今月号の特集は河東碧梧桐である。言わずと知れた虚子と並ぶ子規門の双璧である。ただその評価は概して低い。もちろん碧梧桐の流れを汲む俳人たちもいることはいるが、俳壇での影響力はほとんどないと言ってもいいだろう。今現在の俳壇での影響力を考えれば碧梧桐はあまり魅力的ではないコンテンツということになる。俳句史的な興味、あるいは俳句では浮かんでは消えてゆく前衛的な試みの端緒として碧梧を捉えなければ意味がないということだ。なかなか難しい特集であり「俳句界」ならではの取り組みかもしれない。
赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐
流れ行く大根の葉の早さかな 虚子
いろんな意見があるだろうが、教科書などで採られている碧梧と虚子の代表句である。さほど俳句に興味のない人に「どちらの句が優れていますか」「印象深いですか」と聞けば碧梧の句を挙げる人の方が多いかもしれない。しかし俳壇では虚子の実に淡い「大根」の句が畢生の名句として語られ論じ続けられている。作品がそこそこ良くてもそれだけで作家の評価が上がるわけではないのである。作品として結実する作家の思想も重要であり、それが作家の全体像となっている。
それは芭蕉や蕪村、子規も同じである。彼らは一門を為し門弟らを一定の俳句思想に従って指導し育てた。もちろん芭蕉「古池」、蕪村「菜の花」、子規「柿くへば」に比べれば代表句と言っても碧梧や虚子の句は一段劣る。俳句の世界では誰もが名句と認める句は何事かの本質をズバリと衝いている。子規流に言えば名句とは「絵画」のようなものである。それが現れるともう誰も、少しでもその内容を動かせなくなる。絵から意味をいくらでも引き出せるのに、決して一つの意味を指し示しているわけではないのが名句である。言語で表現されているにも関わらずである。
子規写生理論に即せば碧梧の「赤い椿白い椿」の方が鮮やかである。しかし生涯に渡って子規写生理論を引き継いだのは虚子である。では若い頃に子規に決定的な影響を受けた碧梧は何を引き継いだのだろうか。碧梧の新傾向俳句は子規門からの離脱だったのだろうか。
定形を離れた碧梧桐の変遷はおもに「新傾向」(明治)、「自由律」(大正)、「ルビ俳句」(昭和)と移り変わる。断っておくが碧梧桐は定形から逸脱しても、「季題」から逸脱したかといえば否である。(中略)自由律もルビ俳句も、碧梧桐は基本的には「季題ありき」である。(中略)
新傾向は師の正岡子規没後の明治後期、碧梧桐の俳句が写生から叙述に変わるところから始まる。(中略)子規から引き継いだ新聞「日本」と碧梧桐の門下(碧門)の傾向を大須賀乙字が「俳句界の新傾向」として論を形成し、新傾向俳句と呼ばれるようになる。直述から暗示へ、実感と動的自然を尊重しながらも一点に集中しない作句、のちの「無中心」論である。(中略)ただし新傾向そのものは主に碧梧桐と乙字の書簡や論戦でブラッシュアップされたものであり、碧梧桐の一念のみによるものではない。(中略)
大正期の自由律もしかりだ。井泉水および中塚一碧楼の自由律俳句に碧梧桐も共感し、「人間味」を「無中心」で詠むには定形では収まらないという考えに至り自由律に進んだだけで、自由律そのものの発案者ではない。(中略)
晩年、昭和初期のルビ俳句も碧門の風間直得が提唱した論に乗る形となった。(中略)
このように碧梧桐自身の論は後づけ感が強く、いきあたりばったりの印象も否めない。正直、この紹介した変遷も一貫性には乏しく、逐一ぶれが見受けられ、論のちゃぶ台返しも散見される。その破壊と創造を繰り返す革新の行き詰まりは、碧梧桐自身を昭和八年の引退宣言にまで追い込むことになる。
日野百草「碧梧桐の新傾向俳句以後」
特集では日野百草さんが、碧梧桐の俳風の変化を必要十分な論にまとめておられる。日野さんが書いておられるように碧梧桐の俳句はおおむね「新傾向」、「自由律」、「ルビ俳句」の三つに変遷するわけだが、「季題」を手放さなかったことは重要だろう。いったんは自由律俳句で井泉水と足並みを揃えるが、無季でよいとした井泉水とはすぐに袂を分かっている。
子規の時代から新傾向という言葉自体はあり、子規は字余りや無季、写生に留まらない虚子や碧梧桐の新たな試みを奨励さえしていた。ただそれも「いずれ限界が来る」という達観した立場であり、俳句の様々な表現可能性を試し、その基盤を確認するための逆接的手法だったとも言える。
また子規-虚子の写生俳句と言わなくても、江戸時代の俳句成立期からずっと俳句は五七五に季語の定形だった。碧梧桐の試みは内容・形式両面で新たな俳句の形を求めるものではあったが、「定形さえ守れば俳句」という絶対的決まり事のある俳句界では定形への揺さぶりが注目されるのは当然だった。碧梧がそれを成立させたとは必ずしも言えないが、碧梧の新傾向俳句が端緒になってやがて無季無韻俳句が生まれていった。碧梧新傾向俳句からの必然的な流れだった。
ただ碧梧が季題を手放さなかったのは、彼が季語が俳句の譲れない基盤=核だと考えていたことを示唆している。一方で碧梧は写生では俳句の表現内容に制限があり、もっと自在で大きな世界を詠むことができる俳句を求めた。いわば内容面での充実である。この俳句の内容面での拡大が、碧梧の元を離れて半ば必然的に五七五に季語の俳句形式を壊し逸脱することになる。
俳句の内容面を拡大すれば、短く苦しげな俳句形式では不十分という考え方になるのは当然である。だがここで、じゃあ俳句はどこまで形式を壊していいのか、どこまで壊せば俳句でなくなるのかという問題が起こる。ここまで来ると、碧梧のように季語擁護を唱えても空しい。五七五に季語の俳句定形から内容・形式両面で自由でありながら、薄い形で季感などを援用して、俳句のパラレルワールドのような無季無韻俳句(派)が成立することになる。
菜の花に汐さし上る小川かな
赤い椿白い椿と落ちにけり
春寒し水田の上の根なし雲
遠花火音して何もなかりけり
抱き起こす荻と吹かるゝ野分かな
この道の富士になり行く芒かな
空をはさむ蟹死におるや雲の峰
この道に寄る外はなき枯野哉
道に迷はず来た不思議な日の夾竹桃
カナリヤの死んだ籠がいつまで日あたる
松葉牡丹のむき出しな茎がよれて倒れて
散らばつてゐる雲の白さの冬はもう来る
「碧梧桐百句」伊藤政美・抄出より
「新傾向」「自由律」「ルビ俳句」と様々に呼ばれるが、碧梧桐俳句は基本的に自然外界風物の写生である。内面を詠んだ句は案外少ない。また空や無を感じさせる句が多い。大きな何ものかを求めて、しかしそれが大きすぎて、空無や死や雲や雪などに言語化された気配である。
虚子と比較すれば、碧梧は師・子規の写生俳句から逸脱した印象である。しかしそんなことはまったくない。実際碧梧桐は生涯に渡って子規の弟子を自称し、子規批判を書いていない。
子規は俳句、短歌、散文(小説)を手がけたマルチジャンル作家だった。子規生前は子規派俳人、歌人の中でそのマルチジャンル的指向は一定レベルで共有されていたが、子規死後にジャンル別に分裂してゆく。虚子は俳句と小説を手がけたが、子規のような形ではそのマルチジャンル性を保持し得なかった。碧梧は俳句のみに専心したわけだが、子規の姿勢はやはり大きな影響を与えている。
簡単に言えば、子規のマルチジャンル的姿勢が、俳句ですべてを表現しようとするかのような碧梧の俳風を形作った面がある。そして碧梧のような姿勢は、その後の俳壇で定期的に繰り返されるようになる。意欲的な俳人の多くが一度は俳句ですべてを表現できると考える。俳句は小さな器だが、その小ささと内容表現は一致しない、むしろ小さな器で世界すべてを表現できると考える。それが正しいかどうか、その方法はどんなものがふさわしいかを含めて、碧梧桐の軌跡は考えるに値する。
岡野隆
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