偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■破産して身も心も傷ついた袖村茂明は三谷恒明と袂を分かち、臨時のビル清掃や警備やファッションヘルスのプラカード持ちをしてその日暮らしをしていた。そんな生活が軌道に乗りかけたある日、池袋地下・いけふくろう前のトイレで奇異な人物を連日目撃する。六十代後半過それ以上の元労務者風で、駅の地下通路を腰でも悪いのか幾分足を引きずりながらうろうろしつつ何度も男子トイレに出入りしショウケースに寄りかかったり入口で新聞を読むふりをしたりしているので不思議に思って観察していると、なにやらさりげなく待ちかまえていて、どうも若い男がトイレに向かうとひょこひょこささっとついていき、そそくさと後ろに立って目標が立ち去った後にアサガオ前に歩み出て立ちつくし、すーっと鼻膨らませて斜め上向きに陶然の表情にしばらく固まっている。すいているときには目標の隣のアサガオに立って用を足すふりをし、ぬ、ぬぬと首をねじ向けて横目で覗き込み、目標の退去とともに横へ移動する。つまりどうやらあれは、若い男の小便蒸気の残り香をウットリと吸い込んでいるようなのだった。中高年や子どもの後には決して立たず、他が空いていても屈強なまたは爽やかな若者のあとをいつも狙ってササッと滑り込むのであり、チャンスさえあれば五分や十五分間隔で何度でもアサガオに向かい、一滴も出ないペニスをつまむ振りしているのが見え見えなのだった。こうしてしばし青年の成分を堪能すると、また別の男のアサガオを覗き込んで後ろまたは隣に立ち、めぼしい男が途切れるとトイレ入口付近に移動してさりげなく見張っている。最近どこのトイレも極度に衛生化されて小便器の前に立って離れると赤外線探知機により自動的に水が流れる方式の男子小便器が増えているが、当時このいけふくろう前トイレは古きよき定時水洗タイプであって、それだけ前の男の小便の残り香が濃厚に保存されるというわけだった。スポーツマンタイプのリーゼント男がアサガオの底に残した黄色い泡を老人自身の放水で少しずつ溶かして我が泡成分へと変換しつつあるときのその満面の笑みは、温泉にでも漬かっているかのようなほんのり紅の陶酔顔、若い青年尿臭吸収の回春効果だけでなく、パワフルな青年泡をなけなしの己がパワーで凌駕してゆく物語でも夢見ているのだろうか。青年の一人がカアアーッ、ぺっ、などと豪快な痰をアサガオの底に吐き出しでもしようものなら、小便の泡の中にひときわ濃厚に漂う粘液に今にも這いつくばり食らいつかんばかりにしげしげウットリと見下ろし青年痰の上に自分の唾を丁寧にゆっくり、接触をいとおしむように大切に大切に垂らし落としたりしているこの老人なのだった。しかし袖村茂明でなければこのような都市の片隅の悦楽的揺らぎに気づきはしなかっただろう。しかも揺らぎを確率的によく観察すると、念の入ったことに若い男が二人続けて立ったアサガオを選んで立つ傾向があるのだった。察するに、老人や子どもの小便は嗅ぎたくも見たくもないので、それをまず一人の若者の小便で洗い流し洗浄してもらう。して純粋に青年成分発散の準備のできたところに二人目の若者が放尿すれば、いわば〈重層濃縮青年臭〉、二百パーセントの嗅覚的回春的物語的悦楽が得られるということらしかった。
青年と一ことで言っても、この老人を特に喜ばせたのは〈密着型青年〉であることが、袖村の観察深化につれてわかってきた。密着型青年とは、ほらよくいるでしょう、アサガオにことさらに密着して、汚いじゃないかと思われるほどに前半身をアサガオに埋めて放尿するタイプの青年である。そう、中年以降や子どもにはあまり見られず、思春期以降の若者に多い。これはもちろん、自分のペニスを隣から視覚的に傍受されることを怖れる短小コンプレクス特有の仕草なのだが、こうした〈男の羞恥〉によるアサガオへの密着は、彼の尿臭と水蒸気を、彼がアサガオを離れるまでの間しっかりアサガオ内に密封して外へ逃げないよう保存する役割を図らずも果たしていたわけである。よって、〈密着型青年〉の後に立った件の老人は、むわぁぁととりわけ濃い蒸気をいかにも堪能し深深と息吸い込み恍惚と瞑目に浸ることになるのだった――密封尿臭の芳香もさることながら、青年の中でも特に羞恥を纏ったペニス反省型純青年の尿臭であるということで興奮が一層増しているのであろう。質と量の両方において高濃度の体験を保証する〈密着型青年体験〉のさなかには、当の老人だけでなく、傍でこっそり見守っている袖村までが(よかったな、よかったな……)背筋から尾てい骨にかけて感情移入的恍惚を感じるのだった。
老人――袖村は彼を密かに「青年尿湯気吸引恍惚爺」と命名、略称「青吸爺」と再命名していた――は近辺のより小規模なトイレにもおりおり出没したが、密着型青年をとくに選んで狙っていることはあきらかだった。老人の、密着型青年の見分け方は巧みであった。いや、羞恥心が強そうだとか服装がなんとなくダサめに垢抜けているというような外見で判断するのではなく、そう、身障者対応の手摺りつき小便器というのがどこのトイレにも一つはあるでしょう、そこが空いていても、つまりそう、たとえばアサガオが三つ並んでいる端っこの身障者対応のだけがあいていたとしても、そこが健常者使用が禁じられているわけではないし現におじさん連中が入れ替わり立ち代り鼻唄混じりの放尿を演じてゆくにもかかわらず空いているそちらへ移動することを頑なに避け、根気よく他の二つのどちらかが空くのを並んで待っているという青年がけっこういるものだ。それこそまことの〈密着型青年〉なのである。身障者対応アサガオは手摺が邪魔で陶器に密着できず、ナチュラルな姿勢ではおちんちんを隠せず、覗かれる危険が大だからである。このように、身体とアサガオを隔てる空間を怖れていることが傍目にもわかってしまうことをも顧みぬ、いわばなりふりかまわぬ〈本態性密着型青年〉を老人はとりわけ愛し、そのような〈身障者対応回避行列〉には本態性密着型青年が四人も五人も連続して並んで女子トイレ並みの混雑を呈することが珍しくなかったため、数人連続の重層尿、まことに五百パーセントの〈重層濃縮青年臭〉という超大悦楽に呆けることができるというわけだった。そうした奥床しき本態性密着型青年が、一歩外へ出れば道にタバコの吸殻を投げ捨て電車内ではドア際に座り込んで仲間と大声でがなりあうツッパリ高校生を演じていたりしたので、そこの表裏がまた老人にはたまらないらしかった。そう、老人はしばしば密着型青年の後をつけていってその行動を観察していたのであり、袖村は袖村でまたそのあとをつけて老人のミニストーカーぶりをじっと観察するのだったが、老人は満足ゆくまで青年の挙動を見届けると何をするでもなくまた拠点のトイレへと戻り、次の密着型青年を物色するのだった。
袖村は青吸爺の行動パターンから、なんとも人間的心理の襞の奥の隙間の組織を詳しく読み取った気になって一人感動し、いちど老人が超爽やかなサーファー系大学生風本態性密着型青年のあとに喜び勇んで並びはしたものの大学生がアサガオを離れる直前定時の水洗がジャーッときて青年の香りを洗い流してしまったそのときの老人の落胆の表情たるや、ガクッ……うなじからつま先まで紫色に染まるような脱力感を放散したのがはっきり見て取れ、袖村の目まで潤ませたほどだったのである。(ずっと後に、おろち気象学会にて実験確認されたところによると、アサガオ内にこもった尿霧は、むしろ洗浄水の流出によって上部へ立ち昇り、それだけ効率的に吸入しやすくなるのであって、したがって赤外線自動流水方式のあさがおの方が青吸爺の尿霧吸入欲をよりよく満たしたはずなのだった。むろん経験豊富な青吸爺はそれを承知の上で、吸入できる尿量そのものよりも「浄水で薄められていない」という気分の方を優先していたのかもしれないが)。逆に喜色満面の大恍惚に老人が打ち震えるのは、前述の痰吐きもさることながら、青年が放尿中アサガオの底に陰毛を一、二本はらはらと落としたようなときだった。老人はじいぃいんと感動瞑目の面持ちをじいいんじいいん上向けながら、薄黄色い泡の中によじれている青年陰毛を、己れの小便流でいつまでもいつまでも撫ぜなぶっているのだった――そう、そういう時は青吸爺のペニスは三分間も四分間もときには五分間ものあいだ途切れなく小便流を迸らせつづけるのだった。
この青吸爺は当時「現役」でありその前立腺の性能は三十代前半であったことが後に確認されるが、にもかかわらず袖村の観察中、老人のペニスが勃起してうまく放尿できなかったという事例が一つもないことから、この老人の、青年尿・青年痰・青年陰毛に自己の小便を正確に接触させたいという欲望の方が、青年尿霧による興奮的勃起衝動を克服してペニスをコントロールしおおせていたことが察せられるのである。おそるべき接触欲と言えよう。ただしこの老人も、恍惚放尿中に背後の個室から「ブッ、ブスべりバリッ!」と脱糞号砲が轟いたりすると咄嗟にピイインいかにも硬直しました弱りましたと言わんばかりに腰をかがめるところから、大便音に掻き乱されて集中力が恍惚に飲み込まれ、放尿をコントロールしかねる羽目になるらしいことが観察された。さしもの接触欲も大便のはらむ人間的含蓄には負けるのであろう。そんなとき老人は個室前でうろうろ待ち構え、出てきた人物を確かめるのだがそれがハゲオヤジやデブジジイだったりすると失望の表情も哀れなほどだった。
ある日ついに袖村自身の番がやってきた。すなわち、袖村茂明の放尿した後のアサガオに青吸爺がいそいそと立つ日が来た。ここに至ってあぁおれも青年か青年だ青年だ青年なんだなぁ、この人の欲求をしっかりそそる青年なんだなぁでもおれ〈密着型〉じゃなくてすまないことしたなぁあぁだけどあぁ青年かぁと満足とも怖気ともつかぬ微快感の鳥肌に少し声震わせながら、袖村の胸に邪悪な衝動が込み上げたのである。
(よぉし……)入れ替わりアサガオに立った青吸爺の背後に回って、サディスティックな快感の予感に微勃起しながらわざと低めに潰した声で、青吸爺の後頭部へ〈お見通し通牒〉を投げかけたのである。
「おじさん。きょうも収穫バッチリかい?」
ビクウウウッ。
うっとり目を瞑って鼻ふくらませ上向いていた青吸爺がビクウウッ、と感電したように背筋そらしつつ首をすくめ、薄白髪の揉み上げをじゅっと逆立て袖村を突き飛ばすほどの反応でとびのいて、すでに始まっていた放尿が飛び散るのもかまわず一物をズボンに押し込みもせず、袖村の顔も見ずにだだだだだだだだっっっ、
走って逃げたのである。腰痛持ちっぽいいつもの頼りなげな足取りからは予想もつかぬ素早さだった。尿跡がトイレから階段、路上へと続いているのを袖村はあとで確認した。
それ以来、縄張り的だったどのトイレにも青吸爺の姿はぱったり見られなくなった。
渋谷駅ハチ公口改札のトイレ入口に彼が張り付いているのを袖村が見たのはそれから半年後のことである。そのトイレは赤外線自動水洗式で、濃厚な自然尿臭を味わうには不適当であることは否めなかったはずだが、そのデメリットを利用層の青少年力の高さ、ならびに〈密着型青年〉の比率の高さが補っていると判断したものであろう。その判断が正しかったかどうかはともかく、池袋で見かけた頃に比べて顔も髪もつやつやして若返っていたというので、「若者のメッカは渋谷」式古典的イメージは主観的には正解だったのであろう。
(第3回 了)
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■