女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#5(上編)
去年は家からだって一歩も出なかった。
今は夜。
慧は暗い夜道を歩いていた。あてもなく、手にした懐中電灯をぶらぶらと振りながら。懐中電灯は消えたままだ。暗闇は怖くはない。むしろ慧は暗がりに身を置くことで、今日まで自分を守ってきたのだ。
世界はじゅうぶん足りている。足りすぎて、余っているくらいだった。
この一年、慧は慧の知っている世界だけで過ごそうとした。知っているモノにだけ光をあてて生きること、それはとてもよい考えに思えた。だから部屋に閉じこもり、電気を消し、闇に沈んだ。時おり懐中電灯をともし、丸く小さい光の中に見知ったモノを浮かび上がらせる。学習机の傷、箪笥に貼ったシールの跡、天井のぼんやりしたシミ、本棚に並んだ背表紙の色の配列……。
自分を囲む世界に変化がないことに慧は安堵した。僕は僕の知っている世界だけでいい、これ以上、何も必要としていないのだから。
慧はそう考えていた。
四つ辻に出くわすたびに慧は立ち止まり、遠慮がちに懐中電灯をつけた。それを道ではなく空に向け、かすかな合図を送る。ぴかぴか、ぴーか。慧を見下ろす四方の窓から返事はない。慧は小さく肩を落とすと、次の角を目指して歩く。
闇の中に沈んだモノたちの大半はなかったことになった。一度知ってしまったモノたちも、無理やりに押し込めば何とか見ずにすんだ。
たとえば学校。どうでもいいことで盛り上がる同級生の間抜けづら。色気づいた女子たち。世間で起きるやりきれない悲惨な事件。近所のおしゃべりな連中、とか諸々。
慧は学校には行かず、テレビは見ず、他人に会わず、日々を過ごした。そうすれば闇の底で時たま陰気な光を放つそれらも、遠く離れて暗闇に紛れ込み、見えなくなった。
厄介なのは両親で、同じ屋根の下に住んでいるのだから離れるのは物理的に不可能だった。なるべく目を合わさず、部屋に引きこもっても限界があった。だから慧はせめてもと、心の中で距離を置くことにした。
一日中部屋に閉じこもるようになった慧を心配して、母親のリサがドアをノックした時、慧は肌身離さず持っている懐中電灯を掴んで細くドアを開けた。
「サトちゃん、どうしたの。どこか気分でも悪いの?」
リサは中学校に上がろうかという息子をちゃんづけで呼ぶ。それも慧は気に入らない。リサの子どもというよりも、ペットか何かのように扱われている気がする。名前を呼ばれたらほいほいと、尻尾を振ってついていく、そういうモノだと母親に思われているみたいで嫌なのである。
サトシは開いたドアのすき間から懐中電灯をぬっと差し出すと、スイッチをオンにした。
「何するの」
戸惑いつつも眩しそうに目を細めてリサは云った。母親の顔が丸い光の中に浮かんでいる。慧は表情のないまま、その顔をぼんやり見つめた。とてもよく知っている筈なのに、まったく理解できない生きモノ。
「何でもないよ」
慧は平坦な声で答えてスイッチを切った。オフするのと一緒にこの顔も消えてくれたならどんなにいいだろう、と思いながら。
ママ、と云いかけて一瞬躊躇する。
「……リサさん」
するりと言葉が勝手に出ていった。
リサは突然名前を呼ばれて驚いたように目を見開いた。慧はその目を見ないようにして静かに部屋のドアを閉めた。
名前を口にした途端、母親と自分の間にすっと距離が開いたような気になった。慧は一回深呼吸した。ちょっとだけ、息苦しさから解放されたのを感じる。
この日から、慧は両親を名前で呼ぶことに決めた。
父親のことは、詩音さん、と呼んだ。
夜の道をひたすら歩く。
慧には探したいモノがあった。いや、ヒトというべきなんだろう。
その人物が誰なのか、慧は知らなかった。知らないモノを知りたいと思ったのはほんとうに久しぶりのことだった。慧の世界の法則から云えば矛盾している。けれどもあのヒトは特別だ、慧は思った。
あの光は特別なんだ。
慧の部屋から遠く見えた家々の明かり。その中で唯一、慧の言葉に応えた光。その先にある優しい指先を想った。
慧の世界の言葉で話す、そのヒトに慧は会いたかった。
何の気なしに部屋の窓から懐中電灯の光を投げかけたのが一週間前のことだった。慧はこんもりと盛られた土地の上に建つ、まっ白な高級マンションの四階に住んでいる。
慧はまず星空を照らした。そして、ちかちかと瞬く星たちに遠く及ばないことを確認すると小さく呟いた。
「そんなことは知っていたさ」
次にお隣の、外観がそっくりな双子のマンションの窓を上から順に照らしていった。誰か気づいてもよさそうなのに、誰も顔を出さなかった。寒い季節だったので、どの部屋の窓も厚いカーテンで覆われていた。カーテンの端っこが、ぴくりとすることすらなかった。
もし反対に、と慧は想像した。僕が部屋にいる時に、誰かが向こうの窓から光をあててきたらどうするだろう。
カーテン越しに大きな虫みたいな光がブンブン飛びまわる、そのさまを慧は思い描いた。たぶんびっくりして、読んでいた本なんかほっぽり出して、慌てて窓に駆け寄るんだ。そして開ける。そのヒトの手もとだけが強く光っていて、うしろにある顔はまっ黒で判らない。ただぼんやりと判別できる背恰好で、自分くらいの年頃の子だと気づくだろう。それから僕はおもむろに自分の懐中電灯を取り出して合図を送る。ぴか、ぴか、ぴーか。ぴか、ぴーか。モールス信号みたいな秘密の合図。誰も知らない、僕らだけに判る言葉さ。
慧はその妄想に夢中になって、なおもジグザグと、次は円を描くように何度もぐるぐると振った。最後はやけくそで滅茶苦茶に振りまわす。けれども冷たい空気に晒された窓の一団も、その向こうであたたかい空気に晒されながらまどろむ一団も、何の返事も寄こさなかった。
「ちぇっ」
慧はつまらなそうに舌打ちした。負け惜しみのように「僕だって知らないよ」とつけ加えた。
窓を閉めるその前に、慧はついでに町のほうへ懐中電灯を向けた。いらだたしそうにオンとオフをくり返す。ここからじゃ、光なんて届く筈ない。頭からそう思い込んでいた。
その時だった。
はるか遠くに見える一軒の家の、二階のところで電気が点き、すぐに消えた。
それはあまりにタイミングがよくて、慧は一瞬動きを止めた。返事した? まさかね。
もう一度試してみればよかったのに、慧はしなかった。しばらく神妙な面持ちで夜空を見上げ、ふっと戻すと、町のほうは見ないようにしてゆっくりと窓を閉めた。音を立てないよう、さらにゆっくりとした歩みでベッドに近づくと、そろそろと布団の端を持ち上げて身体を滑り込ませる。懐中電灯を握っていたことに横たわってから気づいたけれど、そのまま握り続けた。胸の前で手を組むように静かに持ち直し、まっすぐ上を向く。ともし火を胸に抱く殉教者のように。
天井を見つめているうちに、いつしか眠りに落ちた。
次の日はもう我慢できなかった。
昨夜はあんなにもそろりと、幸福な空気を乱さないよう気をつけて寝たのに、ひと晩経つとあれがほんとうのことだったのか、慧は試したくて仕方がなかった。よし、と小さく気合いを入れると、机の上の懐中電灯を掴み、祈るように胸にあててから部屋の窓を開けた。
時刻は大体同じくらい。慧はスイッチを入れた懐中電灯を町に向かって大きく揺らした。それから少しの間をおいて、心を決めたように合図を送った。
ぴか、ぴーか。ぴか、ぴか。
息をつめ、目をこらす。慧は固唾を飲んで家々の明かりを見守った。そんなことは起こりっこない。頭の中で誰かの声がする。昨日のが勘違いだったとしても、あれでやめとけばよかったんだ。そうすれば、嘘はほんとうにだってなったのに。
慧は口を尖らせた。けれど反論する言葉は浮かんでこなかった。
じりじりと時間が流れる。とてつもなく長いように感じられた。待つことに耐えきれなくなって、慧がもうあきらめようかと考えた時だった。
素知らぬ顔をしていた家々の窓の明かりのひとつが慧にウインクした。窓からの光は点いて、消えて、長く点いて、消えた。すぐさま短く点いて、消え、点いて、消えた。慧の合図と同じだった。
ほんとうだった。慧はその場で小躍りした。ほんとうはほんとうだったんだ。
「おやすみなさい、誰かさん」
慧は心を込めて云い、明かりの消えたあたりをじっと見つめた。明滅を終えた窓はすぐに夜に紛れて判らなくなった。それでも特別な場所を目に焼きつけようとするように、慧は長い間窓の桟にもたれて見続けた。遠く離れた部屋でそのヒトが、電灯から垂れ下がる長い紐から手を離し、寝支度を整えて布団にもぐり込むところまでを想像してから、慧は自分もベッドに向かった。
会いにいこう、と思ったのはそれから四日後のことだった。
毎夜慧はそのヒトと会話を交わし、満ち足りた気分で眠りにつくことができた。会うことなど考えていなかった筈なのに、ふっと、無性に会いたくなってしまったのである。一度高まった気持ちはなかなか鎮まらなかった。
もし会えたなら、何から話そうか。
夜のしじまを縫うひそやかな会話ではなく、直接会って思う存分しゃべるのだ。きっとそのヒトは僕のことを理解してくれるだろう。丸い光の中に僕たち二人、誰にも邪魔されることなく時を過ごす。
僕は多くは望まない。多くを知りたいとも思わない。知れば知るほど確実に嫌いになれるこの世界で、僕たちは僕たちだけの言葉で語り合う。他に何もいらないから、これだけはどうか。
慧は心から願った。神さまに祈るべきかどうか考えて、やっぱりやめた。自分の住むこの世界が神さまのつくったものならば、慧にとっていらないモノばかりを与えるのもまた神さまの仕業のように思えたからだ。
何をどれだけ知れば、みんな満足なんだろう。
詩音さんもリサさんも、「知ること」はよいことだと口を揃えて云う。のちのち困ることになるから、とも。確かに多くを望むなら、それは必要なことなのかもしれない。詩音さんもリサさんもたくさんのことを知っていて、たくさんのモノを手にしている。でもいつ終わる? 満足する時はくるの? 慧には判らない。彼には両親や友だちや大人たち、周囲のみんながどんどん肥大化していくように感じられる。
おまけにみんな、あらゆることを知りながら、都合が悪くなると知らないふりをするんだ。知らないふりをするために、多くのことを知らなければいけないのなら、僕は断固拒否する。
僕はもうじゅうぶんなのだ。
ほんとうの友だちに会いにいかなくちゃ。
慧は歩く。夜は好きだ。だからこうしてひとりで歩いていても全然平気だった。誰も知ることを強要しないし、モノたちもおとなしく黙って見過ごしてくれる。仲間を見つけたいのなら、こんな夜でないと駄目だ。
新しい四つ辻にさしかかると慧は立ち止まり、再び懐中電灯のスイッチを入れる。頭上の窓たちはだんまりを決め込んでいる。慧は自分を奮い起こして次の角を目指す。
もうずいぶん歩いたけれど、その家は見つからない。永遠に見つからないのではないか、慧の胸に不安がよぎる。でもどうにか自分を励ましながら足を進める。ほらがんばってこの角を、曲がったところかもしれないじゃないか。
そういうことを何度もくり返し、疲れ果てた慧は十字路で立ち止まる。腕を上げる気力も萎えたように肩を落とし、ぽかんとした表情で夜空を見上げている。
「世界なんて」
しりとりだ。リサ→サトシ→シオン。ママとパパに挟まれて、おまけに最後は「ン」ときたか。
慧は吐き捨てるように云う。
「世界なんて……とうに終わってる」
コンビニが見えた。
慧は入ろうかどうしようかと迷っている。二十四時間営業の明るい店内に入ることを慧はためらう。新しいモノの溢れるあそこは僕の居場所じゃない。けれども下腹部の生理現象が慧に決断を促している。入るべきか、入らざるべきか。
小刻みに足踏みしながら、慧は「あれ?」と呟いた。
コンビニの煌々とした明かりに照らされた周囲の風景にどこなく見覚えがあるような気がしたからだ。慧を悩ましている眼前のコンビニも、そういえば前に来たことあるような。
慧は何事か思いつくと、はや足で歩きはじめた。事態は逼迫している。悩んでいる暇はない。一刻を争う状況で、なぜか慧の足はコンビニから遠のいていく。
目指したのは、古いモノに囲まれたなつかしい家だった。
よく見知った、だけど久しぶりに訪れるその家にたどり着いた慧はほっと息をついた。
呼び鈴を鳴らす。
一度、間を置いて二度。鳴らしても玄関の明かりが点く気配はいっこうになく、焦って慧は呼び鈴を続けざまに押した。やっと明かりと、それからすりガラス越しに人影がゆらゆらと現れて、玄関のチェーンを外す音が聞こえてきた。
「唄子おばさんっ」
ドアが開くのももどかしく、慧は切迫した声で影の主の名を呼んだ。主は古羊さんだった。錆びた蝶番のきしむ音でよく聞きとれなかったのか、古羊さんは顔を出すと同時に訊ねた。
「どなた?」
寝入りばなを起こされたような顔をした古羊さんは、玄関先の慧の顔を認めても、まだぼうっと立っていた。
「僕だよ、慧だよ」
「ああ……慧」
小さく頷いて、古羊さんはやっと目の前の男の子が慧だと気づいたようだった。少しだけ云い訳めいた口調で続ける。
「判らなかったわ。眼鏡をかけてなかったものだから」
眼鏡を探すふりをする古羊さんに慧は早口で頼んだ。
「唄子おばさん、トイレ貸して」
返事も聞かずに横をすり抜けて、一目散にトイレへと向かう。
急いで用を足しながら、少しずつ落ち着きを取り戻した頭で慧は考える。レンズなんてもとからない癖に。かわいい甥っ子の顔を忘れるなんてどうかしてるよ。
手を洗い、トイレから出ると玄関に古羊さんの姿はなく、台所から明かりがもれている。短い廊下を歩きながら慧は、こんな夜中に伯母の家を突然訪ねた理由を何か考えなければ、と思っていた。
(第5章 上編 了)
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