さて、文芸五誌最後の「群像」時評を始めます。例によってキリのいい2021年01月号から。じょじょにペースを上げてゆきますが、とりあえず今年中に文芸五誌すべての時評を開始しておきます。
で、群像さんは文芸五誌の中で一番厚い。ページ数が多い。一月号は564ページもある。だいたい毎月500ページ越えだなぁ。さすがリッチな講談社さん。値段は税込み1400円だがこのページ数なら安い方である。小説に限らず詩歌の文芸誌も軒並み一号千円を超えている。300ページ弱で1400円の雑誌もあるので群像さんはお得だ。この時評にはいわゆる純文学界批評も入り混じるが他誌と同様、基本的には小説批評中心にやってゆきます。掲載される小説によって自ずと雑誌のカラーが見えて来ますからね。
そう言えば昔は文芸批評家による匿名月評というか、業界話の一ページコラム(エッセイかな)が文芸誌にはあった。詩歌の雑誌にもありましたな。それがいつの間にかなくなってしまった。匿名月評は業界裏話が多かったので、小説家や詩人たちは雑誌を寄贈してもらうと月評から読んだりしていた。業界人だが編集者じゃない第三者による業界動向やちょっとしたスキャンダル情報を期待してのことですね。それがなくなったということは、小説でもギョーカイというか〝壇〟と呼ばれるパラダイムが揺らいでいるんでしょうなぁ。
文芸時評が小説との切磋琢磨の二人三脚から〝創作批評〟になってもう久しい。批評家は小説をダシにして「わたしはこう思う、こう考える」の自己主張を始めたんですな。目立ってナンボの時代に小説の下僕のようなことなんかしてられっかということ。そうなると当然、文芸の枠を越えて哲学や社会批評にまではみ出してゆくことになるが、それが有効に機能しているとは到底思えない。現代思想や社会に鋭く食い込むような批評なら小説家だってネタ探しのために頑張って批評を読むでしょうな。しかしそうなっていない。たいてい「あーわたしの、僕の作品が取り上げられてるけど本質的には作品とは関係ないね」で終わっている。
では小説が壇と呼ばれるようなパラダイムを形成しているのかというとこれも見当たらない。当たり前だが純文学小説は純文学小説を書こうと意図しなければ書けない(大衆小説も同様)。で、純文学小説には基本的なルールがあり書くのにかなりの労力を必要とする。どの作家もマックスで一日10枚くらいが上限で最低でも一日四、五時間は書くだろう。八時間くらいで10枚も珍しくない。つまり200枚くらいの小説を書くのに一ヶ月以上はかかってしまう。けっこうな労働である。つまり文芸誌にはそれなりに優秀な作家が何ヶ月もかけて書いた作品が並ぶわけだ。しかしそこにほとんど何も通底していないのは、それだけ現代が捉えにくい時代だということである。
煮ても焼いても文芸誌なのだから批評と創作はリンクしているのが望ましいし、小説家は自己本位とは言いながら他の作家の作品から刺激を受けるのが理想である。しかしぜんぜんそうなっていない。じゃあこれは絶望的状況なのかと言えばそうでもないだろう。どの文芸誌も表の顔は昔ながらだが中では様々な事が起こっている。批評と小説、小説同士の繋がりは薄いがそれぞれがそれなりに足掻いている。むしろもっと遠慮なく足掻いた方がいいと思う。構造変革か雑誌そのものの改編になるのかはわからないが、足掻いた先に光が見えればそれなりの新たな統一感を獲得してゆくでしょうね。
副都心にほど近い、都内でも有数の高級住宅地。今は裸木ばかりであるが、春夏であれば邸宅や低層マンションの敷地に植えられた緑が繁茂し、自然と素晴らしく調和していると評判の街。ダウンコートを着込んで家を出た凡事推子はそんな街の、意外とアップダウンの激しい道を電動アシスト機能付きの自転車を漕いで走り、園に到着した。
指定された置き場にママチャリを駐輪し、重いスタンドを立てた推子はすたすたと門扉に向かった。
門柱に取り付けられている読取端末のカバーを素早く開け、右手の甲に埋め込んだICチップを翳す。少し前まで保護者達が皆、「4188888」という語呂合わせを呟きながら暗証番号を打ち込んでいたというセキュリティシステムは、音を立てて自動で門を解錠した。
本谷有希子「推子のデフォルト」
新年号巻頭は本谷有希子さんの「あなたにオススメの」連作である。「推子のデフォルト」と「マイイベント」の二作構成である。約200枚の小説2本の一挙掲載なので、群像が本谷さんを強力に〝推している〟ことがわかる。「推子のデフォルト」を取り上げる。
「右手の甲に埋め込んだICチップを翳す」とあるように「推子のデフォルト」は近未来モノである。主人公は凡事推子で彼女は身体中にチップを埋め込んでいる。そこから提供されるコンテンツをずっと楽しんでいる。それはもう世界標準といっていい装備になっていて、ほとんどの人間は子どもから大人まで体にチップを埋め込んで常時インターネットに接続されている。
なぜそんな世の中になったのかと言うと、すべての人間を平等にするためである。人類皆平等の一種のユートピアを実現するために、インターネットを介して子どもの頃から適切な情報を人間に注入している。そしてそれは上手くいっている。子供たちの将来の夢の第一位は「AIになること」だ。AIは決して間違わず完璧だからだ。ママやパパたちもスマホ(作中では「須磨後奔」と表記される)や電子デバイスで常時エンタメを含む情報を得ている。もう満員電車に乗って通勤する必要のない社会である。
ただし「推子のデフォルト」の世界設定はアラが目立つ。電子デバイスを埋め込んで情報で教育されたために子供たちは皆同じ絵を描き、出産は夫になる男から精子を提供してもらうだけとあるが、人間が出産するのかいわゆる試験管で子どもを育てる世の中になっているのかはっきりしない。どんなに電子機器が発達してもそこまではできないだろうということが書かれている。かなりご都合主義的設定である。しかしそれはこの小説ではあまり問題ではない。舞台設定はSFだが本質的にはSF小説ではないからだ。一種の社会批判小説である。
「だから。一体いつからネットに繋がらないでいられる状態が病気ってことになったのよ?」
「いつって。十年前からでしょ」
「私には、うちの子の姿が子供の本来あるべき状態にしか思えない。私はこの子に、ただ人間らしく生きてほしいだけなのよ」
「じゃあ将来、この子達が家から一歩も出られなくなる日が来たらどうするの? 実際、再来年から公立の小中高はすべてオンライン授業に切り替えるってこないだ決定したじゃないの。ゲンジツ空間でしか遊べない子供に外に出たいなんて毎日騒がれたら苦労するわよ?」
こぴくんママは眉間の皺から何かを産み落とそうとしているかのような苦しげな顔を推子に向けた。(中略)
「行こう、こぴ」
こぴくんママは議論を諦めたようにそう言うと、しゃがみ込んで蟻探しに夢中になっているこぴくんを立ち上がらせ、自転車の後部座席に座らせた。
同
小説に登場するメインキャラクターは主人公の推子と、彼女のママ友の「こぴくんママ」である。「こぴくん」と呼ばれる男の子のママなのでこぴくんママだ。登場人物の名前はすべて奇妙で特に子供の名前がそうだが、これは個性を消して皆平等にするためである。漢字が発する意味性を排除して「こぴ」とか「よぼぃん」とか意味のない音だけの名前になっている。
こぴくんママは体に電子デバイスを埋め込んで情報漬になって等質化されてしまう社会に懐疑的だ。こぴくんママのような人は「オフライン依存症」と呼ばれ病院に専門外来もできている。
推子はこぴくんママに強い興味を抱く。もう逃れようのない世界の潮流からこの親子が逸脱しかけているのを心配してのことだが、本当の理由は違う。推子は電子デバイス経由で流れ込んでくるエンタメコンテンツの虜だ。家事をする時も子供を幼稚園に迎えに行くときもマルチタスクでコンテンツを楽しんでいる。しかしネットから流れてくるコンテンツに飽き飽きもしている。その時目に入ってきたのがこぴくんママだった。推子にとって彼らは生のスリリングなコンテンツに写ったわけである。
となると物語はこぴくんママがあくまで情報洗脳に抗うか、それに屈するかの二つの道行きしかなくなる。でもまあそれは大衆文学の大団円であり純文学では許されていない。純文学はそんな単純な物語であってはいけないのである。
顔面を蒼白にしたよぽぃん先生がようやく現れ、こぴくんママの腕を摑んだ。先生は半ば引きずるようにステージの袖へと連れ込もうとしたが、こぴくんママはその手を激しく振り払うと、子供達の列を指さして、
どれなのっ。
と目を剥いて叫び出した。
こぴっ。どれなのっ。(中略)
危ないところだった。と推子はまだ体の中で激しく乱れている鼓動に意識を向けながら、息を吐き出した。もしあのまま声を聞いていたら、自分もこぴくんママのようになっていたかもしれないのだ。絶叫しながら袖に無理やり引きずり込まれるママ友の変わり果てた姿を思い出した推子は、
「やっぱり生のコンテンツは最高ね」
と呟くと、もう一度、深々と息を漏らした。
同
迷いに迷った末、こぴくんママは息子といっしょに体内に電子デバイスを埋め込む手術を受ける。効果はてきめんでこぴくんママもこぴくんも、推子やその子供達と同じように等質化された人間に早変わりした。推子はスリリングな現実のコンテンツが終わってしまったことにガッカリする。しかし幼稚園の卒園式でちょっとした事件が起こった。
空調が不調で蒸し暑くなった会場のせいかデバイスの不調のせいか、こぴくんママが卒園のために練習してきた音楽を演奏する子供達のいるステージに上ってきて「こぴっ。どれなのっ」と叫び始めたのだ。彼女には等質化された息子が見えなくなってしまったのだ。推子はその姿を見て「やっぱり生のコンテンツは最高ね」と思い「危ないところだった」「もしあのまま声を聞いていたら、自分もこぴくんママのようになっていたかもしれない」と思う。
この大団円から言えば人間の等質化は善であり、それに抗うこぴくんママは排除される。作家の思想は基本的に人間の等質化に賛成ということだ。こぴくんママはあくまで等質化社会のエンタメコンテンツの一つに過ぎないということでもある。もちろんイロニーとして受けとることもできるが、書かれているテキストからそれを読解するのは無理がある。純文学的ルールがどっちつかずの小説にしているからだ。情報化社会に押しつぶされる悲劇にも、情報化社会に抗いそれを壊すヒロイズムにも傾いていないという意味で「推子のデフォルト」は純文学小説の最低限の要件は得ているが、最終目的は純文学作品を書くこと自体にはあるまい。
なるほど「オフライン依存症」のこぴくんママを登場させた時点で作家の情報化社会への批判的視点は透けて見える。しかし作品の世界設定が甘いのでそれを壊す集約ポイントがない。むしろこぴくんママは、作品主題を中途半端な大衆文学の方に押しやるベクトルとして働いてしまっている。
人類が電子デバイスによって等質化されている社会を前提としてその批判を表現するなら、タイトル通り「推子のデフォルト」で押し通した方が効果的だったのではないか。こぴくんママが登場しなくても推子のデフォルトはなんらかの形でほつれが生じ、部分崩壊するはずである。それが小説的現代社会批判の集約ポイントになると思う。
ただ本谷さんは劇作家でもある。「推子のデフォルト」の台詞回しはとても面白い。小説の冒頭からして「副都心にほど近い、都内でも有数の高級住宅地。」とト書き的だ。小説の甘い世界設定も舞台なら必要十分だろう。しかしやはり舞台と小説は違う。アラの方が透けて見えてしまう小説であるのは否めないと思う。
大篠夏彦
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