『マネーボール』 MONEYBALL 2011年 (米)
監督:ベネット・ミラー
脚本:アーロン・ソーキン、スティーヴン・ザイリアン
キャスト:
ブラッド・ピット
ジョナ・ヒル
ロビン・ライト
フィリップ・シーモア・ホフマン
クリス・プラット
上映時間:124分
■野球は、本作の主な魅力ではない■
メジャーリーグにおける弱小かつ貧乏球団を「マネーボール理論」によって負けなしの球団へと育て上げた実在のGM(ゼネラル・マネージャー)ビリー・ビーンを描いた本作は、野球界を舞台にしているが、野球を魅力にしているわけでもないし、GMの苦労話を売りにしているわけでもない。
もちろん「野球界におけるGMの苦労を描いた作品」「GMには多大な苦労があるものだな」「野球界は深い」「野球界の現状を知らないと理解できない」と位置付けるのも勝手だし、それはそれで野球好きには野球好きなりの本作の楽しみ方があるのかもしれない。だが、もし野球に詳しくなければ本作の魅力を堪能できないのであれば、多くの観客を失望させただろうし、GMの苦労話や裏話で本作が消化されるのであれば、伝記本で充分だとバッシングを受けただろう。しかし本作『マネーボール』は、そのような批判を受けることなく、アカデミー賞の候補作として選出された。では本作が観客を魅了した巧妙さ、そして本作の価値は一体どこにあるのだろうか。
本稿ではビリー・ビーンを演じたハリウッド・スター、ブラッド・ピットのパフォーマンス性やショットとショットのリズム、そして作品の主題といった観客を魅了する映画の要素を論じていきながら「映画作品の魅力とは何か」に迫っていきたいと思う。まずはブラッド・ピットが醸し出す刺激に目を向けてみるとしよう。
■ブラッド・ピットのパフォーマンス性■
ブラッド・ピットやフィリップ・シーモア・ホフマン、補佐役のジョナ・ヒルに至るまで、本作に登場する人物たちは、「照明」や「ショットとショットの間」「演技」によって構築された感覚的で想像的な演出によって、映画でしか体感できないユーモアや心理、滑稽なパフォーマンスを体感させていたように思える。
そもそもパフォーマンス性とは、俳優の演技あるいは即興的な言動から滲み出る刺激のことを指す。言葉や動き、視線や表情など様々な表現要素からあふれでる刺激は、時に物語以上の感嘆を私たちに体感させてくれるだろう。例えば『男はつらいよ』の渥美清のように、あるいは『ロッキー』のシルベスター・スタローンのように、演技とも自然体とも判断できぬ細部に我々は魅了される。本作『マネーボール』もまたそうした「パフォーマンス性」を大きな魅力の一つとして構成した映画作品であるように思える。
とりわけ主演のブラッド・ピットは、『マネーボール』を「ブラッド・ピットのパフォーマンス映画」と位置付けさせるほど、強烈なキャラクター性と細かな細部演出によって彼独自の魅力を最大限に発揮していたように思う。
例えば弱小球団アスレチックスにGMとして就任したブラッド・ピット演じるビリー・ビーンが会議に参加するシーン。球団から抜けた三人の主力選手の穴埋めをするために、補聴器を付けた老マネージャーたちが「あいつは足が速い。顔もいい」と騒ぎ、「Yeah!」と納得する。ブラッド・ピットは手で口を防ぐような仕草をして大胆な態度で老人たちに質問をしていく「何が問題なんだ?」と。
その間(ま)と台詞サウンド、仕草が、彼の抱く現状の管理体制に対する不満と改善意欲、そして何かが少しずつ変わり始めていくような躍動感を演出する。彼の後ろ姿を捉えたお茶目な仕草やガッツポーズ。指をさして合図をするアメリカ人的振る舞い。会議室で新人の補佐に向けて指を鳴らしながら「どうぞ!」と言わんばかりに合図をするなど、彼の演技は躍動性とユーモアに溢れ、観客は知らず知らずのうちに彼の言葉や行動に惹きこまれていく。
そうしたブラッド・ピットのパフォーマンス性が「経済学で弱小低予算チームをメジャー優勝させようとする反骨精神を貫いぬいたGMの物語」という一言で語れる単純な話を魅了させる大きな要因となっていたことは言うまでもない。
そういう意味でも俳優のパフォーマンス性は、映画を語る上で決して排除してはならぬものだ。カメラワークや図像的なものはほとんど内在していないが、そうしたパフォーマンス性がいくつもの名作を創り出したのは紛れもない事実である。前述した『男はつらいよ』の渥美清だけではなく、『燃えよドラゴン』のブルース・リー。『モダンタイムス』のチャップリン。ジャッキー・チェンやジェット・リーなど、パフォーマンス性は観客をスクリーンに引き込み、刺激性を体感させる重要な表現である。
もちろんこのパフォーマンス性を演出するのは監督の役目。俳優のアイディアも入っているだろうが、細かいタイミングや台詞まわし、台詞の0.5秒単位の細かなスピードなど多種多様な注文をつける情熱と監督のイメージがなければパフォーマンス性は生まれないだろう。本作はシドニー・ルメットや山田洋次、内田けんじ、石井裕也などと同様にパフォーマンス演出に定評があるベネット・ミラー監督の演出とブラッド・ピットのユーモア性が織り交ざった素晴らしきパフォーマンス性を輝かせていた作品である。テレビと違ってスクリーンを注視することを前提としている映画ならではの魅力を兼ね備えている表現性を武器にしたパフォーマンス性は『マネーボール』の主力選手と言っても過言ではない。
■リズム芸術■
映画にはリズムがある。ショットとショットをどのようなタイミングで張り合わせ、音楽やサウンド、台詞をどのタイミングで挿入するかでリズムは決まってくる。映像と音響の戯れがリズムを生みだし、観客を刺激する。観客はその幻想的な感覚に身を委ねるが、思考はリズム的感覚とセリフなどから理論的読解を試みて、その答えが「アスレチックスは経済学の理論を取り入れたが惨敗している」という物語を無意識的に創り出す。それが物語とリズムの関係であり体系である。
そういう意味で本作はまさしくパフォーマンスとリズムの映画であったと言えるだろう。例えば、あの暗闇の中でブラッド・ピットがベンチに座り、広大な闇の球場を見つめながら「結果が怖い」と怯えるオープニングないし中盤のシークエンスを思い出してほしい。
結果を怖れる野球少年のように、ラジオをつけたり消したりする時間的な沈黙。また映画館でしか表現できない漆黒の闇と光を彼の瞳に輝かせ、クロース・アップした瞳の表現が彼の曖昧な心理を感覚的に抱かせる。またフィリップ・シーモア・ホフマン演じる球団監督が呆れて去っていく姿をカット割りせずに永遠と映していく長い間(ま)など、巧みに構成されていく沈黙の時間。
また中盤に見せたドキュメンタリータッチの映像(極端なクロース・アップが多いので明らかに演出が介入している)といくつものナレーションを組み合わせ、徐々にテンポをあげていき、最後に極論的なナレーションでまとめあげる演出は、明らかに事実的な情報を提示するニュース性を帯びておらず、むしろ観客にダイナミックな興奮と感情を刺激的に魅せるリズム芸術と成していたように思える。
そうしたリズムで観客を引っ張って行く先にブラッド・ピットのパフォーマンス性があり、それらが衝突した時に、我々は感動した、などと言語化するのだと思う。それが結果的に本作の面白さに繋がり、本作の一つの映画的な魅力となるのではないだろうか。
一見すると単なるヒューマンドラマに思えるが、本作はアクション映画以上に躍動感にあふれ、静的リズムによって躍動の波を作り出す映画的演出に溢れていたように思える。
■Just enjoy the show!■
娘の歌う「The Show」の「パパは大馬鹿…パパは大馬鹿……ただ単に野球を楽しんで」という替え歌で締めくくるラストは、父親と娘の関係性を端的に物語っている。なぜなら、このユーモアにあふれた替え歌は、本当は野球が好きであるにも関わらずチームのために「野球」という「愉しみ」を捨てているGMという「大人の仕事」に対して贈る娘から父への愛情たっぷりの批判であるからだ。そして野球愛に溢れた彼の微笑みを生みだして彼はGMの仕事を続けていくわけだが、その爽快感と言ったら感嘆の域である。
本作『マネーボール』は、ドキュメンタリータッチの映像とナレーションの劇的な台詞、背後が漆黒の闇で演出されている投手のピッチングシーンをスローモーションで彩る幻想美など静的なリズムで構成し、リズム芸術とパフォーマンス性、そしてそこから体感させられる親子愛を生みだした作品であり、構成力がずば抜けて優れた作品だったように思える。これらの調和した演出は、本作をヒューマンドラマの秀作と位置付け、野球を知らない数々の人間を魅了するに違いない。
『マネーボール』が典型であるように、映画は往々にして「スクリーンに映らないもの」と「スクリーンに映るもの」とで構成されており、その二つの調和が我々に様々な感情を巡らせ、思いを巡らせ、結果的に作品を秀作へと導くのである。そういう意味で、本作『マネーボール』は映画の魅力を存分に発揮した作品であり、ある種、映画の教科書的作品と言えるのではないだろうか。ただの野球映画と思ってしまった人は、今一度その魅力を再確認するために再鑑賞することをおすすめする。映画は見るたびにその魅力を変更させるのだから。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■