女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#5(下編)
目をこすりながら慧が階段を下りてきた。
詩音が昔着ていたというパジャマは慧には袖が長く、手の先まで完全に隠れてしまっている。ズボンの裾をまくり上げてはいるが、こうしてみると余計に子どもに見えた。台所に古羊さんの姿がないのを確認し、テーブルの上にちらりと視線を走らせる。寝ぼけているからか、視線は置いてけぼりにしていた懐中電灯の上をあっけなく素通りし、縁側へと向けられた。縁側では風呂あがりの古羊さんが緑茶を啜っている。
「おはよう」
「おはよう。やっぱりパジャマ、大きかったわね」
声に振り向いた古羊さんは、慧のぶかぶかのパジャマ姿を見て云った。
「まあね。今のところは」
妙な敵対心をむき出しにして慧は返事する。
詩音が何歳の頃に着ていたパジャマかは知らないが、昨日の晩、急に泊まることになった慧を二階に上げると、古羊さんは部屋にある箪笥の引き出しからすんなりそれを出してきた。まるで前々から準備していたみたいだった。押入れを開けて布団を探している古羊さんに見つからないように、慧はパジャマに鼻を寄せてみた。かび臭くも防虫剤臭くもない、洗濯したてのような香りがした。そこには詩音さんの匂いも残ってなくて、慧は少しほっとした。
古羊さんは布団探しに案外手こずった。手こずって、あたふたして、結局見つからなかったらしく、謝りながら自分の布団を持ってきた。ずいぶん前に家を出ていった弟のパジャマは洗いたてをすぐに出せる癖に、布団は何故か一組しか置いていないらしかった。
さっきまで古羊さんが包まっていたに違いない布団を慧は仕方なくかけてみた。ぬくもりはほとんど残っていなかったけれど、かすかに母親とは違う女の人の匂いがした。落ち着かず、いつもなら鼻のあたりまでかぶって寝る布団を慧はおへそまでずらして寝た。けれども朝が来た時にはふだん通り、顔が半分隠れるくらい布団にもぐり込んでいた。いい夢も悪い夢も見なかった。ただ意外にぐっすりと眠れたような気がした。
布団がなくて、おばさんはどうやって寝たんだろう。
濡れた髪を垂らしておっとりと緑茶を啜る古羊さんを見ながら慧は思った。
昨夜の古羊さんは羽織っていたカーディガンの上にもう一枚半纏を着込むと、薄手の毛布を身体にくるくると巻きつけて太巻きのような恰好で寝ていたのである。が、もちろん慧はそのことを知らない。
「唄子おばさん、早起きなんだね。僕、こんなにはやく起きたの久しぶりだよ」
慧はそう云って隣に腰を下ろした。
「わたしはいつも同じ時間に起きるのよ。毎朝お風呂に入るから」
「毎朝なんだ」
「そう、習慣なの。慧も入ったらいいわ。気持ちいいわよ」
「あ、うん」
返事をしながら慧は庭の片隅に目をやった。昨日の夜に一瞬怯えたのが莫迦みたいに、しだれ桜はつつましく咲いている。あれで満開だものなあ。何となく苦笑していると、古羊さんがふと思いついたように云った。
「こういうのを世界がやってくるって云えばいいのかしら」
「世界が、やってくる?」
慧は首を傾げた。
「昨日来た時に云ってたでしょう? 世界が終わるとか何とか。夜に終わるんだったら、朝、はじまるのよね。慧ったらうまいこと云うのねえ。さっきお湯に浸かりながらやっと気づいたのよ」
夜終わるのなら当然朝はじまる筈だ、という古羊さんのあまりに単純な発想に、慧はぽかんと口を開けた。
「毎朝ここでこうしながら、こういう感じをなんて云えばいいのかずっと判らなかったの。こういう、何かがやってくる感じを」
古羊さんは目を細めて前方を見つめている。空は白々と、生まれたばかりの朝の光に満たされつつある。光を浴びると古羊さんの水分を含んだ髪も、若い頃の艶やかさを取り戻したかに見えた。
「ただ朝が来たと云うのとは少し違っているような、何か足りない気がして。だから慧が云ったのが、すとんと腑に落ちたの。なるほどなあ、ああ世界がやってくるのだなあ、それで毎朝不思議な感覚がしてたのかって。そういう文学的な表現て、わたしには全然思いつかなかった。やっぱり詩音の息子だわ」
「僕はそんな風に云った覚えはないけどね」
すぐに父親と自分を結びつけたがる古羊さんの言動にふてくされながら慧は呟いた。
古羊さんが云うように、世界が毎朝生まれ変わりやってくるのだとしたら、それは慧にとっては脅威でしかなかった。必死に遠ざけていた筈のモノが明くる日にはもう近づいている。波のようにくり返す日々を、果たして僕は受けとめることなんてできるんだろうか。
慧は小さく身を震わせて、古羊さんに訊ねた。
「毎朝新しい世界が向こうからやってくる時、唄子おばさんはどうしてるの?」
「どうって?」
きょとんとした顔つきで古羊さんが訊き返す。
「その時の気持ちっていうのかな。たとえば、両手を広げて抱きしめる感じとか、それとも迎え撃つ姿勢で身構えた感じとか」
どう表現していいのか判らなくて、慧はそれぞれのポーズをして古羊さんに見せた。ああ、と古羊さんは頷き、妙にこざっぱりした顔で答える。
「何もしないわ」
「何も?」
「ええ。今日もやってくるのだなあって思ってるだけ。思って、そうしたらだんだんやってきて、じっと通り過ぎるのを待つの。風みたいに通り過ぎたらそれで終わり。あ、終わりじゃなくてね、はじまり、だわ。一日がはじまってるのよ」
「何もせずに待っているだけなんだね」
慧は何となくモノ足りない気分で云った。それでは参考にならない。
「他に何かあるかしら。勝手にあっちから来るモノをいちいち相手にしてられないし。放っておいても大抵のモノはいつの間にか通り過ぎていくの。面倒なことはわたしはご免だから」
つるつるとした頬を朝陽にてからせて、古羊さんは慧を見て少し笑った。その笑顔を慧は、大人らしくない顔だ、と思う。かといって子どもっぽい訳でもない。詩音さんやリサさんはもっと大人らしい顔をしていた。大人は大人らしい顔をしているモノだ。子どもの僕が子どもらしいかどうかは別にしても。
大人らしくない顔の古羊さんは、縁側で気持ちよさそうに風に吹かれながら、今日も世界のはじまりをやり過ごしている。
朝にお風呂に入るのは変な気分だった。自分の家では一度も入ったことがない。前に家族旅行で温泉宿に泊まった時に、詩音さんに誘われて入ったことはあったけれど、それとはまたちょっと違う気が慧にはしていた。
なんていうか、うしろめたい気持ち。
人工の明かりではなく、すりガラス越しの自然光が風呂場に注いでいる。朝の光はやわらかいけれど冷たく、遠慮がちで清々しい。慧は四角いステンレスの浴槽に片ひじをつきながら、もう片方の指先で意味もなく湯の表面を弾いている。
今だけじゃない。僕はずっとうしろめたかったんだ。
頭の中が整然としている。こういう感じは久しぶりだった。薄暗がりに身をひそめるように生活していた時はもっと混沌としていた。混沌とした中で、胎児のように身を丸めていると守られているような安心感があった。でも、落ち着かなかった。それは慧自身、ほんとうは誰からも守られていないことを知っていたからだった。自分を守っているのは自分しかいなくて、だから気が抜けなかった。
あの時感じていたのは、罪悪感に近いうしろめたさだった。自分を守るために、自分に嘘をついたことへの。今は違う。湯の中で慧が抱いている気持ちはある種の優越感についてくる、むず痒いようなうしろめたさだった。
のんびりとくつろいで手足を伸ばす。伸ばした手足は白くて細い。僕はこんなにひよわな身体つきをしていたんだっけ、慧は首を傾げる。いつもどこかに力が入っていたような関節がゆっくりとほぐれていく。手と足がちょっとずつお湯の中で伸びていくみたいだ。湯の動きに合わせてゆらゆらと揺れて見える。
「あのヒトは」
整理された頭で慧は時間を遡り、何度も立ち止まった十字路の夜を想った。
ほんとうにいたのだろうか。
口には出さず、自分の胸に問いかける。慧をじっと無言で見下ろす窓。窓。窓の群れ。胸のどこかが締めつけられる気がして、慧は目を閉じる。そのままさらに遡る。部屋の窓から見えた明かり。ぴかぴかと明滅するあのヒトの部屋の明かり。僕たちだけに判る合図。秘密の世界の合言葉。そんなモノ。ほんとうに?
考えているうちに、のぼせてぼうっとしてきた。
慧は犬みたいに頭をぶるぶると振って湯船を出た。目地がところどころ黒ずんだ、マーブル模様の石が敷きつめられたタイルに足を下ろす。冷たい感触に足の指がきゅうと曲がった。手桶に少し湯を汲んで足もとに流すと、複雑な目地の迷路をさまよいながら、湯はたらたらと排水口に向かって流れていった。
ぼんやりその流れを追うと、排水口の蓋のところに古羊さんの長い髪が引っかかっているのに慧は気づいた。黒くて長い髪の毛を無意識に摘もうとして手が止まる。一本の髪の毛かと思っていたらそうではなかったのである。黒い髪に絡まるようにして、白い髪の毛がもう一本。光の具合でよく見なければ判らなかったけれど、確かに、ある。二本の絡まり合った長い髪の毛を眺めているうちに、慧は昔こんな風になっていた二匹のヘビのことを思い出していた。
黒いヘビと白いヘビ。
田舎の田んぼの水路にその光景を見つけた時、リサさんは大袈裟なほどの悲鳴を上げて飛んで逃げていった。慧は浅い水の中に浮いている二匹のヘビの死骸をじっと観察した。黒いヘビは三角形、白いヘビは長円形の頭をしていた。世界のあらゆるモノを知りたがる年頃だった慧は、隣に立っている詩音さんに訊ねた。
「ねえ、死んでるの?」
「そうみたいだね」
「なんで死んだのかなあ」
不思議そうな表情を浮かべながら、慧は二匹の絡まったヘビから目を離すことができない。
「かわいそうに。闘って、死んだんだろう。縄張り争いの喧嘩だね」
詩音さんは二匹のヘビを憂えるように云った。
「ナワバリって何?」
「うーん、そうだなあ。動物には目には見えないけれどそれぞれ居場所が決まってるんだ。そこからはみ出して他の動物の場所に入ったり、自分の場所を広げようとしたりすると喧嘩になる。動物は容赦ないからね、死ぬまで喧嘩してしまうこともあるんだよ」
「ふうん」
慧は曖昧に頷いて「こんなに広いのに」とぽつりと呟いた。どこまでも広がる田園風景を見渡しながら、詩音さんは大きく頷いた。
「そうさ、こんなに広いんだから喧嘩する必要なんてなかったんだ。ヘビは知らなかったんだよ、世界がもっと広くて、もっと先まで続いていることを。知っていたら、たとえ他のヘビに出くわしても知らんふりして通り過ぎていればよかっただけなのに。命をかけるなんて無駄なことをしたもんだ。まあ、それも仕方ないよね、ヘビは莫迦だから」
得意げに胸を反らせて説明する詩音さんを慧は見上げた。道の先でリサさんが顔をしかめて立っている。
「もう、そんな気味の悪いのは放っておいて、はやくしてちょうだい」
これ以上リサさんを待たせるとまずいと思った二人は同時に足を踏み出した。そして顔を見合わせて笑った。ヘビは莫迦だと云い切る詩音さんを、その時の慧は嫌いではなかった。ほがらかな口調で、少し自慢げで、判りやすいのか判りにくいのかよく判らない父親を嫌いではなかったのだ。
慧はふり返って、のどかで広大な風景を見渡した。こんなに広い場所なのに、黒いヘビと白いヘビはたまたま出会い、そして同時に死んでしまった。
世界の広さを知らないヘビは、なるほど詩音さんが云うように莫迦なのかもしれない。けれども世界のほんの片隅で、二匹のヘビが生死をともにした偶然の奇跡は、幼い慧の心を静かに揺さぶった。
その時の気持ちをゆっくりと思い起こしながら、慧は古羊さんの毛色の違う二本の髪を見つめていた。黒い髪は過去、若い頃の唄子おばさん。白い髪は未来、老いてゆく唄子おばさん。水はけの悪い排水口の周囲でたゆたっている。
闘って、死んでゆくんだろうか。
これまでとこれから。唄子おばさんだけじゃなく、ヘビだけじゃなく、みんな。闘いながら生きていかなくちゃいけないんだろうか。
慧はしばし考え込み、そんな自分の滑稽さにわれに返った。風呂場で素っ裸なままで、僕は一体何をしているんだか。夢から醒めたばかりの顔つきになる。やめたやめた。さっきのは詩音さんの考えで、自分のじゃない。そうだよ。僕はあの時、何か違うことを感じた筈ではなかったか。
うまく云えないけれど、ふり向いたあの時、僕は確かに感じたのだ。何か途方もなく大きな力が働いて、磁石みたいに引きつけられてしまったモノに対する畏れにも似た気持ち。世界は広くて底知れなくて、全然足りてなんかいない。そのことに僕はずっと前から気づいていたのだ。
あのヘビがどうして死んだのか、ほんとうのところは誰にも判らない。もしかしたらどちらかの死にどちらかが寄り添っただけなのかもしれない。何の前触れもなく、そんな考えが慧の頭に浮かんだ。視線の先では古羊さんの過去と未来が絡まりながら揺れている。
寄り添って、いるのだろうか。闘わず、ただ寄り添うだけの。だからあんな大人らしくない顔になったんだろうか。僕もそんな風に生きていけば、大人らしくない大人になれるんだろうか。
……判らない。判らないことだらけだった。世界の底を覗き込もうとして、慧は途方に暮れた。
わたしなら何もしないわ。
古羊さんの言葉が耳もとによみがえる。面倒なことはご免なの。ただ通り過ぎるのを待つだけ。慧はひとつ頷いた。
そうだ。判らないことは判らないままにしておけばいい。知ることと、知った気になることとは意味が違う。知ることを拒否するんじゃなくて、知りたくても計り知れないモノがある、そのことを知っておくこと、が大切なんだ。
手桶を持ち直すと、慧は二本の長い髪の毛を丁寧に排水口へと流した。
朝ごはんを食べて、身支度を整えている慧に古羊さんが声をかけた。
「どうする? 詩音に迎えに来てもらう?」
そう云われて慧はすぐに首をふった。
「ううん、ひとりで帰れるよ。だからさ、道、教えてよ。駅までの」
ここに来る時はいつも詩音さんの車だったから、慧は帰り道を知らなかったのだ。
古羊さんはわずかに眉をひそめた。
「大丈夫? 迎えに来てもらったほうがいいんじゃないかしら」
昨日の夜、ひとりで玄関に現れた僕に「大丈夫?」とは訊かなかったのに、今頃になって心配している唄子おばさんはやっぱりずれている。慧は古羊さんに見えないように小さく笑った。
「平気だよ。知りたいんだ」
「そう」
きっぱりと云い切る慧に古羊さんは何故か残念そうに答えた。
ひょっとしたらおばさんは詩音さんに会いたいだけなんじゃないか、という考えがちらりと頭を掠めたが、慧は黙っておくことにした。その代わり、今はじめて気づいたという風にテーブルの上の懐中電灯を指さした。
「その懐中電灯、おばさんにあげるよ」
古羊さんは目を少し見開いた。
「あら、どうして」
「もう必要ないから」
縁側のほうに顔を向けて慧は答えた。古羊さんの小さな庭には明るく陽が射している。今日はあたたかくなりそうだ、そう思う慧のまわりに暗闇はもうなかった。
「じゃあ、いただくことにするわ。夜の庭にちょうどいいものね」
夜の庭に出るような理由があるのか判らないけれど、古羊さんはそう云って懐中電灯の背をひと撫でした。慧も庭先を見つめたまま、まっ暗な庭へと懐中電灯片手に下りていく古羊さんの姿を想像していた。
唄子おばさんのことは判らないな。胸の内で呟き、そして続ける。僕が判らないんじゃなくて、たぶん、おばさんのことは誰にも判らない。
電話台の引き出しからメモ帳とボールペンを出してきた古羊さんは丸椅子に座って、慧の家までの地図を書いている。時おり手を止め、ほんとうにその道順で合っているのか自信なさそうに宙を見上げ、それからふんふんと頷きながらまた書き足していく。
「そう云えば、慧」
ボールペンを握った右手を顎にあて、古羊さんは顔を上げる。
「何、唄子おばさん」
ふり返って慧が訊き返す。
「なんで家に来たの?」
慧は一瞬梅干しを食べたような顔をした。そして顔を戻すと、しばらく考えてから答えた。
「道に、迷ったんだ」
古羊さんは「ふうん」と頷いた。
「ああ、それで」
納得して、また書きかけのメモ用紙に目を落とす。古羊さんの黒と白の混ざった長い髪がぱさりと頬にかかった。
「うん、それで」
こざっぱりした表情で、慧は古羊さんのつむじのあたりを眺めて笑顔になった。
(第5章 下編 了)
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