旅人へ告ぐたんすにスルメの頭(かしら)
金魚屋は僕には生きた辞書のような場所で、さまざまなジャンルの作家さんたちと交流できる。こんなことは学生時代以来だけど、さすがに皆さんお年を召しておられる(失礼!)ので、考えが整理されていて実に気持ちがいい。僕はふだん美術にかかわっているが、それが幸いして、『安井浩司「俳句と書」展』公式図録兼書籍に短いエッセイを書かせていただいた。この本にエッセイや評論を寄せているのは僕を除いてたった四人なのだから、身に余る光栄である。
安井浩司さんの全句集と主な評論集は、エッセイを書くときに読ませてもらったが、実に骨格のしっかりとした俳人さんだと思う。しかし一筋縄ではいかない俳人さんでもある。僕は図録で氏の代表句の一つ、『有耶無耶の関ふりむけば汝と我』を題材にエッセイを書いたが、これ以外にも難解とも不可解とも、なんとも表現しようのない作品はたくさんある。『旅人へ告ぐたんすにスルメの頭(かしら)』など、難解と不可解を兼ね備えた俳句である。
この俳句の墨書は今回の『安井浩司「俳句と書」展』にも出品されている。全句集には『スルメの頭』に『かしら』とルビが振ってあるが、墨書でもきっちり平仮名のルビが振られている。テキストどおりとはいえ、墨書で漢字にルビを振っている作品は初めて見た。安井さんはやはり横紙破りな作家である。墨書を見ればわかるが、安井さんの字は正統な書道を学んだ人のものである。よほど書に自信がなければ墨書で漢字にルビなど振れない。ルビがあっても書になんの違和感もないのはかなりの驚きである。バランスがいいのである。
この句は公式図録兼書籍の『墨書句解題』で田沼泰彦さんが、「結納品のスルメだろうか、タンスの中に頭ひとつ仕舞われている」と読解されている。確かにそうなのだろうが、田沼さんも書いておられるように、意味はわかっても、なんともいえないモヤモヤ感が残る。なぜ『旅人へ告ぐ』なのか、なぜ『箪笥』ではなく『たんす』と表記されているのか、『鯣』ではなくどうして『スルメ』なのか、またなんで『するめ』はカタカナ表記なのかなどと考え始めると、夜も眠れなくなりそうである。それに『頭』の読みは『かしら』である。すぐに『尾頭(おかしら)付き』が思い浮かぶように、おめでたい句なのだと思う。しかしなぜおめでたい句なのか、やっぱり完全にはわからない。
金魚屋の時評者にメールでお聞きしたところ、どうやら『旅人へ告ぐたんすにスルメの頭(かしら)』は安井さんのお気に入りの句のようだ。過去に何度も墨書にしておられるそうだ。安井さん自身が句を選ぶ時でも、必ず『入選』する句なのだという。どうして?と笑ってしまいそうになるが、考えてみれば自然な流れかもしれない。俳句に限らないが、作品は、作家がいいと思うものと読者がいいというものに自ずから違いがある。ただ『旅人へ告ぐ』が、単純に安井さんの自信作であるというわけでもなさそうである。
安井さんは作品の自己評釈を決してされない。公式図録兼書籍収録のロングインタビューでも、「安井浩司の俳句というものは、本当は完結しない不思議な魅力、読んでしまってから、いったいこれはなんだろうと、クエスチョンマークが付くような世界が理想なんです」と語っておられる。『旅人へ告ぐ』は安井さんにとって、そういう「クエスチョンマークが付くような世界」を表現した理想的俳句なのだろう。もっと言えば、同じ「クエスチョンマークが付くような世界」でも、『有耶無耶の関』のような『名句』のたたずまいがないからこそ、なんのてらいもなく好んで墨書にしたためておられるのではないかと思う。
それにしても不思議な俳句である。ただ意味を考えていると馬鹿馬鹿しくなってしまう。見つめていると、作品の方から「意味などないよ」と言われているような気がしてくる。なんともいえないユーモアをたたえた句でもあるのだ。こういう時は叫んだ方がいい。早口で、大声で、『旅人へ告ぐたんすにスルメの頭(かしら)っ!』と。安井さんのようにネイティブの秋田弁が使えればなおいい。秋田弁の「スルメ」の訛りはたいへん魅力的だ。言われた方はびっくりするだろう。「なんだそれ」と笑い出すだろう。なにか西脇順三郎さんの世界のようでもある。突飛なイメージの取り合わせと、平仮名、カタカナの表記も含めて、確かに愛すべき作品である。
墨書というのはたいていの人にとっては風景である。元々が部屋の飾り物なのだ。ただ面白い墨書とつまらない墨書はある。書の巧拙だけがそれを決めるわけではない。文字なのだから、意味によっても面白い、面白くないは決まる。『スルメ』は夏の季語だから、この軸は夏に飾るのがふさわしいのだろう。またやさしい漢字ばかりだから、小学校高学年生くらいになれば、簡単に読むことができるはずである。
「パパ、なにこれ。わけわかんないんだけど」
「ずーっと見てたら、いつかわかるよ」
「パパはわかってんの? じゃ、いま教えて」
「うーん、教えてあげたいんだけど、うまく説明できないんだ。とにかく眺めてたらわかるよ」
「なにそれ。その説明こそ、意味わかんないよ」
そうやって子供をからかうのも楽しいかもしれない。絵もそうだが、特に墨書の素晴らしさを本当にわかっている人は世の中に一握りしかいない。たいていの人は、美術館におさめられた作品をありがたそうに拝観している。しかし美術業界の人間は、美術館に入っている作品の全部がホンモノではないことを知っている。贋作もあれば、どうしてこんなものをと思うような駄作もある。ホンモノを見る目を美術館だけで養うのは難しい。
だからこそ風景としての書は必要なのである。漫然とであれ、ずーっと見続ける必要がある。意味がわかればすべて理解できたと考えるのは、現代人の傲慢にすぎない。大人にからかわれた子供が百人いるとすれば、いつかきっとその中の二、三人が、ある日美術館の墨書の前で足を止め、「ああ、そういうことか」とつぶやくだろう。
山本俊則
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■