女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#5(中編)
台所のテーブルを真上から照らす光の中に、古羊さんは寝間着姿に薄桃色のカーディガンを羽織った姿でぼんやり座っていた。白髪まじりの長い髪は寝癖で広がり、深緑色の縁の太い眼鏡を鼻からずり落ちそうにかけている。もちろんレンズはない。
光の中には空の丸椅子がもう一脚、古羊さんと向かい合うように置いてある。まるでスポットライトを浴びた二人芝居の舞台セットみたいに。
怒られる。慧はすぐにそう悟った。もしかしたら両親が連絡していたのかもしれない。だから唄子おばさんは、僕が突然玄関に現れても驚かなかったんだ。
「ここに座って」
古羊さんは慧に声をかけた。慧は観念して頷いた。懐中電灯をテーブルに置くコトリという音がカチンコみたいに聞こえる。慧は腰を下ろした。偶然とはいえ、やっぱりおばさんの家になんて寄るんじゃなかったと思いながら。
向かい合った古羊さんは重々しく云った。
「冷えたのね」
抑揚のないしゃべりかた。寝起きの声は少し嗄れている。慧は黙って古羊さんの次の言葉を待った。
古羊さんはすっと立ち上がり、慧は反射的に首を縮めた。ぶたれるかもしれないと咄嗟に思ったからだ。両親にだって殴られたこともなければ、ましてや古羊さんにぶたれたことなどある筈もないのに、急にそう思って怖くなったのである。
けれども立ち上がったと思った古羊さんは、次の瞬間には慧の足もとにさっとうずくまった。
「痛っ、痛いよ、おばさん」
慧の小さな悲鳴が上がる。
何事かと思ったら、つま先で床につけていた慧の両の足首を、古羊さんが握って放さないのだった。短いソックスからはみでた華奢な足首の、アキレス腱の上から力を込めて握り込むので慧は痛くて逃げられない。慧の目の下で、古羊さんの銀髪が波打って広がっている。それを見て慧は、魔女みたい、と思う。
「やっぱり冷えたんだわ」
古羊さんは満足そうに呟いてから立ち上がった。慧には何のことかさっぱり判らない。ただ呆然と古羊さんを見上げている。まだ右の足首が少し痛かった。
冷蔵庫からしょうがを取り出し、棚から土鍋を下ろす。おもむろにしょうがをすりおろしはじめた古羊さんに慧は訊いた。
「唄子おばさん、何してるの?」
古羊さんは顔を上げ答える。
「しょうが湯をつくってるの。あったまるわよ」
すりおろしたしょうがと水を土鍋に入れて、コトコトと煮る。黒砂糖、蜂蜜を古羊さんはその中に投入した。どこかなつかしい匂いを嗅ぎながら、慧は自分がこの家に来たことをずいぶん昔のように思う。
「前におばさんの家に来たのって、いつだっけ?」
「さあ、どうだったかしら。一年くらい前だと思うけれど」
ふつふつと煮えるしょうが湯の表面に視線を固定したまま、古羊さんはうわの空で答える。
「そんなことないよ。もっと前だよ」
慧は丸椅子の上で足をぶらつかせながら不満げに云う。去年は家からだって一歩も出なかった。そう思ったら、両親以外の人間と会話するのもかなり久しぶりなのだ。てきとうな古羊さんの返事に慧は呆れてしまう。さっきは成長した僕の顔が判らなかったくせして。
三年ぐらいだろうか。それぐらいは来ていなかったかもしれない。それよりももっと長いかも。
最後に来た時は詩音さんと一緒だった。それだけは覚えていた。リサさんと三人で家族揃って来たのは、それこそ慧がもっとずっと小さかった時だけだ。リサさんが唄子おばさんのことを苦手に思っていることに慧は幼いながらも気づいていた。そして姉弟であっても詩音さんも、たぶん。だから詩音さんは必ず僕を連れてここを訪れていたのだ。
僕がそれくらい来ていないということは、僕の家の誰もそれくらい来ていないということだ。慧はそう考えて、一瞬錯覚した。土鍋を一心に覗き込む古羊さんが、自分よりもっと長い間ひとりきりでいたのかもしれないと勘違いしたのだ。
けれども実際はそんなことはないのである。五十歳を過ぎてなお、結婚もせず、ひとり住まいのおとなしい女性ではあるけれど、古羊さんは会社に行っているし、近所に買いモノにだって出かけている。誰かを無理やり遠ざけたり、家に引きこもって暮らしたりしている訳ではないのだ。
できあがったしょうが湯をお玉ですくって、古羊さんは茶箪笥から出してきた二つの湯呑みに均等に注いだ。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけて」
慧に渡されたのは淡い藍色の桜の花が描いてある大きな湯呑みで、新品のようだった。古羊さんのはと見るとひとまわり小さく、こちらはずいぶん使い込まれた感じで内側に渋の輪が浮かび、色違いで描かれた薄紅色の桜もところどころ剥げかけている。
こういうのをなんて云うんだったかな。
慧は器用に古羊さんの指をよけながら、湯呑みの口を持って自分に引き寄せた。
「ありがとう」
似たようなモノを両親も持っていた。大きいのが男性用で、小さいのが女性用のペアになっている奴。夫婦……湯呑みだっけ。
「美味しいよ」
ふうふうと息を吹きかけながら口に運ぶと慧は微笑んだ。
おばさんはこの湯呑みを誰のために買ったんだろう。
こうして見ると慧は詩音によく似ている、と古羊さんは思った。少し鼻が低くて垂れ目気味なのは母親ゆずりだとしても、湯呑みの中身を覗き込むように目をふす様子や、その時にできるまつ毛の長い陰影がはっとするほど若い頃の詩音にそっくりだ。
「お父さんに、似てきたのねえ」
ふうっとため息を吐くように息を吹きかけ、しょうが湯の表面をわずかに波立たせて古羊さんは云う。葛を加えてとろみをつけたしょうが湯はたぷたぷと、年齢を重ねるにつれて自然とやわらかい脂肪を身にまとうようになった古羊さんの二の腕みたいに揺れる。
「詩音さんに? 僕が?」
しょうが湯でゆるみかけた慧が尖った声を出す。
「詩音さん?」
「あ、ううん、僕ってパパに似るのかなあ」
慧は尖った心をおさめて不安そうに訊いた。視線は湯呑みに落としたままで。
「そうねえ、小さな頃より今のほうが似てきたかしら」
嬉しそうに答える古羊さんの声をふり払うように、慧は勢いよく椅子から立ち上がった。
「あっちで飲んでくる」
指さしたのは縁側だった。すたすたとまっ暗な居間を横切って、慧は縁側から庭へと続くガラス戸に手をかけた。
「電気、点けたら?」
台所から古羊さんが声をかける。
「ううん、大丈夫」
建てつけの悪い戸に苦戦しながら、慧は思い出していた。
いつもは開いていた。詩音さんに連れられてこの家を訪れる時、ここは陽がよく射していて、開けっぴろげで、幼い僕は何の躊躇もなく持ってきたミニカーを走らしたり陽だまりに寝っ転がったりした。そう、何の躊躇もなく、世界はそこに存在していたんだ。
そんな日があったことを遠い昔のように感じながら、慧はまだ戸と格闘している。
やっとこ少し開いたのを認めると、慧は右手に思いっきり力を込めた。ガッ、タンというけっこう大きな音を響かせて戸は開いた。春の風はひんやりとしている。台所まで細く忍び込んできた夜風に古羊さんは小さく身を震わせた。
慧は暗い庭に目をやり、それから息を呑んだ。びくっとした拍子に湯呑みから、しょうが湯がとぷんとひとしずく庭に落ちた。慧の視線の先には白い影、幽霊のようにゆらゆらと揺れている。
「あれは何?」
あとずさりながら、慧は無意識に右手で懐中電灯をつけようとした。そして身体の一部みたいに常に握っていた懐中電灯を台所のテーブルに置き忘れていたことにはじめて気がついた。台所へ助けを求めるように慧はふり返った。
古羊さんがカーディガンの前を合わせて慧に近づいてくる。
「ああ、桜、きれいでしょう?」
夜目に儚くふうらりふうらりと揺れているのが桜と知って、慧は庭の片隅に目をこらした。なるほど確かに桜だった。まばらに咲いた白に近い薄ピンク色したしだれ桜を慧は改めて眺めた。
こんな桜、あったっけ。
古羊さんの小さな庭に桜の木があったことを慧は知らなかった。いや、貧弱に垂れ下がった枝が風に揺れるさまを見たような記憶はかすかにあるのだが、それは何か柳とかそういう味気ないモノで、まさか花を咲かす木だとは今まで思っていなかっただけである。
「きれいだけど……僕はあんまり好きじゃない」
桜はすぐに散ってしまう。
花見が嫌いだった。満開の桜も、それを愛でる人々も。
詩音さんとリサさんと一緒に花見に行った時のことを慧は思い出していた。今を盛りと咲き誇る桜並木を三人で並んで歩いた。リサさんは無邪気に「きれい、きれい」を連発し、詩音さんは黙って微笑んでいた。慧も視界を覆う桜色に目を奪われて、莫迦みたいに親子揃って上ばかり見て歩いた。
しあわせな瞬間だった。
ひらひらと舞い落ちる桜の花びらを目で追って、慧の視線は地面に着地した。道には無数の散った花びらがへばりついていた。時間の経ったのは茶色く変色し、踏み荒らされて千切れた花びらができそこないの押し花みたいだった。その上に新たに降り積もる花びらも容赦なく次々と踏まれていった。誰もそのことを気に留めなかった。
満開の桜を愛でる目と、キレイと口走る唇を持つその身体が、同時進行で当然のように花びらを蹴散らしていく。もしかしたら。
僕はそういうことに耐えられないかもしれない。
慧はその時悟ったのだ。うまく云えないけれど、悲しかった。両親のようにきれいな桜だけを見てはしゃげない自分を恨めしく感じた。
足どりの重くなる慧を置いて両親は先を行く。上ばかり見ていたので、息子が遅れていることに気づかない。
もう頭上を見る勇気もない慧はとぼとぼと歩いた。桜並木の途切れたところで、詩音さんとリサさんは待っていた。リサさんは何の思惑もない瞳で慧を見つめ、手を伸ばしてきた。慧はよく判らない罪悪感を抱きながらその手を握った。詩音さんは横を向いている。縁石にブランドモノのスニーカーの底をこすりつけて、何かを落とそうとしているみたいだった。
夜半に降った雨のせいで道は湿っていた。散った花びらが数枚、スニーカーの靴底に貼りついているのが見えた。思うように落ちないらしく、何度も縁石にすりつけている。
「この靴、お気に入りなのに」
女々しい口調で愚痴る詩音さんを慧は黙って見ていた。花びらは原形を留めることなく、ただただ靴底の溝深くもぐり込んでいった。詩音さんにしては珍しく、いらいらとした感情を隠すことができない。
「ああもう、しつっこい。汚いなあ」
嫌いになれる。
その瞬間、慧は確信した。世界はもう、僕にはじゅうぶんだ。この先いろいろなことを知るたびに、確実に僕はこの世界を嫌いになるだろう。
桜はすぐに散ってしまう。満開の桜はもうじゅうぶん。僕はみんなみたいにいっせいにきれいになんて咲けやしないし、地面に這いつくばって踏み潰されるのもご免なんだ。できれば散りながら風にのって、どこか誰も知らない遠くへ行ってしまいたい。誰からも愛でられることもないかわりに、誰からも踏みにじられることのない世界へ。
そこまで夢想して、慧はふとわれに返った。
目の前にあるのは古羊さんの庭に佇む貧相なしだれ桜。夜風に吹かれ、揺れる細い枝にしがみつくようにしてまばらに咲いた、散り残りの桜の花。
……ほんとうは判ってる。
どこかへ行ってしまいたいのに、僕はどこへも行けていない。自分の部屋の暗がりに身を置いて、知ることを拒否することしかできやしない。現実の僕は散ることもできずに、ああやって枝にしがみついたままの意気地なしなんだ。そんなこと、僕だって判ってるんだ。
慧は暗い目をして、ぬるくなったしょうが湯を啜った。
「世界なんてとうに終わってる」
「どうしたの? おかしなこと云うのね」
猫舌の古羊さんは、やっと喉を通るようになったしょうが湯を美味しそうに飲みながら慧に訊ねた。のんびりとしたその様子に慧はため息を吐く。おばさんにそんなこと云ったって、判る筈がない。
「何でもないよ。ただ散り残った桜を見ていたらさ、何だか感傷的な気分になっただけ」
「そう」
そんな風にごまかしたものの、慧は落ち込んだ気分を追い払うことができなかった。
「ねえ、唄子おばさん。僕ってやっぱり変なのかな」
伊達眼鏡の奥で、古羊さんは不思議そうに目を瞬いた。
「慧って変なのかしら?」
どうして質問を質問で返すんだよ。慧は少しいらいらしはじめていた。
「変なのは唄子おばさんのほうだよ」
突っかかるような口調で返す。
「あらあら」
何故だか古羊さんは笑っている。笑うと、若い頃よりふっくらとした顔の目尻のあたりに小さなカラスの足跡が刻まれた。
「ふふふ。慧ったら、女の子みたい」
「なっ」
急に「女の子みたい」と云われて、慧は頬を紅潮させた。それが怒りのためなのか、単に恥ずかしいからなのか、自分でもよく判らなかった。
「慧も大人になったものねえ」
云いながら、古羊さんは立ち上がった。
女の子、と、大人、に何の因果関係も見いだせない慧は半ば呆気にとられたように古羊さんを見上げた。古羊さんはそんな慧を気にする様子もなく、ほがらかに話しかける。
「もう遅いし、泊まっていくでしょう? 布団を探さなきゃ。そうそう、あのしだれ桜ね、まだひとつも散ってないの。あれが満開なのよ」
水が流れる音で慧は目を覚ました。
壁や床を伝って、ざばん、という音がどこからか聞こえてくる。風呂の湯の流れる音らしかった。寝ぼけながら慧は、こんな朝はやくに誰、と訝った。
上半身を布団から起こし、ぼんやりと古い柱時計を見上げる。午前五時を少しまわったところ。薄暗い部屋で揺れる丸い振り子を眺めているうちに、慧は昨夜自分が古羊さんの家に泊まったことを思い出した。
慧の住むマンションでも、他の部屋からトイレや風呂の流水音が聞こえてくることはあった。ただ伝わりかたが違って聞こえる気がした。見知らぬ他人の立てる水音は乱暴で硬い。図々しく慧の世界に割って入ってくるのが不快だった。けれどもここで聞く湯の音はやわらかくて心地よかった。控えめに住人の営みを家自体がそっと知らせてくるような、そんな音に感じられた。
二階の、かつて詩音が使っていた部屋で慧がそんなことを考えながら、もう少し寝ていようかどうしようかと迷っている頃、一階の台所では、置き忘れられた懐中電灯が昨晩の非礼を周囲のモノたちに詫びていた。
昨日はどうも、騒がせちゃってすみません。
まだ夜も明けきらない薄暗い廊下を、ふわふわと長い髪をなびかせながら古羊さんが朝風呂を浴びに通り過ぎると、この家のモノたちも次々に目を覚ました。
……あの男の子は。
ヴィーン、ヴィーンと低く唸りながら、旧式の冷蔵庫が口を開く。
窮屈な子どもじゃな。窮屈な子どもは、痛々しいな。
そうですか、と懐中電灯は云い、そうですね、と続けた。それから少し考えて、まあでもあれですね、古羊さんも窮屈なヒトなんじゃないですか、と訊いてみた。
ほう、そう思うかね。驚いたように掠れた声を上げて、年寄りの冷蔵庫は答えた。
くすくすという忍び笑いが周囲からもれる。そんなことないわよ。くくく。そんなことないわな。抑えた笑いと一緒にあちらこちらから否定の声が聞こえてきた。どうやら懐中電灯の質問は的はずれらしかった。声は重なって、ひとつの言葉になる。
あのヒトは全然そんなんじゃないから。
風呂の戸が開く音がして、みんないっせいに黙り込む。
(第5章 中編 了)
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