佐佐木幸綱さん司会で三枝昴之さん栗木京子さん小島ゆかりさん穂村弘さんの二〇二一年展望座談会「短歌、再始動へ向けて」が掲載されています。このメンバーだと穂村さんが最年少になります。偶然でしょうが二号続けて穂村さんが討議に参加しておられるのを見るとこの方が今の歌壇の蝶番のような役割を果たしておられるのだなぁとつくづく思います。
栗木 私は永井佑さんが塚本賞を取られたのはすごく良かったなと思っています。同時受賞の高木佳子さんの『玄牝』は、すばらしい歌集でした。永井さんの『広い世界と2や8や7』は、なかなか私も読み切れていない歌集だったんだけど、「短歌研究」六月号の「作品季評」で、穂村さんと山田航さんと佐藤モニカさんが論じています。そこで山田さんが、「口語の佐藤佐太郎だ」というふうにこの歌集を評していて、穂村さんも「なるほど、面白いね」っておっしゃっていて。言われてみると、たしかに、意識の流れを、いかにそのまま、生のまま、順番に構築しながら歌にしていくかという「再現」の仕方は、現代版の佐藤佐太郎と言えるところがあるかもしれません。
穂村 ひとつの補助線を引かれると、それまでよく見えなかったものが、急に分かったような気分になることがありますよね。
塚本邦雄賞の選考委員は坂井修一さんと穂村さん水原紫苑さんです。第二回は高木佳子さんの『玄牝』と永井佑さんの『広い世界と2や8や7』が受賞なさいました。だいぶタイプが違う歌集です。というよりはっきり言えば永井さんの歌が今の歌壇では浮いているわけですね(歌壇全体として見た場合ですよ)。
栗木 受賞がどうして一冊じゃなくて二冊になったのかというせめぎ合いを、もっと読みたかった。水原紫苑さんは、いっぽうの受賞作の『広い世界と2や8や7』(永井佑氏)への評価を、「マイナス二〇〇点」と言っているわけでしょう。とても魅力的な評価です。それがどう変わって受賞になったのか、きっとすごいスリリングな議論だったんだろうなあと思う。
塚本賞はコロナでオンライン選考となり選評は「短歌研究」誌に選考委員のお三人が二ページずつ批評を書いただけなので栗木さんが「受賞がどうして一冊じゃなくて二冊になったのかというせめぎ合いを、もっと読みたかった」と発言しておられます。
水原さんが永井さんの『広い世界と2や8や7』を「マイナス二〇〇点」としておられるのは面白いですね。ここまでマイナスになるとプラスに転じる可能性があるということでしょうね。永井さんの歌集を強く推したのは穂村さんだと思いますが水原さんは恐らく穂村さんに説得されたのではない。率直な判断として自己の中でマイナス点が大きくなればなるほど自分が気づかないプラス面があるかもしれない。そういう判断だと思います。創作者として立派です。
こういったやり取りからも歌壇という風土の風通しの良さが伝わって来ます。発言を読む限り栗木さんは永井さんの歌集の良さをよくわかっておられない。それが穂村さんらの橋渡しによって可能性を見出している。三枝さんもほぼ同様だと思います。
歌壇の大勢は従来通りの写生の実感短歌です。若手を中心にニューウェーブ短歌が一定の層を為し短歌人口の激増という役割を果たしていますが完全に市民権を得たとまでは言えない。ニューウェーブ短歌が短歌の歴史にどういうプラスの足跡を残していくのかまだ試行錯誤中と言ってもいいかもしれません。ただ何らかの形でその功績は残るはずでその蝶番の役割を穂村さんが果たしておられる。
歌壇の素晴らしいところは決して新しい試みを否定しないところだと思います。もちろん「この歌の何が面白いんだ」という発言はありますが擁護者に向けて発せられることが多い。否定形の言葉を投げかけるのは肯定側の評価を引き出すためという場合が多い。もちろん創作者は自己中なのが基本ですから「なんでわたしの歌がもっと評価されないんだ」になりがちですがじゅうぶんリベラルだと思います。
佐佐木 そういう歴史的なことをきちっと書く、篠(弘)さんの本(『戦争と歌人たち』)を読むと、最近、学者っぽい人がいなくなったとつくづく思うよね。三枝君が最後ぐらいでさ(笑)。(中略)
今日、僕は、二、三日前に再刊された落合直文の「全歌集」(『萩之家歌集』)を紹介したいと思ってきた。この本には、直文の息子とか、娘とかの歌も入っていて、落合家を改めてきちっと検証しようという本なんです。こういう本が最近はめずらしくなった。近代短歌をきちっと見る視点、視線が、歌壇全体になくなってきた。
古典への目くばりをきちっと持っていかないと、現代詩と同じような運命を辿ってしまうという気がする。現代詩は、大岡さんの世代がいなくなって、近代詩をきちっと読む人がほとんどいなくなっちゃった。
佐佐木さんは司会ということもありあまり発言なさっていません。ただご自身のスタンスから明快に言葉を発しておられる。短歌は伝統文学というスタンスです。コロナ禍の最中に大岡信さんの『うたげと孤心』を再読して「短歌は、みんなで集まって歌合や歌会をすることと、一人で孤を噛みしめながら歌を作ること、「うたげ」と「孤心」を両方実践することが基本という考え方。「うたげ」と「孤心」の往復が短歌という短詩の大事なポイントなんだという、そのことをあらためて考えました」とも発言しておられます。
大岡さんが「うたげ」と「孤心」というテーマを完全解明しているかどうかは別としてこれはかなり重要な問題です。俳句で座(宴)が盛んなのは理解しやすい。俳句は原則非―自我意識文学ですから句のテニオハをほんの少し変えただけで作家が表現したかった無意識層の主題が鮮やかに浮き上がることがある。座での即詠や相互批評がとても有効に働くことがあるわけです。
しかし短歌は基本自我意識文学です。わたしがこう思ったこう感じたこう行動したを表現する。俳句では名歌秀歌は歳時記にまとめられますが短歌では和歌の時代から基本家集です。勅撰集や○○万葉集のようなアンソロジーの方が例外的です。つまり短歌は個々の作家性によって成立する。
けれども短歌から宴は決してなくなりません。自由詩や小説のような孤立した自我意識文学には決してならない。その理由はもちろん短歌が定型文学だからです。ただ短歌の定型とは何か。なぜ短歌の定型が宴を求めるのかは今ひとつ説明しきれない。実生活のリアリティ・パラダイムに基づかないという意味で定家の比ではないくらい達磨歌に見えるニューウェーブ短歌でも仲間が集いその中で頭角を現した歌人はなんの躊躇もなく歌の選考委員などになってゆきます。セクショナリズムから歌壇内勢力を拡大したいからではないと思います。当たり前のようにそうするのは抜き難い短歌伝統としか言いようがない。解明していただきたいですね。
今号には巻末に歌人名簿が掲載されていますが遂に住所表記が○○県○○市までになりました。生年と所属結社誌などは記載されていますがこれではもう献本とかは不可能ですね。もちろん個人情報が厳しく制限される世の中では致し方のないことです。それこそ短歌は宴を手放さないので短歌に一生懸命になれば自ずと仲間が増えて歌人の住所など簡単にわかるということなのかもしれません。
ただ便利なようで不便な世の中になったなぁと思います。国民全員が一人数個の捨てメアドを持つようにならなければ直接やり取りするのは難しいでしょうね。歌人はインターネットに敏感ですから孤立して歌を詠みたい作家はおおいにインターネットを使って作品を発表した方がいいということかもしれません。
高嶋秋穂
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