今号から恩田侑布子さんの新連載「偏愛俳人館」の連載が始まっていて、第1回は飯田蛇笏(明治十八年[一八八五年]~昭和三十七年[一九六二年])である。恩田さんには『余白の祭』という優れた俳句評論集がある。俳人としては珍しく、芭蕉以降の俳句にだけ囚われず、その原初を歴史を遡って捉えようとした評論集である。
余白は鎌倉期以降の産物であり、王朝の余剰の敷衍ではないのである。それは、〈み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ〉と定家に一旦否定され、鎌倉期の禅の止揚を経て生まれたのだ。俳句でいえば、この「非」の介入「非連続の連続」の余白こそ、芭蕉の発句を文学たらしめた「切れ」である。それによって俳句は作り手読み手の双方が感情を浸透し合う「余白の芸術」になった。(中略)わたしは、雪舟の「冬景図」奥の垂線に、有と無、生と死の差別を生み出す源としての「原初の切れ目」を見、「無限の世界を沸き立たせる源」を観た。厳冬の孤独に耐える精神のみがそれを知り、肺腑に収めて帰俗したものの表現を「冬の位相の芸術」と呼んだ。日本には定家、世阿弥、心敬、雪舟、利休、芭蕉がいる。その法灯を近代で継いだのは蛇笏である。言葉にし得ない「無のほとり」を往還する「切れ」は余白と冬の美を愛する大人のものである。
恩田侑布子「エロスとタナトスの魔境」
恩田さんは俳句の源流を鎌倉時代にまで遡らせている。俳句はもちろん連歌すら存在しない時代なので、精神的源流ということになる。
仏教は古代日本に流入してから室町・戦国時代頃まで、宗教であると同時に哲学思想でもあった。当初は暗い伽藍の中で香をたきしめ、経典を誦しながら仏の来迎を夢想する密教が盛んだった。それが鎌倉時代、正確には源平騒乱の頃から変わってくる。世は無常という思想が社会全体に広がったのだった。鎌倉五山を中心とする禅宗がそれを広めた。
み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ 藤原定家
大海の磯もとどろに寄する波われて砕けてさけて散るかも 源実朝
ながめわびぬ秋よりほかの宿もがな野にも山にも月やすむらん 式子内親王
『新古今』時代末期の和歌は極めて俳句に近い表現になる。短歌は『万葉』の古代から基本的には「わたしはこう思う、こう感じる」の自我意識表現だった。それが『新古今』末期になると単純な風景描写によって作家の自我意識を表現する和歌が増えてくる。この純客観表現和歌が俳句の源流になったと言っていい。定家も実朝も「眺め」ている。式子内親王は「ながめわびぬ」、「眺め過ぎて飽き飽きした」と表現している。彼らが表現しようとしているのは現実風景ではない。その「余白」である。
死病得て爪うつくしき火桶かな 飯田蛇笏(『山廬集』30歳)
癆痎の頬美しや冬帽子 芥川龍之介(『ホトトギス』26歳)
(中略)
両句は肺病やみのからだの美と冬季が共通する。だが、芥川は句境まで本当に「剽窃」し得ただろうか。一句は「癆痎の頬が目深な冬帽子に美しいことだよ」という散文にほぼ置き換えられる。(中略)では、蛇笏はどうか。散文に置き換えられないのである。「美しき」は爪と火桶両方にかかり、ただの配合ではない。「かな」の切れは余情を超えた余白だ。蛇笏は美の奥を観ている。切れによって生じた余白に解放された爪はいまも生きて宙をさまよう。対象に浸透する心根の深さは、才気では「剽窃」できなかった。若くして蛇笏は奥深い余白を響かせる俳句の多声音楽を獲得していたのである。
(同)
芥川の句は先行する蛇笏句を意識的に剽窃して詠まれた。龍之介自身が「句境も剽窃」したと書いている。しかしそこまでの域には達していない。違いは「余白」である。龍之介句は散文ですべて説明できる。しかし蛇笏句は不可能である。そこに〝詩的表現〟と〝詩〟の絶対的な違いがある。
詩とは何かと言えば、日常言語を使って特定の意味やイメージには決して還元できない表現を得ることである。ただし意図的に言葉やイメージの繋がりを脱臼させて新たな表現を得ようとする試みは、基本的には未踏の表現を追い求める自由詩のものである。自由詩は明治維新以降に生まれた新たな文学ジャンルだが、一貫して日本文学のパイロット文学として機能してきた。奇矯で不細工であからさまな失敗であっても、果敢に新たな表現を追い求めるのが自由詩の日本文学における存在理由だった。
伝統文学である俳句は違う。俳句は短歌的世界観、短歌的抒情を正確に引き継ぎながら、短歌よりも端的に日本的な世界観や抒情を表現するための器である。子規は『歌よみに与ふる書』で「仰のごとく近来和歌はいっこうに振ひ申さず候。正直に申しそうらへば『万葉』以来実朝以来一向に振ひ申さず候」と書いた。文学史的に言えば、鎌倉以降、短歌は長い長い低迷期に入った。短歌に代わって現れたのが連歌であり、やがて江戸初期に芭蕉を生んで俳句文学が確立されることになる。この新たな日本文学である俳句がその表現の核としたのは恩田さんが指摘なさった通り、「余白」である。
技術的に言えば余白とは「切れ」である。俳句は短い表現だが、それを切れによってさらに短く切り詰める。当たり前のようだが短歌は〝歌〟であり、調に乗ってどこまでも歌うことを原初の表現とする。その無限の歌(調)の流れが歌謡や物語文学を生み出している。しかし俳句は違う。俳句は切り詰める。限界まで切り詰める。そのわずかに残った余白が、俳句ならではの表現を生む。
禅の無はまったく何もないという意味ではない。世界内存在を生み出すカオスのような存在原初である。無からすべてが生まれ、すべての存在は無に帰する。それは言葉で特定できないが確実に存在する。余白でしか表現できないのである。
恩田さんは「わたしは、雪舟の「冬景図」奥の垂線に、有と無、生と死の差別を生み出す源としての「原初の切れ目」を見、「無限の世界を沸き立たせる源」を観た。厳冬の孤独に耐える精神のみがそれを知り、肺腑に収めて帰俗したものの表現を「冬の位相の芸術」と呼んだ」と書いておられる。的確な指摘である。無に達し、即座に帰俗して猥雑な現世をも表現できるのが俳句の余白というものである。
山国の虚空日わたる冬至かな
極寒の塵もとゞめず岩ふすま
寒を盈つ月金剛のみどりかな
年暮るる野に忘られしもの満てり
おく霜を照る日しづかに忘れけり
ぱつぱつと紅梅老樹花咲けり
春めきてものの果てなる空の色
炎天を槍のごとくに涼気すぐ
荒潮におつる群星なまぐさし
涸れ滝へ人を誘ふ極寒裡
飯田蛇笏
恩田さんは「人間の死は性に由来する。理論上、単性生殖に死はない。死は有性生殖の必然である。フロイトやバタイユが二十世紀に強い影響を及ぼしたエロスとタナトスは、蛇笏にとっては必ずしも二項対立えではなかった」とも書いておられる。
「山国の」から始まる五句は恩田さん撰で、蛇笏の「冬の美」に属する作品である。タナトス(死)に属する俳句だと言っていい。もちろん単純な死ではない。死は生の萌芽でもある。しかし短歌や俳句で馴染み深い春夏秋冬の巡りではない。冬の後には春が来るという単純な句ではないのだ。蛇笏は通常なら絶望と呼んでいいような心性で冬を捉えている。「年暮るる野に忘られしもの満てり」にあるように、絶望の底に沈めば自ずと生の胎動が感じられるようになる。
「ぱつぱつと」から始まる五句は恩田さん撰の蛇笏のエロスに属する句である。「荒潮におつる群星なまぐさし」という句を生むためには俳人に哲学が必要だ。老いた梅の木は匂うように花を咲かせ、無機物が生臭い臭気を放つ。エロスとタナトスは背中合わせである。それを一切の自我意識表現、わたしはこう思う、こう感じるという表現なしに、単純に世界内要素を取り合わせて表現できるのが俳句である。
最も優れた俳人は、同じような表現の地平に出る。禅の覚者がほとんど同じような悟りの境地を語っているのと同じである。その意味で俳句における師系は大事だが、あまり意味がないとも言える。俳人は優れた師を一人見つけさえすれば、その軌跡を理解することで俳句文学の本質をつかむことができる。蛇笏はそんな導師の一人である。ただいわゆる俳句の賢者はすべからく絶望している。絶望し尽くした賢者でなければ俳句の俗は表現できないのである。
岡野隆
■ 恩田侑布子さんの本 ■
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