無作為を最上とする。
室町から桃山時代にかけての茶人たちはそういった作為なき作為が表れた作品を膨大な陶器の中から選んだ。その際に基準となったのが「器体の全面にとどめられた壮烈な土と火との格闘の跡を、戦記ものでも読むみたいにたどる」視線だった。
備前焼三耳壺 部分
今回紹介した備前壺は三つの耳のうち二つが飛んでいて口の立ち上がりも欠けてしまっている。室町時代の備前は武骨な作りが多いがその中でもうんと武骨だ。表面の紐作りの跡を手で均してさえいない。地元で酷使されてきた下手の壺だ。ただヒビも窯印も胡麻もある。どう転んでも名品になりようがないが器面に残された火と土の格闘の跡を読んで楽しむことができる。骨董は高いものだとお思いの方が多いだろうがそんなことはない。何を陶磁器に求めているのかを把握すればフツーの骨董でもじゅうぶん楽しい。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2024 / 09 / 26 14枚)
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