『Lost Harmony ロストハーモニー』2011年(日)
監督:土岐善將
キャスト:広瀬アリス、吉谷彩子、高畑充希、田中美晴、柳田衣里佳
『TENBATSU』2010年(日)
監督:田中善之
キャスト:吉谷彩子、梅澤悠、吉川まりあ、岡崎亜紗子、川原貴大
ホラー映画の女優はしばしばマニアックな層に称えられながらも(「スクリーミング・クイーン(絶叫クイーン)」という呼称が存在するように)女優における格付けの中では下部層に属される傾向にある。そのため万人から「ホラー映画に出演する女優は演技を求められない」「ホラー映画は演技力をほとんど必要としないジャンルだ」と見なされる傾向にあるのは事実だ。たしかにアメリカのスラッシャー映画やスプラッター映画において女優が最も目立つ瞬間は、彼女が映画の中で絶命する瞬間であり、断末魔を響かせる時かもしれない。また女優の方がもっとも苦労するのは彼女の死んだ姿をクロース・アップする際に目をずっと開け続けなければいけないこと、すなわち死体の演技をするときかもしれない。
そう考えれば、女優にとってホラー映画は仕事上のステップ・アップとしては有効だが、演技としての表現性を露出させ、観客の心を鷲掴みにし、恐怖とは全く別物の感情表現を見せつける作品としては適していないように思われる。またホラー映画に演技の巧さや深みを求める観客もそれほど多くはいないだろう。
しかし筆者はホラー映画にも役者としての巧さと天性的演技をこなしてしまう女優がごくまれに存在すると考えている。そのため本稿では、これまでほとんど見捨てられてきたように思われるマイナーなホラー映画の新人女優にスポットをあてながら、いわゆる「可愛い」以外の側面、すなわちホラー映画女優における表現の可能性について考えていきたい。
■吉谷彩子の世界■
新人役者が時折、『リング』の松嶋菜々子や『呪怨』の奥菜恵などの名女優たちをの演技を抑え、彼女たち以上の覇気でスクリーンをぶち破り、作品の世界観を構築し、そこに生きるキャラクターの内面性を怖ろしいまでに劇的化する天才的演技を無意識に露わにしてしまうことがある。実際に、静かなヒューマン・ドラマのようにナチュラルで繊細な演技を放ち、低予算のホラー映画であることを忘れさせてしまう女優が『TENBATSU』(10)『Lost Harmony ロストハーモニー』(11)という二つのホラー映画で主役と準主役を務めた。それが吉谷彩子(現21歳)である。
吉谷彩子は今年に放映されたアニメ『謎の彼女X』でヒロインの卜部美琴の声を務め、声優の方面でもその知名度を伸ばしつつある女優であり、幼少期からテレビや映画でささやかに活躍してきた。そんな彼女が初めて主演をつとめたのが「戦慄の愕怨ホラー」と駄洒落交じりの宣伝文句で謳われる学園ホラー映画『TENBATSU』である。
本作はホラー文学部の女子高生が、恋愛にまつわる醜悪な嫉妬心によって学園七不思議に伝わる「呪詛」を実践してしまうことで巻き起こる様々な暴力を描いた作品であり、静寂的なリズムと緑を用いたダリオ・アルジェントのような妖艶世界が輝く魅惑的な秀作ホラーである。しかし本作を真の秀作にするどころか、『TENBATSU』という映画作品に説得力を持たせ、観客を引き込み、作品世界として成立させていたのは、嫉妬心と罪悪感に悩まされる主人公を演じた吉谷彩子の表現性があったからではないだろうか。すべては下のビジュアル・イメージにおける彼女のクロース・アップに表れている。
あまりに特徴的で、狂気的な顔立ちをしているわけでもない。大人の魅力を醸し出す美人顔でありすぎるわけでもない。また「可愛い」と観客を虜にし、終始笑みを浮かばせながらスクリーンを眺めさせるわけでもない。しかしそこには紛れもない女の執念があり、その瞳の奥には言葉では表すことのできない闇と茨の棘が突き刺さっているかのようだ。また、その口元は恨みと憎しみと憎悪と苛立ち、誰にも言えない闇が潜んでいるような表象として見ることができまいか。
これはもはや吉谷彩子の「演技」という「技」ではなく、「武器」と言うべきかもしれない。彼女の表情は決して能面ではないし、いつ見ても同じような、写真映りの良い美人顔でもないが、その表情だけで独自の雰囲気を醸し出せるキャラクター性を秘めているように思われる。ではどのようなキャラクター性かと言えば、2011年に公開された『アナボウ』(下記図)でセックス甲子園を目指すセックス部の部長を演じた吉谷彩子の表情を見れば一目瞭然である。
彼女の虚ろでありながら、何かを見つめたような表情には、苛立ちと闇と困惑が、半ば天性的な彼女の空気として渦巻いているように見えるのは筆者だけだろうか。たしかに彼女は、『TENBATSU』や『アナボウ』など苛立ちを抱えた女子高生を演じているのだから、そのように見えるのも必然的ではあるが、しかしこうした顔姿から滲み出るアトモスフィアはいくら演技の勉強をしようとも身につくものではないだろうし、他の役者が形として表現したとしても雰囲気までも醸し出すことは難しいように思える。
それは『釣りバカ日誌』で浜崎伝助演じるのが西田敏行でなければいけないのと同様の事柄であり、『ロッキー』の主人公を演じるのはシルベスター・スタローン以外にありえないのと同じことである。彼女自身がその点について気付いているか否かは不明であるが、少なくとも作為的なパフォーマンスとも言い難い、どこか天性的なアトモスフィアを創造する空気を持った女優であることは間違いない。
そして、こうした彼女の演技から滲み出る闇的な雰囲気と心理はホラー映画が演技や叫び声だけを女優の表現要素としていないこと、つまり映画は、役者が持っている空気感によってその作品の風貌を変化させる傾向にあるという表現性を物語っているようだ。まさしく吉谷彩子の演技は、「スクリーミング・クイーン」というホラー映画の存在価値を忘却させ、ホラーというジャンルを忘却させ、彼女の心理に観客の心を向けさせる劇的なドラマを構築する役者である。ジャンルを忘却させる強烈な表現性は、アメリカのインディペンデント映画祭であるマートルビーチ国際映画祭2012でベスト・スリラー賞を受賞した他、ロサンゼルス恐怖&ファンタジー映画祭2012で最優秀外国映画賞・最優秀監督賞を受賞した『Lost Harmony ロストハーモニー』における彼女の演技によく表れている。
■曖昧で確かな心理を見せる「仕草」と「微笑み」■
『Lost Harmony ロストハーモニー』は合唱部の女子高生7人が合宿先のコテージで体験する阿鼻叫喚の恐怖体験を描いた学園スプラッターホラーであり、広瀬アリス演じる部長のサナエと吉谷彩子演じる副部長の香織が親友同士であったにも関わらず、些細な嫉妬心で軋轢が生じてしまう心理描写が秀逸な作品であった。もともとサナエと香織は親友以上の間柄であり、強化合宿の中で不仲になって再び彼女らは心を一つにするわけだが、互いが謝り、関係を修復するシーンの演技には感動すら覚える。
広瀬アリス演じるサナエが「ごめん…」と呟くとベッドに座り込んでいる吉谷彩子はうつむき、やがて口元から笹谷かにほほえみだし、「頑張ろうね」とコンクールに向けて一緒になって頑張っていこう、つまりまた元のように仲良く一緒にやっていこうという仲直りの合言葉をつぶやく(上図)。この「頑張ろうね」という台詞は、内気であまり直接的に自分の想いを伝えることができない香織というキャラクターの内面を見事に具現化させた台詞だが、この台詞をより一層重厚感あるものにするのは、吉谷彩子の「微笑み」であることは言うまでもない。吉谷彩子の微笑みには、香織の「寂しさ」、「孤独」、「安堵感」の吐露が伺える。この微笑みは、次のショットで映し出される広瀬アリスの記号的な微笑みとはまるで異なっていたように思える。
そして吉谷演じる香織は、そのすぐ後におもむろに立ち上がって「あっ…お風呂入る?私も…一緒に入ろうかな」と述べるわけだが、この際に「手をモジモジさせて最大級の微笑と共にソワソワする」曖昧だがしっかりと映し出された仕草が、彼女の「笹谷かな告白」と「どぎまぎした雰囲気」、「関係を修復した後の振る舞いの気まずさと照れる喜び」を的確に表現していたように思われる。もちろんこうした仕草は監督の演出が介入しているだろうが、この演技は吉谷彩子の天性的な雰囲気があったからこそ表現できたものではないだろうか。
吉谷彩子が他の女優と一線を画しているとするならば、それは吉谷自身が有する外見上の特徴を活かした(決して大げさではない)キャラクターのナチュラルな雰囲気づくりを(意識的あるいは無意識的に)本人が心得ているからではないだろうか。だから彼女が演じ始めると、周りの世界は吉谷色に染め上がり、彼女はスクリーンに雰囲気と世界観を作り出す。そこに彼女がピタリとパズルのピースのごとくはまるから、極めて自然的で、かつ強調しすぎない存在感が醸し出されるのではあるまいか。それはスクリーンと彼女自身とが一体化したかのような表象であり、我々はそこに目立たぬ輝きを見るだろう。
演技そのものよりも演技から滲み出る世界観を構築し、己の身体表現と表情が調合する吉谷彩子の表現性には、「吉谷彩子ワールド」とも言うべき世界が存在しているように思えてならない。だから彼女の前ではホラー映画というジャンルは忘却され、筆者の眼差しは彼女が演じる役柄の内面に惹かれるのだと思う。
そうした女優が天性的に放つ演技から滲み出る世界観は、ホラー映画というジャンル映画においては重要である。なぜならホラー映画は恐怖を喚起させることを目的としているために、物語や登場人物のドラマ性を掘り下げて描くことが困難を極めるからだ。しかも被害者はほとんどにおいて女性であり、日本のホラー映画ともなれば、幽霊が女性であることも珍しくない。そのため、日本のホラー映画は女優の演技によって評価が左右されると言っても過言ではないだろう。
だから吉谷彩子のように「恐怖」というジャンルとしての魅力を一時だけ喪失させ、一瞬にしてそこにドラマ性(葛藤や嫉妬など複雑で微々な感情)を表現する女優が大変に重要なのである。その女優の表現性は、作品をより深みのあるものにし、ホラー映画としての期待を良い意味で裏切るだろう。そういう意味で『TENBATSU』『Lost Harmony ロストハーモニー』はその代表的な例であり、吉谷彩子の表現性は、ホラー映画における女性俳優の重要性を説いたものに他ならない。
Jホラーが下火になっていると言われている今だからこそ、新たな恐怖表現の開拓よりも純粋に映画としての女優に対する演出と期待が望まれるべきではないだろうか。ホラー映画は女性を多く登場させるジャンルだからこそ、吉谷彩子のような演技の表現性とその可能性に着目すべきだと筆者は考えている。そういう意味でもホラー映画における今後の女優について、少しばかり眼差しを変えてみると、新たなJホラーの展望が見えてくるかもしれない。今後のJホラーの女優の表現性に期待である。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■