「モーツァルトとは〈声〉の音楽である」――その声をどう人間の耳は聞き取ってきたのか。その本来的には言語化不能な響きを、人間はどのように言語で、批評で表現して来たのか。日本の現代批評の祖でありモーツアルト批評の嚆矢でもある小林秀雄とモーツアルトを巡る、金魚屋新人賞受賞作家の魂の批評第四弾!
by 金魚屋編集部
八.
この音楽を聴くとは白昼天に煌く星たちを視るように「聴」くことだ、と言ったが、このような思いを抱いたのは私がはじめてではない。フィリップ・ソレルスはいみじくもアルチュール・ランボーの『イリュミナシオン』を評して「ほとんどモーツァルトだ」と語った後、さらにマルチン・ハイデガーを引いて明言している。聴くとは視ることだ、と(『神秘のモーツァルト』、前掲)。そのハイデガーが論拠にしているのが、小林の取り上げたモーツァルトのあの神話的な手紙である。「視る」とは幻視するという意味ではない。この音楽は必ずしも耳で聴くとは限らない、耳にばかり囚われていてはならないということだ。音の姿を「視」るのである。裏返していえば「視」るとは〈声〉を「聴」くことだ。それができたのが小林だった。
マストの尖頂から海中に転落する水夫は、過去全生涯の夢が、恐ろしい神速をもって、彼の眼前を通過するのを見るという。「最高塔」の頂から身を躍らせたランボオは、この水夫の夢を把握して、転落中耳朶を掠める飆風の如き緊迫した律動をもってこれを再現したのである。そして転落中の叫喚が旋転する発想を与えた。最後の一叫喚そのものが、最後の一発想となった。
(「ランボオⅠ」、『作家の顔』、新潮文庫)
〈声〉と「視る」ことが小林の中で一体となっている例である。「神速」というおなじ形容を、さっき私がイ長調のピアノ・コンチェルト(K四八八)で用いたのは偶然ではない。旧ロシアの生んだ批評家・ミハイル・バフチンはそのドストエフスキー論で「速度こそ時間の内において時間を克服する唯一の手段」と言っているが、どれもおなじことを語っているのである。
[前略] リヴィエルは、余儀なく自分のささやかな経験に立ち還る。彼は、「飾画」を読み進み、次の句に至って慄然としたと言う。
妹ルイズ・ヴァアネン・ド・ヴォランゲムへ。――「北国」の海に向いた彼女の青い 尼僧帽。――難破した人々の為に。
彼は言う、不意に何処からともなく伝えられる音信が、自分の近くに小さな混乱を起こしたと思うと、魂の奥底で一種の事件が起った、ああ、諸君は分ってくれるであろうか、と。
(「ランボオⅢ」、『作家の顔』、新潮文庫)
これは「他界」の光景だ、魂がそれを見たのだと小林は言っているのだが、モーツァルトを聴くようにしてこの詩を読むならば、その体験はおのずからこのように語られるはずだ、と私は誰よりも小林に言いたいのである。モーツァルトの「音信」はそのように「魂の奥底で」ひびき、伝わった者の片隅で「小さな混乱」を起こすにちがいない。小林にそう言ったら、かれはきっと頷いたことだろう。
*
ついでだが、〈声〉のエピソードにもうひとつつけ加えておきたい。小林の『信じることと知ること』を読んでから十数年後、私はある本を読んでいて心底からおどろくほかないことばに出会った。これは天才にしか書きえないことばであると思ったので、以下に引く。
ずいぶんまえのことだが、モーツァルトのピアノ協奏曲第二十番を、グルダのCDで聞いていたとき、第一楽章の四分ちょっとのところで、全体の立派な構成と不釣り合いな、異様に幼稚な、男の子の泣き声が聞こえてきたことがある。聞き進むうち、その箇所からドクドクと血が流れ出しているのがありありとわかって恐ろしかった。そのときから、それまで美しいピンク色をしていると思っていたモーツァルトのすべての音が、じつはすべて血で染まったピンクだと知ったのである。
(強調原文、永井均『マンガは哲学する』、岩波現代文庫)
永井は、いくつものCDを聴いてこの「男の子」という直感を裏づけたのだという。ちなみに「多くの女性ピアニストがこの箇所の解釈を誤っているように聞こえた……ただし内田光子は、優しく包帯をまく看護婦さんのようにそこを弾いており、それはそれでとても美しい」と続けている。
面白半分や思いつきで書ける文章ではない。モーツァルトとはまさにこのように、ただそのひとにだけ打ち明けられるように聴こえる音楽であることを、この異能の哲学者は、誰よりも具体的に示したのである。これまた〈声〉の証言である。かれが「聴」いたのはまぼろしではない、亡霊の声なのだ。
*
小林が〈歌〉のひとではなく、〈声〉のひとである例証は、このひとのモーツァルトの好みからも得られるだろう。
このひとがモーツァルトのあまたのジャンルの中で交響曲と弦楽四重奏・五重奏曲を偏愛しているのは間違いない事実である。ピアノ曲ですら、言及しているのはせいぜいソナタ止まりでしかない。もちろん語るにあたって選択した曲とじっさいに好んで聴いていた曲が同一だとは限らないし、書きたかったが取り下げた曲もあるだろう。食わず嫌いもあったかもしれない。けれどしつこいようだが、劇音楽に対する評価のあまりの貧しさは、何としたことか。
二〇世紀の二つの大戦にはさまれた一九二〇年代から三〇年代にかけて流通したSPレコードを、小林は日常的に耳にしていたはずだ。そうでなければ道頓堀の経験はありえないし、その後で「百貨店に駆け込み、レコオドを聴いた」と書くこともできまい。当時かれは十代の終わりから二十代、SPでオペラ全曲を聴くのはさすがに困難だったかもしれないが、アリアなどさわりを聴くくらいは可能だったろう。当時のオペラ指揮者と言えば、トーマス・ビーチャム(1879-1961)やフリッツ・ブッシュ(1890-1951、アドルフとヘルマンの兄)あたりがすぐ思い浮かぶ。ビーチャムの『魔笛』の録音は一九三七年だから日本で聴くのは情勢的に微妙だったかもしれない。だがグラインドボーン音楽祭でのブッシュの録音や一九二〇年代のブルーノ・ワルターなら聴けただろう。
「僅かばかりのレコオドに僅かばかりのスコア、それに、決して正確な音を出したがらぬ古びた安物の蓄音機(章番号2)」に不服はないと嘯いた小林であるが、貧乏学生だった私など、ブッシュの魔法のような『ドン・ジョヴァンニ』に憑かれ、「古びた安物の」ラジカセで立て続けに三回ぶっ通しで聴くほど熱中したものだ。
百歩譲って敗戦後、日本が講和条約を結ぶころではあるが、同盟国だったドイツを代表する指揮者でベルリン・フィルの常任指揮者だったウィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)の『ドン・ジョヴァンニ』、亡命先でメトロポリタンを率いたワルターの『魔笛』はもちろん、天才・エーリヒ・クライバー(1890-1956、カルロスの父)の『フィガロの結婚』のモノラル録音(1955)をもし聴いていれば、たとえ『モオツァルト』執筆後であっても見解を修正せずに版を重ねることはなかったろう。
ヴァイオリン好きだった小林は、ジョコンダ・デ・ヴィート(1907-1994)がお気に入りだったようだが、それなら彼女の弾くヴァイオリン協奏曲第三番(K二一六)を聴いていないとは言わせない。「天から降ってきたよう」とアルフレート・アインシュタインに言わせたこの曲、とりわけアダージョを彼女の演奏で聴けば、恩寵の雪が舞うさまが小林にもありありと「視えた」だろう。
フルートならば巨人マルセル・モイーズ(1889-1984)を知らなかったはずがない。ピアニストとなればマルグリット・ロン(1874-1966)、ワンダ・ランドフスカ(1879-1959)、エドウィン・フィッシャー(1886-1960)、若きリリー・クラウス(1903-1986)等々、きら星のようなカリスマ・プレイヤーたちのSPが出回っていただろう。
たとえ恵まれた環境でなくても、聴こうと意志すればそれなりに聴けたであろう作品を前にしながら聴かなかった、あるいは聴いても論ずるに足らぬと選択から外した。そうみなしたくなる理由は、モーツァルトの〈歌〉に対する、具体的には劇音楽とピアノ協奏曲という二つの屋台骨に対する、小林の理解の乏しさによる。言うまでもないが、モーツァルトがほぼその生涯にわたって関心と熱意と創意工夫を絶やさなかったジャンルがこの二つである。劇音楽は当時、作曲家としていちばんの稼ぎ口だったし、十八世紀末、進化の途にあったクラヴィコードはかれが何より得意とした楽器で、その潜在能力と可能性とを死の年まで追求して止まなかった楽曲がクラヴィーア(ピアノ)協奏曲である……といったていどの知見が当時の小林に無かったはずがない。たとえ知りえなかったとしても、そのうち一曲でも二曲でもよくよく耳に刻めば、『モオツァルト』はあのように偏った論調に終始することもなかったろう。ピアノ協奏曲として初のオリジナル作品である第五番(K一七五)を十七歳で作曲してから最晩年の二七番まで一つとして凡作はなく、それぞれに孤絶した個性の光をたたえ、小林の狭隘なモーツァルト観を激しく揺さぶる世界がそこに剥き出されてあったのだから。
ある年の春だった。
その当時住んでいた習志野のマンションに近い、かつて娘の通っていた中学校へ向かう途の土手で、一本のソメイヨシノの大樹が満開を迎えた日の明け方、夢を見た。目の前を覆い尽くすように桜の花弁が乱れ、そのひとひらずつが自らの意志をもつかのようにいっせいに聴きおぼえのある旋律をかなでた。忘れもしない、それは二台のピアノのための協奏曲第一〇番変ホ長調(K三六五)のアレグロ・ロンドだった。かれらの裏側には死がべったりと貼り付いていた。花たちは私を包み込みながらとほうもないオーケストラと化し、えもいわれぬアンサンブルを奏した。曲は進むにつれ加速を増し、これまでの私の人生を閃光が駆けるようにともにめぐった。駆けながら「これでいいんだ」と耳元で話しかけてくるようだった。現実に生で聴くよりもずっとあざやかに鳴りひびいた。えっ何、現実だって? これが現実でなかったら何を現実というんだ……目覚めた、と思ったら全身に鳥肌が立っていた。われに帰ったと同時に涙があふれ出た。モーツァルトというひとはまったく、何という曲を作ったことか。音楽と生と死とたわむれが渾然一体になった〝カーニバル的宇宙(バフチン)〟がそこに厳然としてあった。
これがモーツァルトのピアノ協奏曲――モーツァルトの〈歌〉である。
*
ところが『モオツァルト』執筆以後、小林がまともに言及したモーツァルトの作品はと言えば、『ゴッホの手紙』冒頭での〝D調クインテット〟体験を数えるばかりだったのである。このことが私には残念でならない。あれほどの眼や耳の持ち主ならばと思えばこそ、不満を言いたてたくなるのだ。〈声〉は〈歌〉と必ずしもトレードオフの関係にあるわけではない。じっさいモーツァルトの中では拮抗しながら両立していた。〈声〉のひとは〈歌〉によっては充たされず、つねにその向こう側へと突き抜けてそこで共振しようとするが、そのためいま・ここで展開される〈歌〉のほんとうのおそろしさ、デモーニッシュな力を聴き逃してしまうのである。
このあいだアインシュタインの書いたものを読んでいましたらね、ヴェルディを論じているのです。あれはメロディストで通っている人だが、あのくらいメロディを嫌った人はないということを書いているのですよ。ヴェルディのメロディというものは、おまえたちがメロディだなんて思っている裏の方で鳴っているもので、おまえたちのメロディとはぜんぜん違うもんだ。ということをしきりにいっているのですよ。きみたち「トラヴィアタ」を聴いても、アイーダを聴いても、耳に快いメロディだといっているけれども、それは間違いだ。そんなことをいったらきみたちはヴェルディという人を間違える。ヴェルディがどうしてワーグナーと拮抗するくらい偉い音楽家であるかということは、わからないだろう。そういうことをいってるんです。
(五味康祐との対談「音楽談義」、『歴史について 小林秀雄対談集』、文春文庫)
「メロディだなんて思っている裏の方で鳴っているもの」とは、メロディに乗せることができなかったもの、メロディからこぼれ落ちてしまったもの、「耳に快い」メロディによって覆い隠されてしまったもの――すなわち〈声〉である。小林の自意識は、はじめからメロディに耳を閉ざし、かれの自意識をすり抜けていったものに心をとめ、おそれを抱いていた。がそのために、メロディそのものがもつおそろしさには気づかなかった。代わりにかれは、言語に浮上してこない〈声〉に対して、アインシュタインの言説にするどく反応したこのときのように、〈声〉ならぬ裏声で応えていたのである。
九.
そろそろ小林の〝D調クインテット〟体験に触れよう。それは『ゴッホの手紙』の書き出しから間もない箇所で言及される。
小林はあるとき展覧会で『鴉のいる麦畑』の複製画を目にし、「ある一つの巨きな眼に見据えられ」た。芝居じみたいつもの語り口に辟易するひともいるだろう。けれどゴッホという画家はとうてい尋常の精神の持ち主ではない。とりわけ最晩年、一八九〇年の『荒れもようの空と麦畑』や『荒れ模様の空のオーヴェルの麦畑』など、魂が剥き出しにさらされているような作品を見つめ続けていると、それに向き合うこちら側もじしんの表皮が剥がれ落ち、空の状態にされてしまう。むしろ小林の反応は素直だと思う。
それと「全く同じ窮境に立った」と受けて、小林がモーツァルト体験を綴っているのはだから、けっして筋の通らない話ではない。『モオツァルト』を書く四年前、五月のある荒れ模様の朝、小林は友人の家で、弦楽五重奏曲第五番(ニ長調 K五九三)を聴いていた。
夜来の豪雨はあがっていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って泡立っていた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸しているように見え、海の方から間断なくやってくる白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向って徐々に動くように見えた。僕は、その時、モオツァルトの音楽の精巧明晳な形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見つめていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。そしてそこに、音楽史的時間とはなんの関係もない、聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見るように感じ、同時におよそ音楽美学というものの観念上の限界が突破されたように感じた。
(『ゴッホの手紙』、角川文庫)
この体験について、評論家の杉本圭司はこう語っている。
[前略] 音は、現にレコードによって再生されているにもかかわらず、「海の方から、山の方からやって来」る。つまり彼の「頭の中で」鳴っている。嘗て道頓堀で襲われた同じ「感覚」が、ふたたび、彼を見舞っているのである。
「突然、感動が来た」というその「突然」が、ニ長調クインテットのどの楽節でもたらされたものであったのかを、彼は書いていないが、それはこの曲のどの主題でも、どの和声でも、どの対位法でもなかっただろう。むしろその瞬間、K.五九三のあらゆる主題、あらゆる和声、あらゆる対位法が、つまり「モオツァルトの音楽の精巧明皙な形式」そのものが、一時に、彼の頭の中で鳴ったのではあるまいか。
(強調原文、杉本圭司「小林秀雄の「時」或る冬の夜のモオツァルト」、『小林秀雄 最後の音楽会』、新潮社)
「一時に、彼の頭の中で鳴った」と強調点まで付して書きたかった杉本の気持ちはわからなくはない。しかしそれは、小林が『モオツァルト』で語ったことを――くだんの道頓堀の体験と「言い代えれば、彼は、或る主題が鳴るところに、それを主題とする全作品を予感するのではなかろうか。想像のなかでは、音楽は次々に順を追うて演奏されるのではない。一幅の絵を見るように完成した姿で現れると、彼が手紙のなかで言っている事は、そういう事なのではなかろうか」という一文をもとに――再構成したたんなる憶測にすぎない。この曲を第一楽章から第四楽章まで一度でも通して聴き入ってみれば、杉本のように「その「突然」が、ニ長調クインテットのどの楽節でもたらされたものであったのかを、彼は書いていないが、それはこの曲のどの主題でも、どの和声でも、どの対位法でもなかっただろう」という言い方はできないはずである。「どの楽節でもたらされたものであったのか」は、火を見るより明らかであるから。曲のすべては第二楽章アダージョの展開部にある。それをたしかに聴き取り、体験を素直に綴った『ゴッホの手紙』のこのくだりは観念的な記述に傾斜しがちな『モオツァルト』とちがって、具体的な一音楽作品の心臓を射抜いた描写であると思う。もちろん、やって来るのは海や山とは限らない。音はそのような場所性を超えてひびくのだから。
上弦がト長調で寂かにゆったりと歌い上げるのに続いて、ニ短調の第二主題が三連音符をともなって不気味な予感をもたらす。この箇所は『ジュピター交響曲』のアンダンテ・カンタービレへの一種の自己オマージュである。展開部に入ると、異なる〈声〉たちが短く不安定な音型で、不協和音と転調をくり返す。そしてそれに並走しながら、出し抜けに登場するチェロのピッチカートとひびきあう。その瞬間、時空の亀裂が生じる。それはほんの数十秒のできごとだが、二度と再現されることはない。ここにはじめて杉本のいう「K.五九三のあらゆる主題、あらゆる和声、あらゆる対位法が」そこから「一時に」生じて来るような――いやそれどころか、すべての時空がそこから生じて来るような底無し穴がわずかに扉を開くのである。〝D調クインテット〟はこの数小節に向けての予兆の音楽であり、〈声〉の叛乱とそれがもたらす「絶対無」の音楽である。
この曲については、少々長くなるが、読者の理解の一助となるよう少々説明を加えておきたい。
モーツァルトの全作品中でも特筆されていいこの曲に対する世の関心の低さは――弦楽五重奏曲に限ってみても、一七八七年に作られたハ長調(K五一五)とト短調(K五一六)の両輪の花に比して――それ自体が特筆されていい。人びとはこれまで二百三十年もの間、何を聴いて来たのか。
このクインテットを九〇年の寡黙な創作時期、いわゆる〝危機〟に引きつけて論じるひともいる(ロジェ・ラポルト)が、説得力があるとは思えない。事実としてこの年、三十四歳のモーツァルトは、この曲以外に注目すべき作品を書いていない。しかもこの曲は、ひとを楽しませる要素に乏しい。聴く者を蕩けさせるような〈歌〉もない。それがメジャーにならないいちばんの理由だろう。しかしそれはモーツァルトの「霊感」の衰えによるものではけっしてない。また四大シンフォニーによってウィーン古典派様式の頂をきわめたかれが、次のスタイルを見出すための過渡期の苦渋でもない。四大シンフォニーと言えば八六年と八八年、三十歳から三十二歳にかけてである。そのひと月後には、室内楽の最高傑作と言っても過言でないディヴェルティメント形式の弦楽三重奏曲(変ホ長調、K五六三)を作っている。クインテットはさらにその後に作られているのだ。かつてないスタイルで。過渡期と言うなら、モーツァルトの作曲人生すべてが過渡期であろう。
この年の寡作ぶりについて、十八世紀末のヨーロッパ社会が絶対王政からブルジョア革命を経、近代国民国家を確立していく端境期と関連づけて考えてみるのも興味深い。宮廷音楽家としてのモーツァルトからフリーのプロとなったモーツァルトの社会的ポジションの変化である。だがこの曲にはかかわりのないことだ。そこには生涯をつらぬくモーツァルトの音楽的運動のもっとも重要な特徴がはっきりとみられるからである。
この曲の前後の年に作られた作品をみてみよう。半年前、五月には『プロイセン王四重奏曲』の第二番(K五八九)、翌六月には同三番(K五九〇)が作られている。さらに遡ること半年、九〇年一月には『コシ・ファン・トゥッテ』が初演され、さらに半年遡る八九年九月にはクラリネット五重奏曲(K五八一)が生まれている。半年ごとに名曲を世に送り出しているこの創作ペースをどう評価するか。モーツァルトでなければ誰も寡作とは言わないだろう。
これ以後の作品をみよう。ひと月後、年明け一月には最後のピアノ協奏曲(K五九五)、リート『春への憧れ』、四月には弦楽五重奏曲を締めくくる第六番、七月には『魔笛』の曲作りがピークを迎え、九月には『魔笛』とそれにほぼ同時並行的に作られた『皇帝ティートの慈悲』の二つのオペラが上演されているのである。ちなみに『皇帝ティートの慈悲』もあまり上演される機会がないが、『魔笛』に劣らないほどその曲作りはみごとなもので、序曲ひとつとってもかれの管弦楽の書法の洗練ぶりが飛びぬけていて、身ぶるいせずにいられない。
以上に掲げたどの作品を取っても唯一無二と言っていいが、このクインテットはどの作品にもましてユニークで、どれにも似ていない。晩年に特有なあの簡潔・透明な書法はここにも感じられなくはないが、この曲には異なる創意が感じられる。おそらくは先行する三重奏曲(K五六三)とクラリネット五重奏曲(K五八一)によって頂をきわめた室内楽の、さらなる可能性をこころみた作品なのである。
すでに一七七三年、弦楽四重奏曲(イ長調 K一六九)やハイドンの影響でつくられた初の弦楽五重奏曲(変ロ長調 K一七四)のアダージョにも不気味な萌芽がみられる。『ミサ曲 ハ短調』(K四二七)の『ミゼレーレ』と『スシペ』には、声楽ではあるがさらにその気配が濃厚である。だが、音のあわいにうがたれた何とも不可解な、聴く者の思考が宙吊りにされるようなこのアダージョの亀裂は、もはや音楽としての一線を越え出てしまっている。
ところが、曲全体を支配する均衡と調和はゆらぎつつもけっして崩れることはない。モーツァルトという音楽家はどこまで凄いのか、とつくづく驚嘆せずにおれないのはむしろこのバランス感覚にある。一方で均衡と調和があるからこそ、亀裂の与える衝撃は大きく、本人が語った通り、耳にする者には理由もよくわからぬままに至福のおとずれを実感させるのだ。癲癇者のアウラ体験のように。
それはとても内密でふしぎな熱をおびながら、どこまでも冴えわたった意識によってのみ一望の下に聴かれる。聴くひとの内奥に宿る律動を誘い、これに共鳴りする。律動はいったん呼び覚まされると、そのひとの最深部でこだまし、かれの外へ、かれを包むこの世界の律動へとあまねく広がり、それらと交わっていく。共鳴りの効果はまことに完璧なので、かれの耳にはいずこの場所より発し来たるのかわからなくなり、ありとあらゆる場所から鳴りひびいてくると感じられる。音楽は「頭の中で」鳴るのではない。世界全体で、いや世界全体がいちどきに鳴るのだ。これを小林が「もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た」と言うのも、杉本が「一時に、彼の頭の中で鳴った」と表現しているのも、結果としてはともに正しい。ただし観念や憶測から「彼の頭の中で」と続けてしまった杉本とちがって、じっさいに自らの耳が聴き取ったことを忠実に書いた〝印象批評〟たりえたのは小林の方である。くり返すがこれは、小林秀雄という特異な感受性がもよおした一体験ではない。そして、ひとたびこれを体験した者をモーツァルト教の信者にしてしまう意味で、危ない音楽である。
萩野篤人
(第05回 了)
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*『モーツァルトの〈声〉、裏声で応えた小林秀雄』は24日にアップされます。
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