今号で相馬悠々さんの「鳥の眼・虫の眼」が最終回になった。毎号文學界の最終ページを飾り実質的な編集後記になっていた連載だった。相馬さんの文章はどうしても好きになれなかったがお疲れ様でした。貶しておいてなんだが終わってみて初めてわかることもある。作家がどこかで自分は特権的知性と感受性の持ち主だと思っていなければ書けないような弛緩した私小説を、何の疑いもなく素晴らしい純文学だと言い切れたのは相馬さんで最後かもしれない。相馬さんのように一昔前の文学事大主義――文学は最も優れた知的表現で世界の中心は文学だという考え方――を支持する人も多かったはずで、期せずして何かを代表していたわけだ。
ただ文学事大主義というか、二十世紀半ば過ぎまでの煌びやかで力のあった文学をなぞるような姿勢は今も絶えることがない。相馬さんのような批評家ではなく多くの作家たちがそうなのだ。今の文学の基礎ができあがったのは明治四十年代の漱石の時代でたかだか百年ちょっとである。その間に文学は浪漫派、自然主義、プロレタリア、耽美派新感覚派、戦後文学など様々に変遷してきた。単なる流行ではなく社会全体の巨大なうねりが生み出した文学潮流だった。時代の変化を的確に捉え、それを作家の個性とないまぜにして表現した作品が秀作・名作と呼ばれてきたのである。
しかし作家たちは現代社会を捉え切れていない。学者を含めて誰も現代社会の本質と未来を見通せていないとは言えるが、そんな〝現代的不安〟を表現した文学作品すら少ない。むしろ一昔前の文学に縋るような姿勢が目立つ。過去の文学をなぞり、いまだ昔ながらの文学システムが機能していると信じたい作家が大勢いるということだ。既存のレールに乗っかってなんとか逃げ切れそうな作家が目に入っている間はそれが手近な目標になるのだろう。戦後のある世代が〝逃げ切り世代〟と呼ばれているのと同じである。
だが終身雇用が一九八〇年代頃迄の戦後システムだったのと同様に、戦後の文壇出世システムも霧散する可能性が高い。少なくともほとんどの文学者は稿料で飯が食えて印税で年金までもらえたシステムとは無縁になる。文学の理念も経済システムも変わらざるを得ない時期にさしかかっている。
有智子は答えた。「妹は何も得ずに帰るはずはありません。」「妹さんが作曲をされるということは聞いていますが、あなたはどうですか――音楽に携わっておられるのですか?」「わたしは日本において翻訳の仕事をしています。」と有智子は言った。カインツは無精髭の生えた顎を撫でた。「それはわたしには無縁な職ですね。言葉によって他者の在り方を規定してはならない、とわたしは思うのですが。あなたはどう思われますか? 他者について描写する行為は、傲りがなくては不可能です。しかも、世の中には言葉が多すぎて、適切な言葉を選択することは日増しに困難を極めている。不要な言葉を次々に捨ててゆく必要があります。他者の在り方を尊重するためにも。ただ、このような考えは、あなたにとってはいかがなものでしょうか。もしかすると、言語的ナチズムと名づけて良い種のものだと思っていらっしゃるのではないですか。」「確かに、ムダな言葉は省いてゆくべきです。」と有智子は皮肉を込めて答え、ツィアファンドラーを口に含んだ。
(高尾長良「音に聞く」)
高尾長良さんの「音に聞く」は姉妹がウイーンに父親を訪ねる話しである。父は喜多先生と呼ばれており、私立音楽院の教授を退職した後もウイーンに住み続けている。数々の音楽理論書もあるウイーン音楽界の重鎮だ。姉妹の父母は妹が生まれた年に離婚して、父はすぐにウイーンに旅立ったので十五年ぶりの再会である。姉妹は父からの送金で暮らしていたが去年母親が亡くなった。
ただ父を訪ねるのはこの世に残された三人きりの家族再会のためではない。母は姉妹に音楽教育を授けなかったが妹は幼い頃から作曲に熱中した。十六歳になろうとしているが日本で音楽賞を受賞した早熟である。ウイーン訪問は優れた音楽理論家で指導者でもある父に妹を委ね、その才能を伸ばしてやるためである。
姉で物語の主人公の有智子は日本で翻訳の仕事をしている。〝智ヲ有スル子〟という名前の通り言語能力に長けた女性という設定である。早熟の作曲家である妹の名前は真名。東洋の神秘的力の源泉であるmanaであり、音楽によって言語的知性あるいは世界分節を超える力を持つ存在の名前が付けられている。芸術の〝真の名〟は音楽だということでもある。それは有智子と父の教え子で学生のカインツとの会話でも示唆される。
音楽大学の学生であるカインツは言葉に対して否定的だ。「言葉によって他者の在り方を規定してはならない」「他者について描写する行為は、傲りがなくては不可能です」と有智子に言う。「お二人はWort oder Ton(言葉か音か)を体現する姉妹でいらっしゃるようですが」と姉妹を規定したりもする。
それに対する有智子の反応は曖昧である。なぜなら彼女は翻訳家であり作家ではないからだ。有智子は言葉を使った媒介者であり何より真名の将来を気遣っている。有智子は言葉で真名に奉仕する者であり、音楽に言語を超える力があるならそれを見極めたいと思っている。それが彼女を言葉の媒介者から作家=創造者に導くきっかけになるのかもしれない。
いずれにせよ冒頭でこの作品のテーマははっきり示されている。有智子が主人公だが物語の核は言語能力をほぼ欠落させた妹の真名である。真名が体現する音楽の力、その神秘を解き明かすことが一応のテーマということになる。しかし音楽の力を言葉で表現し尽くすことはできない。有智子というインタープリターが必要になる。
いつしか、窓から闇が忍んで来ていた。有智子がマネッセ写本の頁へと目を戻したとき、言葉は精神の空隙を埋める手段に過ぎない、という着想が頭をもたげた。(中略)次第に明瞭に意識に上ってきたのは、言葉を細かく縒り合わせてゆき、広大な布地として自分の周囲の地表を覆い尽くす、というイメージだった。(中略)だが、それは日本語のみで織りなされたものなのだろうか?(中略)姉妹の母は、母語によって生を享けたわけではなく、母語は母という存在に死を言い渡したわけでもない。母が沈んでいった、無数の概念を含む世界は、単一の心地良い言葉の海からはかけ離れた世界であるに違いない。その語り得ない世界への志向は未知の言葉への憧憬として現れ、この憧憬においてこそ、人は単一の言葉の呪縛から逃れ、溢れ出る感覚そのものの地平に降り立つのではないか。――記憶から覚めると、有智子は今しがたペンで書き記した言葉を反芻し、吟味した。その試みには、流れ落ちる水流をとっさに掌で受け止め、指の間からこぼれ落ちてゆく水を必死に摑もうとする動作に似たものがあった。(中略)有智子は不安に駆られ、妹の名を呼んだ。真名は顔をあげなかった。それは、その名前は偶然彼女に付与されたものに過ぎないと、身体で示しているかのようだった。
(同)
有智子の思念に現れる、この世のあらゆる言語を生み出し、その基底的な核としてある絶対言語のようなものへの欲求はそれほど珍しいものではない。十九世紀サンボリストたちが繰り返し語った夢想であり、サンボリズム以前のロマン派の志向も突き詰めれば同じような思念に行き着く。
しかしそれは「未知の言葉への憧憬」というレベルに留まる。表現しようとすれば「流れ落ちる水流をとっさに掌で受け止め、指の間からこぼれ落ちてゆく水を必死に摑もうとする動作に似た」ようなものになるのだ。寡作だったマラルメを思い出せばじゅうぶんだろう。
にもかかわらずそれを言葉で表現しようとすれば一瞬の〝天啓〟にならざるを得ない。言語的な永続性はないわけだ。音楽はその最も端的な媒介であり、デュラスの『愛人/ラマン』でフランスに帰国する少女が船上で聞いたショパンの曲が典型的である。高尾さんの「音に聞く」も基本的にはこのラインをたどる。
――そこには烈風のようにもつれあう二本のヴィオラの陰影に富んだ音の世界が展がっていた。(中略)最終頁の余白には稚拙な字が記されていた。「音は単独であるとき、何と無力か、そして言葉が音と結びつくということがどれほどかけがえなく貴いか。なぜわたしたちはWort oder Ton(言葉か音か)という二項対立にとらわれるのか。」単語の周囲にはインクが擦れて書き直した痕があった。
有智子は繰り返しその二節、そして二本のヴィオラの絡み合う旋律を目で追った。(中略)「この曲は、有智子と一緒に作っているの。」真名が呟いた。更に強く真名を抱擁しながら、有智子は今という瞬間に打ち寄せる時の波に気づいた。それは姉妹の身体に記され、彼らを包み込もうとしていた。それは既に、音でもなく、言葉でもなかった。この無形の宝を表すに相応しいものなど存在しない、と有智子は考えた。それは、音と言葉の奥底に潜り込み、言葉で表される以前の状態に至ることを意味しているのだから。――彼女は自身の内部へ目を遣った。そしてそこに、現実よりも遙かに大きく美しい虚構――言葉の楼閣――を見出した。
(同)
「音に聞く」はそれなりに複雑なプロットであり、姉妹の父の喜多のウイーンでのスキャンダル、盛りを過ぎたオペラ歌手と有智子との交流などが物語を彩っている。しかしこの作品のテーマは姉妹が互いを認め合い理解し合うことで示される。真名は素晴らしい曲を書き、その最後に「なぜわたしたちはWort oder Ton(言葉か音か)という二項対立にとらわれるのか」と書いていた。小説冒頭の方で音楽大学生のカインツが言った言葉である。作品は振り出しに戻ったということだ。
有智子は真名の将来を父の喜多に委ねるためにウイーンに来たが、真名の書いた曲を父親に残して姉妹は日本に帰国することになる。有智子は「妹は何も得ずに帰るはずはありません」と言ったが、それはウイーン音楽界での真名の出世を意味しない。姉妹は二人だけの世界に閉じることを指す。それは「無形の宝」かもしれないが「姉妹の身体に記され」ているだけの出口のない世界である。そこで流れているのは決して言葉で説明できない音楽であり、あえて言葉で表現すれば「現実よりも遙かに大きく美しい虚構――言葉の楼閣」ということになる。この美しくも脆い幻想に囚われている限り現実の音楽活動も文筆活動も不可能だ。それは夢想の域を出ない。
こういった観念小説はヨーロッパ人の独壇場だと言っていい。なぜなら音楽に表象される人間精神と思考の極点は、神あるいは神的存在(レベル)に結びついているからである。アンチを含むキリスト教が生み出した観念文学である。では「音に聞く」という小説がいわば本場のヨーロッパ観念小説の域に達しているかと言えば、そうは言えない。垂直軸、つまり天上に小説世界が上がってゆかないのである。
「音に聞く」という小説は明らかな翻訳文体で書かれている。ただ普通の翻訳文体ではない。イェリネクのめんどくさい小説の翻訳でも「音に聞く」よりは遙かに読みやすい。なぜ「音に聞く」の文体が恐ろしく読みにくいのかと言えば、日本人の作家がヨーロッパ的小説主題をなんとか表現しようとしたからである。もっと言えば作品主題の弱さを翻訳文体で糊塗しているところがある。作家が本当に絶対言語あるいは極点を志向する観念を把握しているならもっと読みやすい文体になったはずだ。
大篠夏彦
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