暑い夏だった
僕は中学生で家々の塀に囲まれた
狭い一本道を自転車で走っていた
向こうから同級生の男の子が自転車で走ってきた
「どこに行くの?」
「川に魚をとりに行く」
少し自転車のスピードをゆるめ
ちらりと僕を見て走り去った
荷台にバケツと釣り竿をくくりつけていた
前を向いてペダルをこぎながら
僕は彼と遊びたかったのだと気づいた
しかし彼の顔にも声にも拒絶があった
「おまえは来るな」
「おまえなんか来るな」と言っていた
僕はそれを受け入れた
それはもう珍しい出来事ではなくなっていた
夜空は月で明るく
遠くの森が影絵のようだった
木々の間にたくさんの懐中電灯の光が見えた
天に地に乱舞していた
森の向こうが川だった
「中学生の子が溺れたんだって」
アスファルトの道路の真ん中に立って見つめていると
近所のおばさんが心配そうな声で言った
とっさに〝彼〟だと思った
前の年のボーイスカウトのサマーキャンプで
川遊びする前に引率のリーダーが
「小さい子から目を離さないように
大人は溺れそうになったら叫ぶけど
小さい子は黙って石みたいに沈んじゃうからな」
真顔で注意したのを思い出した
僕と彼は並んでリーダーの言葉を聞いた
さして深くなく流れもゆるい川で
小学生たちに気を配りながら二人で遊んだ
僕も彼もずっと笑っていた
彼は溺れるとき叫んだだろうか
それとも小さな子どものように
物言わず石のように沈んでいったのだろうか
僕は彼と入れ替わることができた
僕らは死にとても近い場所にいた
「僕はなぜ嫌われるんだろう」
下校途中で隣を歩いていた同級生にたずねた
彼は確かに僕の友だちだった
僕は高校生になっていた
彼は僕を見た
黙って曖昧に微笑んだ
それが答えのすべてだった
僕は大学生になった
七、八歲のときに海で溺れかかったのは
遠い思い出になっていた
助けてくれたのは大学生で
僕は浅瀬に沈んでいたそうだ
「だいじょぶか、だいじょぶか」
青年はひきつった顔で何度もたずねた
お礼を言うことなど思いつかなかった
ただ青年が発する青臭い汗の臭いがずっと記憶に残った
僕は彼と同じ臭いのする青年になっていた
1985年、夏
やはり暑い夏
大学で知り合った
親友だと思っていた青年が言った
「君は何が欲しい? 知識か?」
僕はおずおずと受け取った
「次は何が欲しい? 名誉か?」
僕はおずおずと夢見始めた
彼は三度目に聞いた
「次は何が欲しい? 何が、何が?」
僕は答えた
「君が永遠に僕の前から消え去ることを望む」
さっきまでそこには誰もいなかった
僕が通ったあとに
誰かがそこに来た
おまえが来るまえに
僕がそこを通り過ぎた
それは僕の物ではない
けっして僕の物ではない受け取ってはならない
誰も僕の欲しいものを生み出せない
ある舞踏家が僕に言った
「悲しいだけじゃダメなんです
悲しくて悲しくて
溶けてしまわなければ抒情ではないんです」
彼は愉楽の人だった
彼自身が捧げ物のようだった
しかし僕には肉体の愉楽がない
彼のようにスポットライトに照らされ
人々の喝采に包まれることがない
水は優しい
だけど僕は水の中で溺れる魚にはなれない
「こんな詩 誰でも書けるよね・・・
「いい詩だと思うよ だけどね・・・
僕の表現は常に懐疑の視線に囲まれている
それだけではない
僕自身が懐疑の人
僕は自分の表現が
人を一瞬立ち止まらせることしかできないのを知っている
そして立ち止まった人の背後を
僕は影のように通り過ぎる
水のように流れ去ってゆく
一人だけで
ずっと一人きりで
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