日本文学の古典中の古典、小説文学の不動の古典は紫式部の『源氏物語』。現在に至るまで欧米人による各種英訳が出版されているが、世界初の英訳は明治15年(1882年)刊の日本人・末松謙澄の手によるもの。欧米文化が怒濤のように流入していた時代に末松はどのような翻訳を行ったのか。気鋭の英文学者・星隆弘が、末松版『源氏物語』英訳の戻し訳によって当時の文化状況と日本文学と英語文化の差異に迫る!
by 金魚屋編集部
[四]
この年、桐壺の母君が此岸を去りました。もっと早くに娘の後を追いたかったのかもしれません。ただ一つ心残りと言い遺したのは、大切に可愛がってきた孫を置いて逝かねばならないことでした。
これを境に、若宮は御所の暮らしに戻られました。明けて七つになる年には帝の御膝下で読み書きを習い始めました。帝は弘徽殿に通うのにも若宮を御伴に加えるようになりました。「件の母はもういないのだ。せめてこの子のことは、心を柔らげて迎え入れよ」と言うのです。心を石した益荒男でも、憎き敵同士であったとしても、目の当たりにすれば忽ち莞爾と頬の緩むような弟宮です、皇太子たる兄宮の母とて、どうして心を鬼にして除け者にできましょう。二人の姉宮も腹違いの弟のことを楽しい遊び友達ができたと思っているのでした。誰もが進んで若宮に声を掛けます、若宮の振る舞いにはすでに人を惹きつける色気が漂っていて、それがまたたまらなく、可愛がりたいと思わせるのです。一通りの手習いについては言わずもがな、別けても笛や琴*1を奏す御手並はそれは見事なものでした。
この頃、高麗より使節が来朝し、優れた人相見を伴れておりました。帝もその噂を聞き、若宮を占わせてみたいと思し召されました。しかし、それは宇多帝の御遺誡に背くこと、外蛮人を宮中に召くべからずなのです。そこで、御子をお付きの指南役である右大弁の子のように装わせ、使節らがもてなされている鴻臚館へと送り出したのでした。
人相見は御子を見るなり仰天し、しきりに首を傾げ、御子の御顔立ちに現れた相を捉えかねているようでしたが、ついに口を開いて言うことには、「この男子の顔はこの国の頂に上り立つ御方であると示しておりますが、そうなれば治世は荒れ、災厄続きとなります。しかし、国を支える柱たる御身分に留まろうとなさるのならば、定めもまた変わりましょう」
右大弁は秀れた学者でした。高麗の人相見とも打ち解けた話をし、幾首か漢詩を詠み交わしました。斯くも稀なる麒麟児に謁える門出の倖なる哉、とは高麗人の返歌です。御子もまた数行の詩を拵えてみせたので、使節らは褒美の品々を贈り、その返礼には宮中の財物が惜しげなくたんまりと下賜せられたのでした。
この度の御忍びは用心に用心を重ねて為果せたはずでしたが、どこからどう漏れたものか人の知るところとなり、右大臣の耳にも入り、すべからく怪しまれ、どういう積りかと御心を訝しむきっかけとなりました。しかしその御心の趣きたるや真に行き届いたものでした。御子の立太子を見送ったことも然ること。さらには邦人の人相見にも遣いを出し、その卜占によっても見送りは是なりと裏付けられたと聞けば、我が意を得たりと頷かれるのでした。母方に頼れる後ろ楯のないまま皇嗣となるのは、むしろ御子には憂き目となろうと弁えておられるのです。第一、この御代がいつまで存えるかも時の運、そう思えばこそ、御子のみならず治世のためにも、臣下の身分に留め、内より外から王事を扶ける役目に就けるほうがよいと御考えなのでした。
帝は御子が如何なる道にも通ずるようにとますます手習いに御目を掛けるようになりました。御子も習えば習うほどに才学を示されます――それはもう一臣下の身分に定め置くのは勿体無いほどです。それでも、やはり、御子の親王宣下は疑いの念を掻き立てることになる、いずれの卜者に使を立てても異口同音に差し控えることを忠言する、となればもはや諦めもつき新たに氏族を設けることとなりました。源をその氏名とし、若宮をその祖に据えたのです。*2
恋人に先立たれてからはや幾年月、それでも愛しい面影が御心を去ることはありませんでした。慰めになればとの計らいで幾人かの女が引見に参じましたが、いずれも甲斐のないものでした。
ときに、先帝の第四子にうら若き女宮がございました。末はいかなる美女となろうかというその花顔、虫などつかぬようにと皇太后は目を光らせ、先帝薨りし後を守っておいででした。内侍の典侍は先帝の代から宮仕えしていた縁で皇太后とは昵近の間柄、姫御子とも幼子の時分から親しんでおりましたが、その面立ちが桐壺とよく似ておりましたので、御召になられてはどうかと奏申したところ、
「三代に渡りお仕えして参りましたが、御方の生前を彷彿とさせたのは皇太后の姫御子ただ一人でございます。それはもう見紛うほどで、真にお美しくなられて」
この物言いは空言とも思えぬ、と帝も興を催されたのでした。
さっそく皇太后にこの話を持ちかけると、しかし、決して耳を傾けようとなさいません。「ああ嫌だ。一の宮の母に散々いたぶられて桐壺が命を縮めたこと、忘れたわけでもあるまいに」と撥ねつけるのです。
姫御子を帝に近づけてなるものかと顔を顰めていた皇太后も、やがて薨り、後には忘形見の姫御子がひとり遺されました。帝は大いに憐れんで、我が皇女として迎えたいと思し召されていることを仄めかせば、後見人である兄皇子の兵部卿も、宮中の暮らしのほうが独り閑寂に里ごもりするよりも面白かろうと慮り、妹思いに入内の手引きをするのでした。
人呼んで藤壺の姫宮とは、あてがわれた部屋の名(藤花の間という意味です)に因んだものです。
真に、顔貌も物腰も、桐壺の生き写しでした。桐壺と帝を絶えず悩ませた恋敵らの嫌がらせも、后腹の威光には手も足も出ず、かくして藤壺は誰彼かまわず姫らしく堂々と振る舞うことができました。そして帝の御心も、桐壺を忘れたとは言わぬまでも、次第次第に藤壺に惹かれていったのです。
【註】
*1 ツィターに似るが、より大ぶりな弦楽器の総称。
*2 当時、皇子が新たな氏族の祖となることは珍しくなく、源姓は最も頻繁に諱に冠して名乗られた。賜姓された皇子は皇位継承権を持たない。
(第04回 了)
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