西村麒麟さんの「現代俳句時評」を毎号楽しみに読んでいる。正直に言えばそれほどシャープな時評ではない。ただ等身大の、無理のない批評でけれんみがない。身体全体を膨らませて一回り大きく見せようとする動物のような威嚇をまったく感じない。こういった批評は案外少ない。
句誌に限らないが、詩誌を読んでいると短期間で編集部から出された〝お題〟をそれなりに勉強して、さもわかったふうに書いている批評がとても多い。一夜漬けの批評が業界で権威あるとされる商業誌に載る。本当は不安なのに掲載されると「これでいいんだ」と思ってしまう。それを繰り返していくうちに一夜漬けの時評が山と積み上がりいわゆる実績となり、業界人が出来上がる。そうなるともう外の世界が見えなくなる。業界誌に載っている俳句批評は外の世界では通用しない。書き捨ての一夜漬けは一夜漬け批評に過ぎない。そういった一夜漬け批評と西村さんの時評は微妙に違うと思う。人間性なのかもしれない。
三・一一神はゐないかとても小さい 照井翡
西村さんは照井翡さんの句集『龍宮』と『泥天子』を取り上げておられる。『龍宮』は震災直後の二〇一二年刊、『泥天子』は二一年刊で十年の間隔がある。「今回驚いたのは、震災直後の句が中心となった『龍宮』と震災から十年近く経過した句集『泥天子』において、その内容の重たさにあまり変化が感じられなかったことです」と批評しておられる。本気でこの主題に向き合えば当然そうなるだろう。ただ俳句である限り表現としての優劣はついて回る。実際に体験した悲惨が元になっている場合は優劣を言い出しにくいとしてもである。
「三・一一神はゐないかとても小さい」は震災詠として秀句だと思う。これは俳句ですよという作家の意思表示は旧仮名の「ゐ」で表されているわけだが、安西冬衛や北川冬彦の引き締まった短詩のような表現でも通る。現在形の表現である。現在形ということは、傷が癒えていないことを表している。傷口はふさがっていても、傷を見るたびに〝痛い〟のだ。「神はゐないかとても小さい」というどっちつかずの表現も効いている。甚大な被害をもたらした自然災害の前で人は神に祈ることもあるだろうが、肯定も否定もできないだろう。現在形とは宙ぶらりんの表現ということでもある。
無職なり氷菓溶くるを見てゐたり 真鍋呉夫
時評を連載しておられた当時、西村さんはリストラされて無職だったようで「胸が痛い」と書いておられる。ただ真鍋呉夫の句も現在形で批評的文脈は一貫している。時が止まっている。作家の崩れ落ちるような心情は「氷菓溶くる」で表現されている。こういった連続性で批評家のある種の誠意のようなものは試されるのではないかと思う。
二〇一一年の三月十一日、たまたま仕事が休みだった僕は新宿区の俳句文学館にいました。石川桂郎について調べたくなり、句や文章を忙しく書き写していました。当時鶴川(町田市)に住んでいたので親しみを感じていたこと(桂郎も鶴川)と、その人間臭いエピソードに惹かれていました。
十時四十六分、激しい揺れの中で、俳句文学館の長机を押さえながら僕は次のように願いました。何を思ったのか、桂郎、助けてくれ、僕をまだ死なすな!!
西村麒麟「けえろう」
照井翡さんの震災句集から西村さん自身の震災体験に文章は移ってゆくわけだが、便乗の気配はない。その時、西村さんは俳句文学館で石川桂郎について調べ物をしていた。呑気といえば呑気な瞬間に震災は起こった。しかしそれが個それぞれの震災体験である。
蛾を打つて息ととのふる机かな 石川桂郎
いくど茶を淹れても寒し竹の中
ごきぶりも見離す小屋や葛圍む
こぼしたる雪見の酒は吸うべかり
新蕎麦や着馴れしものをひとつ着て
こういった句が西村さんの好みというか、俳句の姿なのだろう。わかりやすい危機ではないにせよ作家は追いつめられている。しかし性急な叫びは堪えられ、風景になじんで表現される。そういう表現でなければ他者には関わりのない個の切迫感は共感を呼ばない。人間にとって大文字の危機だけが危機ではないわけだ。
青柳寺には詩人として有名な田中冬二の墓も見られます。ほっそりとした墓石に刻まれた文字は草野心平によるものです。生涯に六〇〇句ほど遺した冬二の俳句は繊細で優しい作品です。(中略)
臼二つかさねてありぬ春の寺
春昼や村の床屋のヒヤシンス
夏山のかぶさつてゐる小駅かな
切干に小春のよき日つづくなり
山女魚鮨牡丹ざくらの村なりし
冬二自身がどれほど俳句に自信があったかはわかりませんが、学ぶべきところの多い全集でした。真鍋呉夫や田中冬二のように、俳句に対し謙虚で深い愛情を持つ人を眩しく思います。。
同
なんとなく西村さんの意図はわかる。真鍋呉夫も田中冬二も専門俳人とは言えない。しかし俳句の勘所を押さえている。小説家では芥川龍之介などの句が文人俳句といってもてはやされることがあるが、龍之介は俳句表現をキッチリ理解していない。呉夫や冬二の句の方が優れている。
俳句という表現では〝本気〟でないからこそその本質に届くということがままある。もう少し正確に言うと、俳句では真正面から俳句に一所懸命になってはいけないようなところがある。その機微を危機から遠い作家達の俳句から読み取るのは意味がある。西村さんは楸邨のような俳人になってゆくのかな。
岡野隆
■ 西村麒麟さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■