『古伊万里蛸唐草文蓋付茶碗五客』
本体:口径十一・四×高さ六・二×高台径四・七センチ 蓋:口径九・六×高さ二・四高台径三・七センチ 江戸天保時代 著者蔵
前にどこかで書いたことがあるが、僕は家人が図書館で借りてきて、トイレに置きっぱなしにしていた『お茶人の友』という本を漫然と見ていて骨董に目覚めた。『お茶人の友』は井戸茶碗から江戸の野々村仁清や尾形乾山などの名品茶碗までを、簡単な解説付きで紹介した図録だった。トイレは当然だが大と小があって、英語圏では大小という言い方は基本的にしないが、インドのホテルのレストランでバスルームに行きたいと言うと、真顔で “Big or Small ?” と聞かれたりする。インドではたいていトイレの水圧が弱いので、Bigなら高水圧仕様の個室へどうぞ、ということらしい。ちなみに現地の人は腰のあたりから柄杓で水を掛けるマニュアル式ウオッシュレットだが、やってみても背骨に沿って正確にお尻に水を流すのは難しい。数日滞在したくらいではマスターできませんな。
それはともかく大はけっこう時間がかかる。ヒマだ。毎日うんうん唸りながら『お茶人の友』を眺めているうちに、ハッと気がついたのだった。なにに気がついたのかと言うと、「骨董はある時代の精神が物の形になって残った」、という当たり前と言えば当たり前のことである。江戸時代の人がチョンマゲに着物と下駄履きだったのは当然だが、そんなわかりやすい特徴ではなく、お茶碗のように小さな物でも時代固有の精神がはっきり色や形として物に刻み込まれることがある。これは僕にとっては大発見だった。
日本は長い歴史を持つ国だから、子供の頃から古美術や古典芸能に接する機会が多い。中学生の頃には学校でお能と狂言を見させられたし、修学旅行は京都奈良で引率の先生にイヤになるほど寺社仏閣を見学させられた。中高生に仏像の有難みがわかるはずもなく、観光バスの中でうたた寝をして起きると「ここは京都ですか奈良ですかー」と叫び出しそうになったが、もうそんな退屈に煩わされることはないのだ。
たいていの古美術は古色蒼然としていて、なんでこんな古ぼけた小汚いモノを有り難がるんだと思ってしまう。しかし古美術は「各時代独自の精神が物の形で残ったもの」と腹の底から腑に落ちるとガラリと事情が違ってくる。なぞなぞを解くように、物に即して時代精神を読み解いてゆけばいい。これはもちろんお能狂言などの古典芸能にも応用できる。古美術は退屈な過去の遺物ではなく、膨大な知的探求の素材に化けるのだ。
ただ頭で古美術の見方がわかっただけでは済まないのが骨董の大変なところである。いくら僕がぼんやり者でも世の中には骨董好きがいて、骨董は買えるものだということは知っていた。しかし値段を教えてくれる人がいなかった。聞く相手もいない。まったく根拠はなかったのだが、『お茶人の友』に掲載されているような茶碗が数万円で買えるなら、これは実に面白いお遊びじゃないかと思ってしまったのだった。でも骨董屋に行ったことがない。いきなり行く勇気もない。そこでネットで開催日を調べてまずは東京晴海の骨董市に出かけてみた。
晴海の骨董市は巨大な体育館のような場所に、全国から百店以上の骨董商が出品している。大きなブースも小さなブースもあり、それぞれのお店がたくさんの品物を並べている。この広大な骨董市会場で、僕は呆然と立ちつくしてしまった。当然だが『お茶人の友』に掲載されているような名品は一つもなかった。それは仕方がないとして、何を見てもわからない。いつ、どこで、なんの目的で作られた物なのかまったくわからないのだ。買う気満々で財布に数万円入れて行ったのだが、何も買わないでとぼとぼ帰って来た。僕は物が作られた場所、時代、用途がわからなければ骨董は買うことすらできないと思い知った。骨董は感性で選ぶファッションとは違う。
これはちゃんと勉強しないとダメだと思い、それからしばらく骨董の本ばかり買って穴があくほど眺めた。探してみると骨董の入門書は意外なほど数多く出版されていた。物と値段とそれを扱う骨董屋を紹介しているムック本もあった。僕の夢はあっさり砕けましたな。『お茶人の友』に掲載されているような茶碗は数千万から億の値段で取引されていた。ちょっといいなと思うような物は数十万するのが普通だった。骨董など買えないのではないかとチラッと思ったが、まったく骨董屋巡りをしないでそんなことを言ってもしょうがない。少し前の出版だったが別冊太陽が「日本の骨董屋」というムックシリーズを出していたのでそれを古本屋で買い揃え、関東・東京編の二冊を手にローラー作戦で骨董屋を回り始めた。
世の中経験してみなければわからないことはたくさんある。骨董屋でも敷居の高そうな店は概して親切だった。最初に「僕にはとても買えないですよ」と言っても、「まあ見ていってください」と高価な骨董を次々に見せてくれるお店もあった。楽しかったのはある骨董屋で駆け出しの陶芸家と間違われた時で、「中国陶はわからない」と言うと唐時代から清朝までの陶磁器を次々に出してくれて、一時間以上も熱心に作り方や真贋の見分け方の特徴を説明してくれた。当たり前だが骨董屋は骨董好きで、興が乗ると話が止まらない。
もちろんイヤな思いをすることもある。ある骨董屋で「これはいくらですか?」となんの気なしに尋ねると、「物が何かわかんないで値段聞いてどうすんの」と初老の店主が言った。物が何かはわかっていたが、こんな時はなにを言っても無駄である。要するにお前は買い物しそうにないから店から出て行ってくれと言われたわけで、それはまあ、まったくその通り。骨董屋は店主の個性が色濃く反映された空間だからそういうこともある。
夏の終わりだった。その日は電車を乗り継いで都心の骨董屋を回った。買える物は何一つなく夕方になっていた。最後に「東京の骨董屋さん」に載っていた、あるエリアでまだ行っていなかった店を覗いたが、磨き上げられた広い棚に高そうな骨董が二、三点並んでいるだけで、僕の感性とも財力とも無縁のお店だということがすぐにわかった。
その店を出てふと路地を見ると骨董屋の電飾看板が光っていた。リサイクルショップのようにお店の前にゴチャゴチャと品物を積み上げていた。若い店主で顔も体つきもそっくりの弟が店を手伝っていた。話をしてみると、店をオープンしてまだ一週間ほどなのだと言う。
僕はこの店で初めて骨董を買った。幕末伊万里の蛸唐草の蓋付き飯茶碗で、値段は一客五千円だった。ただほとんど一年くらいの間、骨董を買ってみたいと思いながらまったく何も買えなかった鬱屈が爆発して五客まとめて買った。日本の食器は五客でワンセットだという知識は溜め込んでいたのである。江戸の料亭から出た荷物で、十客が納まる木箱に入っていて天保の年号が書いてあった。僕は三十代も半ばになって一人っきりで骨董が好きになったので、初めて買った骨董を覚えているし、まだ持っているのである。
『古伊万里蛸唐草文蓋付茶碗五客』蓋と本体の外側
『同』内側
今さらの説明になるが、蛸唐草はタコの足のような連続定型模様のことで、元禄頃の古いタイプだと模様が太い。タコの足や吸盤の輪郭を細い線で描き、その中を薄いコバルトの青で埋めてゆく。時代が下ると足や吸盤を線と点で簡略化して描くようになる。コバルトは焼物でも浮世絵でも使うが幕末になるにつれ発色が良くなる。なんの変哲もない蛸唐草の古伊万里だが、初めて買った骨董だから嬉しかった。買って帰ってほとんど一日中眺めていた。
江戸の工芸品は手が込んでいる。蛸唐草文蓋付茶碗でも器の全面に唐草文を入れ、口辺には細かな蓮弁や菱形の連続文が描かれている。人件費が高い現代なら、これだけ手をかけると一客数万円で売らなければ採算がとれないだろう。もちろんそれなりに量産された製品だから職人の作業は手早く少し雑でもある。蓋の門型の蓮弁文は描いているうちにスペースが足りなくなり、真ん中の棒が抜けている箇所が一つある。ただ並べて見ると五客揃いの伊万里はとても美しい。そう感じるのは僕がモダニスト的な心性を持っているせいだろう。なお「太明年製」の文字は、この製品は中国は明時代の磁器ですよという意味で、杓子定規に言うと日本の伊万里は中国磁器の倣製品である。日本の窯業は常に中国をお手本にしていた。
初めて買った記念の骨董とはいえ、蛸唐草文蓋付茶碗はすごく珍しいわけでも貴重な骨董でもない。もうだいぶ前からやろうやろうと思って手を付けていなかった押し入れの整理を始めたら発掘品のように出てきた。まあゴチャゴチャといろんな骨董を買いこんでいたわけである。ただ僕くらいの年になるとお片付けは単なる不要品の整理ではなくなる。
近年はお片付けを断捨離と呼ぶことがある。仏教的漢語の「断行」「捨行」「離行」の頭文字を組み合わせた言葉らしい。僕はまだ人生の店じまいを始めるつもりはなく、それどころか煩悩全開で仕事したいと思っているが、人生の折り返し地点に来たのは確かなようだ。原点を確認しつつ、先に進まなければならない年齢に差しかかったということである。
少年や六十年後の春の如し 永田耕衣
永田耕衣は根源俳句を提唱したことで知られる。俳句を根源において捉えれば、厳格に見える俳句の表現は、形式・内容ともに自在になるという思想である。それゆえ耕衣は前衛俳人であり伝統俳人でもあった。「少年や六十年後の春の如し」は耕衣七十歳を超えてからの作だが、「還暦を過ぎると男の子は少年に戻ってゆく」といったくらいの意味である。一昔前の定年は六十歳だった。仕事や子育てを問わず、我慢に我慢を重ね、無理に無理を重ねた社会性を脱ぎ捨てると、人は少年少女の頃のような生の性格に戻ってゆくことがあるということだ。ただもちろんそれだけではない。
夢みて老いて色塗れば野菊である 永田耕衣
こういう句を読むと、耕衣は本当に偉大で恐ろしい俳人だと思う。この句は四/三/五/六の完全な破調。しかし飛びきり優れた俳句である。四弾で畳み込むようなリズムが句の意味を際立たせている。年を取り、ふと老いを感じる瞬間に「夢みて老いて色塗れば野菊である」という句を実感として受け取る人は多いだろう。特に文学や絵画など浮世離れした芸術に一所懸命になった人は身につまされるのではなかろうか。
多くの芸術家は人生の大半の時間をかけ、様々な事柄を犠牲にして夢を追っている。その夢は大きく煌びやかで偉大なものであるはずだ。そうでなければ夢の名に値しない。しかし気づいてみれば多大な労力を費やして築き上げた夢は砂上の楼閣のようだ。為し得たことは少なく為し得なかったことが相変わらず茫漠と拡がっている。淋しく孤独でささやかな野菊のように人間は、夢は立っている。「色塗れば野菊」、その通りと言いたくなる。
こういった耕衣の句に、ジンと来る年に僕はなったのだろうか。なったと思う。僕は一九六一年生まれだから還暦にはちょっとだけ早いが、「少年や六十年後の春の如し」を実感として感受できる。「夢みて老いて色塗れば野菊である」の思いはさらに強い。
僕は老いたのだろうか。老いたと思う。もう少し自分に優しい言い方をすれば、成熟した。自分にできることが手に取るようわかる。相変わらず夢を追っているが、もはや薔薇色の未来を夢見ているわけではない。望みは本当にささやかだ。しかしだからこそ、清新な精神で未知を追い求めなければならない時期に差しかかっている。
棚板(表裏)
縦九二・三×横三一・七×厚二.五センチ 江戸時代 嘉永七年・安政元年(一八五四年) 著者蔵
押し入れの中には比較的珍しくて大事にしなければならない骨董、初心者が買いそうな骨董、それにこれは僕の好みだが、謎めいた骨董がごた混ぜで詰め込まれていた。桐箱をあつらえて銘を付ける遊びはとっくの昔に飽きてしまったから、ほとんどが裸のままだった。いい機会だからそれらを一つずつあり合わせのボール箱に入れ、わかっている限りのメモを書きつけた。いわゆる骨董考証である。
伊万里や唐津などポピュラーな骨董なら必要ないが、世の中には産地や用途がわかりにくい骨董がいくらでもある。そういう骨董について僕が知っている限りの知識をメモ書きした。大半は売り払う予定だから、もしどこかの骨董屋で手にしたら、ボール箱は捨ててかまわないが新たな所有者は是非自分なりの考証を補完していただきたい。骨董遊びの一番の楽しみは物そのものの存在感を味わうことだが物の来歴考証も大事な作業である。特に日本で馴染みの薄い骨董は、複数の人が考証を重ねた方が情報は正確になる。もし僕の考えが間違っていたとしても、仮説は考えるための大きなヒントになる。
棚板は謎モノの骨董ではないが、初めて骨董を買った店で古伊万里の次くらいに入手した。こういう板は、信楽の大壺などを乗せて飾るための敷板として使われたりする。ただこんな大きな板を置いておく座敷はなく大壺も持っていないので、押し入れにしまいっぱなしにしていたのだった。五枚くらい同じ板があって、一枚だけ裏に「嘉永七歳甲寅七月日」という墨書があった。僕は墨書が書かれた板を買った。
この棚板を買った時、「俺は骨董に夢中になるだろうな」と思ったのをハッキリ覚えている。骨董好きの多くは焼物で興味が止まってしまう。しかし僕はそうではなかった。面白ければ、知性と感性の刺激になる骨董なら何でもよかった。嘉永七年(一八五四年)は安政元年だが、改元は十一月二十七日なのでこの棚板が作られた七月はまだ嘉永七年である。嘉永七年三月には幕府とペーリー総督の間で日米和親条約が結ばれ、下田と箱館の開港が決まって江戸の鎖国に幕が下ろされた。吉田松陰が下田で米艦に搭乗しようとして捕縛された月でもある。
僕はそんな幕末動乱の時期に、庶民が日常の仕事として棚板を作っていたことに驚いた。当たり前と言えば当たり前なのだが、歴史の教科書には書かれていない人々の生活があることに気づいた。古ぼけた棚板を一日中眺めていた。素の板だけでは淋しいと思ったのだろう、所有者が棚板の上に墨で描いた格子模様がとてつもなく不思議に思われた。百五十年以上の時にさらされて、板に付いた傷や虫食いが解けない謎のように迫ってきた。僕は理性で考えればなんの変哲もない一枚の板を深読みしていた。それは当時の僕にとって必要不可欠の作業だった。
『同』部分
年を取ると謎がなくなってゆく。学生時代から三十代、四十代くらいまではたくさんの謎があった。初めて触れたダダイズムやシュルレアリスム、戦後詩や現代詩は僕にとって大いなる謎だった。現代美術だって社会の様々な仕組みだって謎だった。しかし知が澱のように溜まってゆくにつれ、謎はどんどん失われてゆく。文学に関して言えば、僕は近過去の二〇世紀文学を完全に相対化できる知と感性の地平に出てしまった。そこにはもう、かつてのような煌びやかな謎はない。しかしだからこそ謎が必要だ。謎がなくなれば新たに謎を創り出さなければならない。しかもかつての二〇世紀の前衛芸術のように、未踏の表現領域を徒手空拳で追い求めるのではなく、既知の底をさらに下ってほとんど人間の無意識領域の中から新たな謎を、斬新な表現と芸術を生み出さなければならないと思う。
初めて骨董を買った店の店主とはその後も付き合いが続いている。もう二十年以上の付き合いだから、東京に出てきてから最も親しくなった人の一人だ。相性が抜群に良かったのである。小さな骨董屋はたいてい扱う品物が決まっている。伊万里専門とか唐津中心とか、顧客の好みに合わせて扱う品物が限定されてしまうのである。しかしこの骨董屋は何でも買ってくる。一番得意にしているのは土偶や勾玉、古鏡などの考古だが、焼物では志野織部が強い。僕はこの店でアイヌやニヴフ、ウィルタなどの北方少数民族の遺物を大量に見た。柏木貨一郎蒐集品も入手した。江戸硝子の優品や円空仏など、めったに手に取ることができない骨董も好きなだけ弄り回した。小品だが仁清の茶入も手にしたことがある。僕は多くのモノをこの骨董屋から買い、様々な骨董に関する知識を教えてもらった。ただし骨董屋が教えてくれたのは骨董に関する表側の知識だけではない。
僕は物書きであり、言語能力が発達した左脳人間だ。しかし骨董屋は右脳の人なのである。僕は彼が語る言語的な知識よりも、その感性に一番影響を受けたと思う。彼は「ツルヤマさん、いい匂いがする物を買ってきましたよ」と嬉しそうな顔で言う。何かわからなくても、そういう場合は十中八九、珍しくて面白い物なのである。骨董屋が漠然としか時代や産地を把握していない物を買ってきて、いっしょになって夢中になって見て調べて、何であるかをハッキリさせたことが何度もある。骨董を見る時、その真贋を見極める時、僕らを惑わせるのは言語である。しかし骨董屋は直観で見抜く。美術を扱う者に一番必要な力であり、僕に一番欠けている能力でもある。
この骨董屋がしばらく前から双極性障害で苦しんでいる。異変に気づいた僕が「君はどうやら躁鬱のようだよ」と言ったら、「ツルヤマさん、ソーウツってなんですか?」と聞き返したような人だから軽い気分障害ではない。当人の意志では制御できないやっかいな症状である。ただそれは彼の類い稀な鋭い感受性の代償かもしれない。僕は名品を追い求める骨董好きではない。この骨董屋を失えば、僕のほとんど唯一の趣味である骨董遊びは終わりになるだろう。骨董屋も僕も、それぞれに人生の曲がり角に差しかかっている。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
(2019/11/08 18枚)
■ 古伊万里の本 ■
■ 金魚屋の本 ■