『白夜』Quatre nuits d’un reveur1971年(仏)
監督・脚本:ロベール・ブレッソン
原作:ドストエフスキー
キャスト:
イザベル・ヴェルガンテ
ギヨーム・デ・フォレ
上映時間:83分
■映画でしか描けないブレッソン的ロマンス■
フランス映画界の巨匠ロベール・ブレッソンの幻の名作と言える本作はドストエフスキーの同名小説を原作としているが、もはや本作『白夜』にとってドストエフスキーというオリジンは意味をなさない。
なぜなら女性との熱愛的妄想に明け暮れる画家の青年ジャックとアメリカに旅立った恋人を待つ女性マルタとの恋愛模様が、「眼差し」「オブジェ的人物像」「フレーム・イン&アウトする人々」「雑踏の調べ」といった映画ならではとも言える要素によって構築されているからである。その映画表現性の駆使は、従来の映画体験を忘却し、ジャンルを超越し、至極ブレッソン的とも言える不可思議で幻想的でリアリスティックなドラマを創造するだろう。
映画でしか魅せることのできない世界観と恋愛模様によって観客を全く映画的と言える体験へ没落させる本作の快楽を言葉で再現することは不可能だし、ロベール・ブレッソンの他作品と比較分析しても虚しいだけだ。そのため本稿では『白夜』という幻的映画作品だけに絞りながら、本作の爽やかな幻想世界がいかなる様式によって構築されているかを私的分析によって明らかにしていき、『白夜』の価値を再確認したいと思う。まずは巨匠ブレッソンが『白夜』で構築した人物に迫っていくとしよう。
■「モデル」というオブジェが語るとき■
日本映画界の名匠小津安二郎の作品は、オブジェ的魅力に溢れていたように思える。50年代に製作し世界的な評価を受けた『東京物語』(53)や『晩春』(49)の登場人物たちは台詞が棒読みで、役者が生まれながらに持つ喋り方や振る舞いが徹底的に排除され、ある種、物質的で客観的視点を求めているかのようなオブジェ的表象として演出されていた。そのオブジェとしての人物像や様式がしばしば「日本人」というイデオロギーとしての表象を露わにさせ、共感的で静的なドラマと人生論を体感させていたように思われる。しかし小津のように「演じること」を「オブジェ的な表象」としながらドラマを構築した映画作家がフランスにもいた。その代表的作家がロベール・ブレッソンである。
彼は俳優をしばしば「モデル」と称して、演劇の技術を身につけた俳優よりも素人の俳優を採用し、自らのフィルムの中で行動させ、言葉を喋らせた。しかし「モデル」の彼らがスクリーン上で繰り出す言動は、すべて棒読みかつ虚弱的で感情の躍動がなく、それでいて強烈な印象を残すと言われている。それらは観客を苛立たせることもなく、強烈な違和感を与えるわけでもない。時折見せる鋭い眼差しやフルサイズで捉えられた立ち姿がスクリーンを通じて観客に「何か」を訴えかける。それは言うまでもなくロベール・ブレッソンが仕掛けた「モデル」という名のオブジェが引き起こす静寂的な衝撃とさえ言えるだろう。
例えば青年の部屋に誰かが訪ねてくるシーンを思い出してほしい。彼は急ぐわけでもなく、ただ単調に自ら描いた絵を裏返し、見せないようにする。彼の表情や仕草を劇的化するわけでもなく、静寂的な行動をカメラが紡ぎ取っていく。岸辺で歌い手たちを見つめるシーンでも、彼らの眼差しは幸福感で満たされているわけでもないし、ロマンチシズムで埋め尽くされているわけでもない。ただそこには眼差しとポンヌフの夜色と幻燈の輝きがあるだけだ。しかしそこに我々は静寂的なリズムに満ちた何かを感じ取らずにはいられないだろう。登場人物たちの些細な行為は、一体観客に何を訴えかけているのだろうか。
とりわけラストが象徴的だ。女性が元恋人の元へと去った夜があけるラスト・シーンで見せる彼の絵描き姿。その後ろ姿が生み出すのは、「空しさ」や「悲恋」、「孤独」という言説では処理しきれない何かである。我々はこの結末に二つの選択を見出すことができるだろう。
一つは現実的な断片の一つとして、オブジェ的客観的な眼差しで余韻に浸ること。そして二つ目は、そのラストを悲観主義的で現実的な終焉あるいはドラマの終着点として見つめること。この二つの結論は互いに邪魔することなく、共鳴することなく存在している。このラストにおける静かな終焉に対する解釈や愉しみの両義性は、観客に小津映画とは全く異なる映画体験を及ぼしてくれるに違いない。又、その両義性を見出し、愉しむのもまたブレッソン的ロマンス映画『白夜』の楽しみと言えるのではないだろうか。
■シネマトグラフで切り取られる現実の断片、その繋ぎ■
ところで、至ってブレッソン的とも言える映画のフレームを使った表現もまた見逃すわけにはいかない。オープニングを見てみよう。ヒッチハイクで手を動かす青年の無表情な眼差し。彼は子どもたちが乗っている一般家庭の車に乗せてもらい発車する。次のショットでは原っぱのショットがはいり、二回でんぐり返しをする青年の姿が映し出され、呑気に歌を唄いだす彼の後姿を見つめる夫婦と幼女が暖かに映し出される。画面は固定され、カメラはフレームの中にインしてくる人物を追うこともない。人物がフレーム・アウトして次のショットに繋がれると再び固定された画面の前を人物が横切っていく。
この一見すると奇妙なフレーム・イン&アウトの反復は、現実を旅するモデルたちをフレームという枠で掬い取り、繋ぎとめていった戦略的で映画的な表現手法と読むこともできるだろう。そうしたデクパージュ(現実の切り取り)による『白夜』の構築作業ないし様式は、しばしばブレッソン自身が映画のことを「シネマトグラフ」と呼んでいた逸話を想起させてくれる。
静寂的なリズムと切り取られたオブジェ的ワンショットによって、観客はそこに登場人物たちの不可思議かつ曖昧な心理を読解する困難さを見出すことができるだろう。それは前述したオブジェから生み出される思索とよく似ているし、美術館や博物館で芸術作品と対峙し、芸術体験に魅せられるか、思考を巡らすかの鑑賞体系ともよく似ている。『白夜』は、説明がなく、唐突で、奇妙な断片的ワンショットやワンシークエンスによって、しばしば観客を翻弄し、その奇妙さに気付いた者には映画の表現性に関してのいくつかの考察を及ぼすかもしれない。それは不可思議な映画体験と言うほかないのである。
意味や心的躍動を生み出す登場人物への演出やカメラワーク、脚本、編集などはせず、徹底してカメラによる現実の切り取り、そして過度に演出された奇妙で物質的な登場人物あるいは彼らの言動によって、ファンタジーよりもファンタジックな世界を体感させてくれる本作。その世界ではメッセージ的意味作用への固執や心的躍動によるカタルシスも不在となる。オブジェ的世界観とも言える『白夜』は、原題のごとく夢見る男の夢物語のようだ。
また真に感動的なのは、それらがカメラ・フレームによるクロース・アップやフレーム・イン&アウト、機械による物理的現実の再現という初期映画的ともいえる機械的な作業によって表現されているということである。それ故、オートマティックな冷たさが漂う映画という機械装置だからこそ表現できる本作の物質的で不可思議なロマンスは、至って映画的であると言えるだろう。
そうした映画の持つフレームや物理的現実の再現、編集作業を利用した映像表現だけでなく、聴覚的な表現性もまた本作をより一層物質的な世界へと固定化させていたように思える。ロベール・ブレッソンは劇中に劇的なサウンドを挿入しないことでよく知られているが、本作もまた雑踏や車の音という日常的な雑音によって物質的な映像の連続を結び付けていた。また「マルタ…マルタ、マルタ、マルタ、マルタ!」といった滑稽とも言える録音された情熱の吐露をバスの中で聞いていると、同乗者の婦人たちから睨まれるというユーモアは本作にスパイス程度の刺激を創造し、奇妙で不可思議な世界観の構築に一役買っていたように思う。
『白夜』は映画が表現することができる可能性の枠を飛び越え、映画表現の可能性をロマンスという古典的なジャンルに乗せて描く映画であり、本作の生み出す刺激は文字通り、幻想を生み出す映画によって構築された「幻」そのものではないだろうか。
言葉にすることもできず、見ることもできないが、ただそこに確かに存在する『白夜』の魅力。それは映画そのものの魅力でもあるだろう。その映画的体験を及ぼす表現性、つまり「映画によって映画を表現してしまうオブジェ的な表現性」に筆者は感嘆の溜息をつかずにはいられない。孤高の映画作家ロベール・ブレッソンが生み出した映画的映画の秀作である。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■