「詩にとってセクシュアリティとはなにか」という特集だ。詩は門外漢だけど、セクシュアリティに門外漢はいないから、ちょっとはわかるかもしれない。だけどさっそく冒頭から引っ掛かった。
まず「詩にとってセクシュアリティとはなにか」という特集タイトル。なんか、変じゃね? なんでいつもいつも「詩にとって」が問題なの?
そりゃあんた、現代詩手帖だからだわよ、って、そうなんだけどさ。「なにか」というその問いに対して、答えを求める気がはなっからナイ気がするわけ。
だって〈詩〉と〈セクシュアリティ〉だったら、〈セクシュアリティ〉の方が普遍的かつ大問題に決まってんじゃん。とりわけ現代詩手帖がターゲットにしているという〈戦後詩〉とひと続きの〈現代詩〉とかと、〈セクシュアリティ〉とだったら。
そしたら、どっちかと言えば「セクシュアリティにとって詩とはなにか」を問うべきじゃね? それだったら、ある程度は意味のあることが言える可能性もあると思う。
男とか女とか、その中間とか幼児とか、それぞれのセクシュアリティの思考とか言語とかの方向性が、詩というものとどう交わるのかってこと。特定の男の詩人が書いた詩も、特定の女の詩人が書いた詩も、そういうふうにしてしか、生まれてこないんだからさ。
「詩にとってセクシュアリティとはなにか」っていうタイトルにとっての〈セクシュアリティ〉は、最初から〈現代詩手帖内セクシュアリティ〉に問題を限定していて、そしたらその問題設定そのものがトートロジーでしょ。答えを求めてナイみたいってのは、そういうこと。
そんでもって「現代詩手帖にとって〈現代詩手帖内セクシュアリティ〉とはなにか」というと、要するに「女性詩」とかいうもので、それだとあんまりにも古っぽいし、今どき「女流」とか言うとまた怒られるから、「セクシュアリティ」っていうニュートラルな言葉を使ってるだけだと思う。
つまり今回は、女性詩もしくは女流詩人特集なのだ、と言われれば納得いく。で、女性の詩人で、特にそのセクシュアリティでもエロスでも何でもいいけど、ようするに「性」を強く意識させたのは、りょんさんも知ってる伊藤比呂美だと思うけど、なんで登場してないの? 役者のスケジュール押さえてから撮影しろよな、って感じ。
りょんさんも少し勉強したから、他にも「言語派」みたいな、知的な感じの詩人たちとか、それでたまたま女性ってのもいると思うけど、今回の現代詩手帖に出てる人たちの書いているものには、その一線級ってほどのパワーは感じない。その代わりに左川ちかという、昔の詩人にスポットを当てている。らしい。
ほんでもって、そんなら何で「左川ちか特集」にしないんだろう。。。思潮社から自費出版してないと、特集組めないのかな。
りょん
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