日本文学の古典中の古典、小説文学の不動の古典は紫式部の『源氏物語』。現在に至るまで欧米人による各種英訳が出版されているが、世界初の英訳は明治15年(1882年)刊の日本人・末松謙澄の手によるもの。欧米文化が怒濤のように流入していた時代に末松はどのような翻訳を行ったのか。気鋭の英文学者・星隆弘が、末松版『源氏物語』英訳の戻し訳によって当時の文化状況と日本文学と英語文化の差異に迫る!
by 金魚屋編集部
[五]
若宮のことも、この先は源氏(源家の君という意味です)と呼ぶことにいたしましょう。帝の傍にくっついて宮仕えの住まう部屋をあちらこちらと通う日々は面白く、行く先々で打ち解けて仲良くなるのもまこと楽しい。けれども、大方は大人の相手ばかりですから、誰よりも気になるのは初々しく色めく藤花の姫宮でした。母の面影は思い出せないが、内侍の典侍がまるで生き写しだと言っていた、それひとつを拠り所に恋しくも懐かしくも思われるのです。
帝は二人を分け隔てなく可愛がり、ときに姫宮には御子を冷たくあしらったり馴れ馴れしいと見損なったりしないよう言い含めておりました。人恋しさも寂しさ故、まして恋しい母とそなたの顔は瓜二つ、べったりと懐くのも宜なるかな。帝の大様なことに甘んじて、若宮は幼心にも年頃芽生えし情の上にも火照る思いを募らせるのでした。
一の宮の母は案の定姫宮を毛嫌いし、延いては源氏憎しの旧怨も焚き付けられることとなりました。兄皇子とて評判の美丈夫です、しかし源氏とは比べるべくもなし、その光り輝くような美しさゆえに世の人は光源氏の君(輝ける源氏の君という意味です)とも綽名しておりました。
やがて十二の歳を迎え、元服の儀(冠礼の儀とも申します)*1が執り行われました。贅の限りを尽くした華々しいものでした。あちらこちらで催す宴も御上の命で禁裏の蔵を開けて公に取り仕切りました。御宸居たる清涼殿の東庇の間に御座を据え、その正面に設けた二席には元服する当の冠者と、冠親と式の執行役を兼ねる左大臣が座ります。
昼四つを回り源氏披露目の段。角髪を結った少年らしい御姿がこの上なく似合っているものですから、着せ替えるのが惜しいようにも思われます。お髪上げを務める大蔵卿蔵人も気が進まぬ様子。この晴れ姿を桐壺も見たかったろうに、と込み上げてくるものを帝はぐっと押し殺しました。冠を授かった御子は一度殿上の間に入り、そこで成人の束帯に衣更し、再び出ると東庭に下り立ち、返礼の拝舞を披露しました。その雅やかな器量に居並ぶ者皆息を呑みました。元服の後は幼気な美しさが見劣りするかもと噂する人もおりましたのに、況して磨きがかかったようです。帝の胸の内には、思い出さぬように努めていた懐かしい思い出の数々が、とめどなく巡るのでした。
左大臣と皇家より降嫁した奥方との間には娘が一人おりました。かねがね兄皇子から入内を見込まれておりましたが、取り合おうとなさいません。左大臣にはむしろ娘を源氏の君にという思惑があり、それを帝の耳にも入れていたのです。帝も色好く思し召されました。名のある後ろ盾を持たぬ源氏にとってはまこと良縁にちがいない。
宮中の者も方々よりの貴賓も皆一堂に会し、盛大な宴が催されました。源氏は姫宮の隣に座りました。饗宴の最中に左大臣は何度か源氏に耳打ちしましたが、初々しくはにかんではぐらかすばかり。
やがて左大臣は御前に呼び出され、しきたり通りの恩賞として、捧げ持つ内侍の手から白い大袿(大仰に誂えた装束)と一揃いの絹衣を賜りました。帝は盃を差し出して詠います、
ちぎりもかたきこころのおにて とわにたばねよういのもとどり*2
これぞ婿取りをお許しになった明かし。左大臣はおどろいた体を為しつつ返歌に応じて、
いかにもこころをこめてゆわえし うちおのむらさき*3さめやらぬかぎり
そして東庭に下り立ち、源氏の所作をそっくり真似て拝謝の意を示したのでした。その褒美に、庭遊びの興として出していた馬寮の馬一頭、蔵人所*4の鷹一羽が贈られました。それから皇子公卿を正殿大階段の前に集め、めいめいにふさわしい贈物が下賜されました。御意により御馳走の折詰と果物を盛った籠も配られて、按排する右大弁は皆に囲まれておいでです。餅の数から何から、兄皇子の元服の儀を上回る大振舞いとなりました。
その日の暮れに若宮は左大臣の屋敷を訪れ、娘御との婚礼の儀がまこと壮麗に執り行われました。瑞瑞と麗しい女婿を迎えて左大臣は上機嫌でしたが、花嫁のほうは、婿がいくつか年下だなんて、二人の年頃を考えれば相容れないほどの大きな差なのに、考えるだに顔を赤らめておいでです。
左大臣は天下に聞こえし名門の出であるだけでなく、娶った奥方は先の皇后腹の皇女、すなわち帝の実の妹という正真正銘の皇統です。これに源氏と娘御の婚姻が加わるのですから、皇太子の祖父となり大いに力付くと思われた右大臣の権勢が時めく間もなく挫かれたのも頷けましょう。
左大臣には他に幾人かの男子があり、そのうちの一人が蔵人の少将、皇統の奥方の御子でございます。
左大臣家とは臣位を競って睨み合う間柄、しかし右大臣は若き蔵人を斥けようとはなさいませんでした。それどころか懇になろうと努めて、ついに弘徽殿の妹である四女に妻わせたのは、まことめでたき歩み寄りと言えましょう。
源氏はなおも宮中に寝起きし、帝の御傍で慰み種を仕っていたので、里に下ることはありませんでした。御新室の葵上(葵の花の御方という意味です)は、ちやほやと可愛がられてきた箱入り娘ではあるが、どうにも惹かれない、藤壺の姫宮のことが前にも況して偲ばれます。傍にいてあんなに楽しい姫宮とは、似ても似つかないのだもの。この一念が頭を離れず、絶えず物思う心に苦いものが混じります。
時は流れ、源氏も大人になりました。もう以前のように姫宮の部屋を訪れるわけには参りません。しかし優しい声音が漏れ聞こえたり、簾障子の向こうから笛や琴の楽の音に乗せた節回しが響いてきたときなど、宮中に住まう身の上をありがたく感じられます。このような暮らしぶりですから、奥方のもとにはちっとも顔を見せず、ときには五日六日と御所で過ごしたのちに一日二日帰るばかりという有り様。
それでも舅は若さ故として咎めません。婿の帰る日には仲のいい友人らを招き寄せ、お気に召しそうな遊びなども色々と用意してもてなすのでした。
御所では亡き母の居室であった淑景舎と、母に付いていた侍女らがそのまま宛がわれました。祖母が暮らした里の屋敷にも修理匠――宮内修繕局――が遣わされて、御心の望むがまま、源氏のために装いきれいに改められました。もとより明媚な風情と森森たる木立に加えて、庭池の縁を一回り拡げるなどの粋を尽くした繕いを施したのです。人がこうと決めたところにいたっておもしろくないのに。源氏は心ひそかに思うのでした。
ここでもう一つ書き添えておきましょう、人呼んで光源氏とは例の人相見の高麗人のつけた名だとか。
【註】
*1 少年が頭に冠もしくは烏帽子を載く儀式。古くから日中両国の中流以上の階級に見られる習わしで、少年期から青年期への変わり目を画すもの。
*2 元服の儀では、冠するのに先立って頭全体の髪を頭頂部で一つに束ね、絹糸の組紐できつく一つ結にする。紐は必ず紫色を用いた。
*3 紫は愛情を象徴する色。
*4 今で言う儀仗近衛兵にあたる家臣の詰所で、鷹の世話が役目の一つだった。
(第05回 了)
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