日本文学の古典中の古典、小説文学の不動の古典は紫式部の『源氏物語』。現在に至るまで欧米人による各種英訳が出版されているが、世界初の英訳は明治15年(1882年)刊の日本人・末松謙澄の手によるもの。欧米文化が怒濤のように流入していた時代に末松はどのような翻訳を行ったのか。気鋭の英文学者・星隆弘が、末松版『源氏物語』英訳の戻し訳によって当時の文化状況と日本文学と英語文化の差異に迫る!
by 金魚屋編集部
[六]
箒木
光源氏――その名は殊に知れ渡り、論う者、嘖む者は数知れず。慥かに生前の密事の数々、生生と伝え聞けば忘れ得ぬものばかり。されど密事はあくまで密かにと一切表に出さぬよう努めて、人品潔く保とうと心を配るあまり、度が過ぎて恋のいろはも知らぬかのように装っておいででしたのを、交野の少将*1がご覧になればさぞお笑いになったことでしょう。
そうしてつくづく用心しても秘密は容易に口から口へと漏れるもの。まこと人の口に戸は立てられず。況して禍いしたのは、難なく手の届くものには有り難みを感じられないその性分、故に心は好ましからぬ方へ方へと赴き、様々な過ちを重ねて生涯を送るのです。
折しも五月雨の季節(然るに五月の頃)、御所は未だ物忌*2明かず閉め切っておりました。中将*3となった源氏は相変わらず宮中に暮らしておりましたが、斎籠りつづきも最早幾日となったか。舅もさすがに思い遣って、憂晴しにと息子らを訪ねさせます。そのうちの一人、蔵人の少将更め頭中将はこよなく気の合う親友でした。右大臣の四女の婿の身ながら、精気溌剌たるのが持前で、里方の屋敷にあまり寄り付かないあたりも源氏と似通っておりました。源氏が左大臣宅に寄れば片時も離れぬ仲好し振りで、学問をするのも遊ぶのも、どこへ行くのも二人共々。遠慮も礼儀も容れぬ間柄、何事につけ気兼ねなく打ち明け合える仲でした。
ある晩のこと。折柄の長雨に滅入る内裏には出歩く人影も疎ら、源氏の部屋も平生より謐謐としております。灯台を引き寄せて読み物に耽っておいでのところ、漫ろに書を措いたかと思えば、部屋の隅の厨子から文やら書付やらを取り出すので、居合わせた頭中将が覗き見たがっているのを、源氏は顔を見るなり察して、
「まあ、見せられるのもあるが、見せられないのも」
見せられないの、と頭中将は鸚鵡返しにし、「そういうのをこそ見たいものだ。普通の文なら僕の元へも来る。僕が見たいというのは柔き筆の訴えだ、優しい人からの憾み言とか、黄昏に書き散らした思慕(おもい)の丈とか」
小舅にそうせがまれては、嫌とは言えず。しかし、真に秘すべき文ならば只の厨子に無造作に蔵っておくはずもないのですから、それよりは一段劣ったものばかりだったのでございましょう。
取り取り集めたものだ。文の束を繰りながら頭中将が漏らします。そして、これはあの人あれはかの人と見当をつけて問い質せば、当たりもあれば外れもあり、ならばとさらに首を捻りなさる。*4源氏は打笑むも言葉少なに、曖昧な返事ばかりで、文を措くまではぐらかしておりました。「そっちこそ沢山集めているはず。ちょっと見せてごらんよ。そうすればこっちから厨子を開くさ、こじ開けようとなさらなくても」
「見せるに足るようなのがあると思うかい」と頭中将が答えました。今まさにわかったところだというのに、と続けます、「これこそ探し求めた女、これが最上、と言い得るような美人と巡り会うことがどんなに得難いか。慥かに興をそそられる女はたくさんいる、筆が立つのとか、求められれば気の利いた返しのできる賢いのとか。ところがそういうのに限って、己の手柄に思い上がり、身の程もわきまえず人を蔑むのに忙しいという手合ばかり。親に蝶よ花よとかしずかれた秘蔵の箱入り娘というのもある。成程、大抵は可憐で、大方は楚々として、楽や歌に励んでその甲斐あるのも多いし、殊更に優れてものになることもある。そうなると周りはもう取り柄ばかりを口を極めて褒めそやし、難があっても隠してしまう。そしてこちらが大仰な褒め言葉を鵜呑みにすれば、事あるごとに遣瀬なくなるのを禁じ得ないというわけさ」
そう言うと頭中将は口を噤み、身に覚えのあるのを恥入るような素振りをするので、源氏はにやりと口を開き、「しかし、一つとて見どころのない人などいるものかな」
「そう、そういうまるで可愛げのないようなのには、誰も魔が差したりしないよ」と頭中将が続けます、「思うに、可愛げを取沙汰すればいと高き者といと低き者の数は等しく釣り合う。つまりどちらもそうはいない。素性もまた三つの位に分けられる。とりわけて良家の出なら、大抵大事にされすぎていて、人目を遠ざけた奥に閉じ籠って半生を送るから、おずおずした内気な女になりがちだ。中位の出なら、目にすることも多いので、気立てを見定めるのに具合がいい。下の位となると、わざわざ付き合ってみたところでなんにもならない」
頭中将の話ぶりは女性のなんたるかを知り尽くしているかのようで、源氏はじっと聞き入っておりました。「ところでその三つの位というのは何で決まってどう分ける。ときには良い家柄に生まれながらも身を持ち下げて、卑しく落ちぶれた様にはもう位高の時分の栄えなど見る影もないというのもある。片や、低い生まれに発して官位を昇り上がり、此見よ顔で仰々しい屋敷を構えて、誰彼となく見下しているようなのもいる。こういう手合はどの位に分け入れようか」
【註】
*1源氏以前に書かれたある物語の主人公の名で、色男の鑑として描かれた。
*2重大事件や怪異現象が生じた際、または家中の不幸に際した服喪期間に執り行った潔斎の儀。
*3近衛府の将官。
*4恋文にはふつう署名がないか、かりそめ
(第06回 了)
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