偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 大蛇問答というのは金妙塾教理部門の重要研修で、塾生が体験・見聞したそっち関係のエピソード(子ども時代の蛇もらし体験から痔疾治療、介護体験に至るまで)を持ち寄り、出題者を日ごとに決めて、その人生論的含意を摘出しあい、最も深い解釈を提示した者に金妙塾奨励賞を授けるシステムである。桑田康介入塾日は、この大蛇問答の真っ最中だった。もと看護師、現在専業主婦の高塚雅代という太った女性が、この人は病院勤めという経歴上患者関係の不謹慎な下ネタ小話を豊富に備えていたが、このとき大蛇問答に彼女が提供した出題は看護師経験とは直接関係ないだけに味わい深いものであった。
横浜駅のトイレに入った時、母親と小さな女の子が一緒に入っているトイレから、「ママうんこしてる。クサイヨ~~」という声が聞こえた。その後母親は「だからナオミちゃんと一緒にトイレ入るのいやなのよ!」と激怒していた。
――この光景の人生論的含蓄を述べよ。
(高塚雅代が看護専門学校の学生のときに『ぴあ』に投稿して採用されたエピソードがこれである(1984年11/2号はみだしYouとPia)。掲載文では時が「数年前」、場所が「某駅」、女の子の名が俗っぽく「○○ちゃん」として伏せられている)。
塾生各人が述べた「人生論的含蓄」はおおむね次のようなものに分類された。愛関連の俗情をことさらに称揚したいわばベタな論評が主であるのは、金妙塾例会における軽口的雰囲気とバランスをとるための確信犯的なスタンスであることが桑田康介にもすぐに感じ取れたという。
① キーワードは断然、母親の「だから」という語である。「だからいやなのよ」という言葉には、これまで何度も同じことが繰り返されており、案の定またこういうことになって、もー、という苛立ちが暗に込められている。それでも今回もやはり一人で個室外に放ってはおけないという、怒声とは裏腹の、恥よりは子を想う母の愛がしみじみ感じられる。[正愛情説]
② この光景の真価は、むしろ場外の日常において発揮される。今度デパート行って一緒にトイレ入るとき、ぜったいに「ママうんこしてるー」なんて叫んじゃだめよっ。恥かしいんだからっ。おとなしくしててっ。と母が娘に言い聞かせている風景が、なまじわざとらしい劇的な母子愛――生体移植や孤児再会などのイベントに託けてマスコミが演出しがちである――の類一切を凌ぐ慈愛と思慕の暖かいシンメトリーを髣髴させる。「うん。わかった」と母親見上げて頷いている三歳半(くらいか。三歳以下というのが状況を味わい深くするという意見も有力だったが、高塚雅代自身も「小さい女の子」という印象のみ残り大まかな年齢層も記憶の彼方につき各自要推測、解釈の一部としますと言うにとどまった)の髪にリボンつけた女児の瞳を想像せよ。[盤外戦説]
③ それほど言い聞かされてそのときはわかったつもりになってもやはりむちむちと茶色の蛇がひり出されてくるのを目の当たりにすればつい「うんこー!」と叫んでしまうあからさまな子ども心。ウンコというのは何度見ても三歳半の網膜にとってすら超特殊な経験であるという生の事実が、おろち文化固有の超普遍性を物語っている。人間にとっての排泄物の生来的本質的コミットメント。[反射説]
④ 母の脱糞に「クサイヨ~~」と苦情を叫ぶ娘は、母に伴われてトイレに入ることを嫌う子であることが察せられる。まだ小さいから母は連れ込まざるをえない(娘は三歳以下という根拠がここにある)が娘の方は自立心旺盛、トイレのとき必ず母と一緒というのが不満である。この不満はもちろん母の困惑を間近に見たい欲求へと転化する。母の客観的判断と娘の時期尚早のかわいい自立心との衝突が幸福家族の断面を垣間見せる。[背伸び説]
⑤ ①を愛とは別方向の解釈でまとめることもできる。すなわちこの女の子は個室外に置いておくと扉にすがって「ママまだー、まだー、うんこー、うんこなのー」と騒ぎまくることが常だったのであろう、それで仕方なく個室に同伴しているとも考えられる(①とこの⑤に関しては、ナオミちゃんは一人でトイレもでき外で待つこともできる五歳以上とするのが真実味あり味わい深い)。外に置いても中に入れてもどちらにしても怒らざるをえない実情にあっては本気で怒ることができないはずのところつい本気で怒ってしまう、子を持つ身の悲しさ。[内外考量説]
⑥ ④のアンチテーゼ。ナオミちゃんは、ママにいつも当然のごとく「一緒にトイレー」とせがんでいるにもかかわらず、ママの番の時には騒いで迷惑かけてしまう。そして怒られる。ああ、自分はいけない子なんだ、抑えられないんだ、ママに迷惑かけてるんだとそのつど自覚する、小さな胸に芽生える初の自責の念。母親の怒声中に娘がおとなしく黙って(目をそらすこともなく素直に母親の目を見て)いたのであろうそのありさまは、子供の成長における記念的ひとコマなのである(③と比較せよ)。[通過儀礼説]
⑦ 「だから」というほど同一状況を繰り返すということは、この母親は、娘を連れた外出先で大便をする確率がかなり高いということであろう。朝一度すれば大丈夫、という体質でないことは確かなようであり、過敏症候群的かどうかは別にして普段から頻尿ならぬ頻糞・大便過多の体質なのかもしれない。ああきょうも駅かどこかのトイレで……予測に微かささやかな憂鬱を覚えながら娘の手を引いて玄関を出る母親の心に、人間生来の曰く言いがたいモノノアハレが漂う。[直腸重圧説]
⑧ 「その後母親は」という件りがツボである。母親はすぐに娘を怒ったのではなく、しばらくしてから、個室を出てから怒りの言葉を発したのであろう(高塚雅代自身は母娘とほぼ同時に一つおき隣の個室に入って一週間越しの便秘という自分の問題に存分四苦八苦していたため現場認識はクリアではないが、個室を出てから母親が怒ったというのはその通りだったと慎重に回顧確認した)。自分たちがじかに好奇の注目を集めることはないと確認してからの激怒。しかし現に少なくとも一つ、高塚雅代の個室がふさがっていたのだから、全く安全ではない。激怒中に当の個室から出てこられたら些か恥かしいことになってしまう。個室外空間の目の不在と個室内の耳の存在の狭間の一瞬に、ここで怒声を発してもよし、と判断した母親の、二重羞恥のせめぎあいが「ああ、人間だなあ……タイミングを計った呼吸の産物たる怒声か……」的情緒を感じさせる。[対立羞恥説]
⑨ ⑧のアンチテーゼ。やはり「その後母親は」がポイントだが、母親は娘と一緒に個室を出たときに他のトイレ客の注目を集めてしまったはずだ、娘の「ママうんこしてるー」の大声ゆえに。それでハッと立ちすくみ、恥かしくて思わず娘に怒声を投げたのであろう。人前で怒ればさらに恥かしいことになる、それでも思わず怒りを発さずにはおれなかったほどの羞恥。怒声ゆえに羞恥を上塗りしてしまった母親の、その瞬間の悔いと恥の融合した赤面体験は、咄嗟の衝動をコントロールできない人間本来の悲喜劇であるとともに、人生一度の大行為の遠因に往々にしてなりうるカオス的哀愁の典型である。[二重塗装説]
⑩ ⑧⑨そして④のアンチテーゼ。本当の哀愁は、母ではなく娘の方にある。いつもはおそらく、「ママうんこしてるー。クサイヨ~~」に対して母親は「クサイねー。だからナオミちゃんもうんこしたら手洗わなきゃダメよー」などとにこやかに応じていたのではあるまいか。だから小さなナオミちゃんは大便過多症の母親(⑦参照)といっしょにトイレするときにこのルーチン化した道徳的科白を母親から引き出したくていつもいつも「ママうんこしてるー。クサイよ~~」を叫んでいたのであろう(ストーリーのわかりきっている昔話を何度でもせがむ子どもの惰性的快楽の心理と比較せよ)。それなのに、この日に限って母親は人の多いトイレで便意を催してしまい、個室を出るとともに好奇の目に晒されて動揺し予想外の恥をかくことになって、思わずいつにない怒声を娘に投げつけたのであろう。世間様の視線の前に、母娘の蜜月が終止符を打たれた瞬間である。社会の目はきびしい。社会の目それ自体ではなく、個人に内面化された社会の目が。ナオミちゃんの観点からすると、突如おかあさんが豹変してやさしいウンコ教育を放棄して自分を突っ放したばかりか顔引きゆがめて怒鳴ってすらいるわけで(え? え? え? え?)さぞ破滅的な混乱に見舞われたことだろう。幸福な赤ちゃん時代の終焉である。こうして、大人の気まぐれと外からの不規則なる風当たりという現実に、子どもは不承不承目覚めてゆくことになる。⑥とは逆に、成長のステップは内発的というより外から暴力的にやってくるのだ。[蜜月崩壊説]
⑪ ⑧⑨⑩のアンチテーゼ。本当の哀愁は、個室の外においてではなく、中においてこそ匂い立っているのではないか。「その後母親は」が要注目であることに変わりはないが、これはその後母親が怒ったということゆえにでなく、即座に母親が怒らなかったということゆえにである。というより、直ちには怒れなかった、というのが正しかろう。というのも、娘が「ママうんこしてるー」と母親の裾をまくり上げてあまりに間近に尻覗き込んで騒ぎ放題やってる最中、母親は息を詰めて大脱糞に一意没入している最中にてその生理硬直感ゆえ娘の狼藉に対しなすすべがなかったからである。便意および排泄は人を凝固させる。専念し終えやっと一息ついて、大出産の震えが止まったときになってようやく(こ、この子わぁ!)怒りモードの覚醒状態に目覚めることができた。しかし我に返ってもまだ尻拭きが残っている。粘膜露出の無防備状態ではたとえ子ども相手であっても負ける。「その後」のタイムラグには、人間本質に内在する、排便中における不随意的神経収斂の感情作用という純悲哀の刹那が折れ重なっているのだ。[便意耽溺説]
⑫ 母親の肛門は滑らかで、安産型のためさほど排便時に集中力を要しない体質ということもありうる。⑦にいうような大便過多体質であるとするなら排便回数も人一倍多くそれだけ慣れた排便名人のはずだから安産型の確率は高い。その場合は便意に耽溺することもなく、(この子わぁ!)的怒り覚醒モードが排便中にナオミちゃんが叫んだ瞬間から始まっている。尻を拭きスカートを上げ終えるまで、怒り×羞恥モードはおそらく五・六分間は抑制されなければならない。母親のこの抑制エネルギーと、ああ、また怒られる、というナオミちゃんのぞくぞくするような予期とがぴりぴり衝突圧迫しあって母親の便臭をいっそう煽り立てるだろう。個室を出るまでの母娘の無言の緊張状態が明日の幸福な生活のバネになる。[抑制緊張説]
⑬ ③のアンチテーゼ。ナオミちゃんは二歳半とはいえ、「ダメ」と言われたことは覚えているし、自分がしょっちゅう漏らしているうんこそのものにももはやさほど興味はない。しかし、自分はさっぱりと乾いて立っていて母親がだらしない垂れ流し状態にある時間というのは、ナオミちゃんにとって超貴重なのである。「やだー、またおもらししてー」としじゅう叱られている現状を挽回するチャンスなのだ。つまり仕返しである。ウンコ中は自由に動くことができず、尻丸出しの無防備状態では怒鳴ることも叩くこともできないし下手に動いてぶつかって押されでもしてよそ行きの洋服を汚してしまうことを何よりも恐れている母親であることを知っているナオミちゃんは、この立場逆転を「クサイヨー」と直接利用したのである。もーママったらこんなクサイうんこもらしてーッ。後はどうなろうが現在の優位がすべてである子ども特有の戦略観。ただし、後で報いが訪れるかもしれないことを承知していたことは、「その後母親」がひとしきり激怒の言葉を投げ散らしているあいだナオミちゃんの泣き声や言い訳や愚図りが一切聞かれなかったことが示している(⑥参照)。平然たるもの、覚悟の確信犯だったのである。自立への目覚ましい第一歩なのだ(④と比較せよ)。[刹那的報復説]
⑭ ⑬のサポート。母親は、外出先では必ず腹の下る神経性大腸過敏症かもしれない(⑦参照)。すると、ナオミちゃんは外出のたびに、きょうは立場逆転の日、とうきうきして母親を見上げることになる。⑦に言う外出時緊張は、娘の側から見たときに、母子関係のネガとして真に浮き上がることとなろう。しかも母の神経性大腸過敏症の主因は、娘からのプレッシャーそのものであるかもしれない。母が幼い娘に「人格」を感じる尊い契機である。[単純緊張説]
⑮ 母親は、神経性大腸過敏症でも大便過多体質でもなく、そもそもこのときウンコなどしていなかったのかもしれない。それを、ナオミちゃんはお母さんがオシッコだけだろうが何だろうが、必ず「うんこしてるー」と叫ぶのだ。これは母親としては不本意である(女優の中田嘉子がラジオで、男からかかってきた電話を妹がとると必ず「あ、いまおトイレ行ってますから」と言われちゃうので油断ならなかった、と話していたというトピックが幾度か例会で話題になったのを想起せよ)。あるいは、ウンコしていたのだとしても、実はまったく臭くなかったのかもしれない。ほんとは臭くもないのに「クサイヨ~~」と決まり文句で攻撃してくる娘に大人並みの狡知を見て、母親は心底嫌悪混じりの怒りに震えたのだろう。これは⑬の発展形として、ナオミちゃんの逆転衝動からくる攻撃性のさらに進んだものと見ることもできるし、③の拡大形として、眼前にあるウンコだけでなく架空のもしくは予期内の非実在ウンコにまで感情移入してしまうナオミちゃんのリビドーを顕示するものと見なすこともできよう。いずれと解するかによって[超報復説]もしくは[仮構移入説]
⑮の派生系 母親自身には決してクサいとは思えない、むしろ無臭と自負できる大便が出たというのに、娘はクサイと実感込めて叫んでいる。(嗅覚の性能が大人とは異なるのだろうか……)幼児の野生に対する畏怖を覚えた母親の、あるいは早くも微かな老いの兆しを自覚させられた母親の狼狽が表面上怒りの声となって口をついて出たものかもしれない。この解釈は独立した情緒を醸し出すにはしみじみと微妙すぎるため、⑮に付随する派生系として登録することに一同同意した「亜解釈」である。
⑯ 幼い娘はここで、嫌悪感から「クサイヨ~~」と叫んでいるのではなく、お母さんもこんなクサイうんこするんだー、という喜びでいっぱいなのである。報復というより偶像破壊的な歓喜であろうか(⑬と比較せよ)。そして偶像破壊のカタルシスが大きいものであるのは、おそらく、この母親が美しい人、というか美貌を自覚しているように見えるタイプの人なのだろう。少なくとも娘から見て大変美しく隙のない母親なのである。むろん幼児は親を理想化する傾向がある。ナオミちゃんの目に映る母親の美貌度と客観的美貌度との差異を推し量るのも趣深いと思われる。[偶像破壊説]
⑰ 母子関係の逆転は、一時的にではなく、恒久的に訪れるかもしれない。すなわち、四十年後、母親が病に倒れたとき、娘がそのオムツを替える日が来る可能性は一割以上はある。そのときは「クサイヨ~~」などと無邪気に叫ぶことなど当然ながら憚られるかもしれない。母の病時現在にはとうに失われた娘の無邪気さと、四十年前オシメ時代の母子蜜月の光景とは、ともに母の記憶にはまだ残っている。あああんなこともあったなあ、と臭いウンコを娘に始末してもらいながら思い出を脳裡遠く同時反響させることによって、母の表情から娘の心中にも自然生まれるであろうノスタルジー。現在・未来をかくも暖かく結びつける、遠く未来へ無意識裡に延び備えたエピソードがこれなのである。(この⑰はもちろん、看護経験豊富な――現に痴呆の義母介護の最中である――出題者高塚雅代自身の回答である。)[予期照応説]
⑱ 逆転は逆転前と打ち消しあって一致・融合を生む。母娘は一見対立しているようで、実はこのような(些かみっともない)状況の繰り返しを無意識に楽しんでいる。戯れている。無意識の調和。共振。母子関係を平準化することによる親密なる融合の兆しは⑯にも見られたことを想起されたい。友合の戯れ。外観そして意識上の対立とは正反対の、密やかなる本物の以心伝心共鳴現象であるだけに感動的なのだ。[極超ソフト近親SMplay説]
⑲ 母娘システムの外の項を導入しなければこのエピソードの真の解釈はできない。宇宙は自立自存する超越的な客観的事態ではない。知的生命体としての知覚者が認識もしくは報告して初めて宇宙の意味が決定する。ここで知覚者とはもちろん、隣接個室内で便秘に苦悶する高塚雅代自身の存在である。結局このとき極硬10グラムにも満たない一片をポロンと絞り出したにとどまった高塚雅代は、突っ張った下腹から圧し上げられる臭すぎるゲップを飲み込みながら、娘の感嘆を誘うほどの豪快便をひり出した母親への嫉妬に身を揉んでいたのである。それほど高塚雅代の秘結状態は深刻だった。母親は目下単なる卑小な(些かみっともない)状況に困惑・激怒しているだけと思っていただろうが、実は恥じる必要はなく誇るべきだったのである。(自分が嫉妬されるほど豊かな立場にあることに気づかないという皮肉な現象がおろち史にいかに大きな歪曲的作用を果たしたかは、後に詳細に見ることにする)。[三角関係説]
⑳「激怒していた」という部分も注目を要する。よく考えてみれば、駅のトイレという不特定多数匿名空間において一個室内の一人たる自分がうんこしていることが通りすがりの他人に知られたからとて激怒するほど恥かしいだろうか。単に子どもが大声を出したということについては、子どものことゆえ自然な弁明には事欠かない。おそらくこの母親には、理性で考えるよりも過剰に脱糞を恥じるトラウマがあったのではないか、たとえば小中高のいずれかで、学校でウンコしていることがばれるたびにからかいの的になる風習の犠牲になっていたなど。これによって、神経性大腸過敏症ぎみの外出排便癖も説明がつく。母親の哀しい悲鳴なのである。[過去作用説(なお③と合わせれば「相互反射説」となる。人間はおとなも子どももしょせん反射機械に過ぎないという感極まるべきニヒリズム……)]
㉑ やはり「激怒していた」がポイントで、母親は意識の上では激怒しながら、あらなんであたしこんなに怒らなきゃならないのかしら、と無意識に訝っているに違いない。駅のトイレで大声出してはいけないという決まりはない。本来ナオミちゃんは怒られる筋合いはないのである。なのにあたしは子ども相手になんと心底怒らざるをえない。さっきの娘の声以上の音量で。ああ、それほどに、ウンコしていたことを暴露されるのは恥かしいことなんだわ。ウンコしなくては生きていけない人間って、そしてなぜかそれを恥じなければならない人間って哀しい……。母親の一見無自覚な怒声の裏には、人間一般の非合理的な羞恥や生理的宿命への深い自覚的悲哀が漂っている。[生理的宿命説]
㉒ 「激怒した」という要因は、ナオミちゃんがきわめて幼い(たとえば二歳未満である)と想定した場合、俄然人間的情緒を強める。ナオミちゃんは喋りはじめの盛りであり、知育に熱心なこの母親は絶えず娘に話しかけては片言を引き出して一々褒めてやっていた。そこへ「うんこしてるー」とこられて、「ウンコ」と「臭い」を結びつけるという一歳代にしては高度な認識――本来悪意も悪戯心もない大真面目な――を表明したにもかかわらず母親は知育効果を犠牲にしてまでつい激怒せざるをえなかったと。ナオミちゃんの言語能力の発達にとって、母親個人の羞恥心(エゴイズム)がどれほど反動的に作用したかは、カオス的な雑風景の彼方へ永久に不明とはいえ、その作用度は母親が後に胸に為すささやかな後悔の蠢動度合いの関数として作用し続けることは間違いないだろう。[知育破断説]
㉓ これは新入りとして見学に近い扱いだった桑田康介が飛び入りで発言した説である。ここには話しかけ用赤ちゃん言葉の余裕の片鱗もない。母親は「本気で」怒っている。幼い娘に普段対しているような指導的・教育的叱責ではなく、自我剥き出しのあたかも対等の友人や夫に対するような怒りである。⑲にいうようにナオミちゃんは人に迷惑をかけたわけでもなければ不道徳なことをしているわけでもない。母親の怒りは個人主義的な「大人気ない」怒りである。ウンコには、大人と子どもの勾配を平準化し格の相違を消去し世代を無化する融合パワーがあることを如実に物語っている。前述の通り、後に学界で「作用μ」と呼ばれるようになる機制。赤ちゃん待遇剥奪を唐突に蒙ることによってナオミちゃんの成長にプラス寄与が図らずもなされたとすら考えられる。この解釈に康介が即座に達したのはもちろん深筋忠征の「大人気ない」躍起なほどのライバル意識を早くも入門時すでに暗に感じ取り自らの成長の糧としえていたからに他なるまい。[作用μ説]
㉔ 煎じ詰めれば、母子の関係がすんなり逆転する一瞬を形成するほどに、ウンコは特別な分野なのであり、子どもはウンコの権威なのである。
(演習問題;①~㉔のうち金妙奨励賞(コメント部門)を獲得したのはどの説か。根拠を明示して推測せよ。かつ、たった二文から成る高塚エピソードへのこの分析的解釈と同比率による詳細さをもって、これ系統すべてのエピソードにつきその人生論的含蓄を析出解釈せよ。)なお、第㉕,㉖番目の人生論的解釈が後に――金妙塾解散後に――発見されたが、これについてはこの母娘に関する付加的情報が必要なので、第20~21回で論述することにする。
なお大蛇問答は、ハードタイプが連続したあとなどは息抜きとして屁問答へ希釈した体験談を用いることもあった。たとえば……
(第2回 了)
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■ 三浦俊彦さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■