不定期連載だが、宇田喜代子さんの「宇多喜代子の「今、会いたい人」」は掲載されれば必ず楽しく読んでいる。「文学は文学者が考えるほど文学的ではない」と言ったのは小林秀雄だが、文学は人間存在のあり方を多角的に見つめ、表現する芸術なのだから当然だ。文学だけ考えていたのでは人間存在は理解できない。個々の人間と人間が集まって自然にできあがった社会に関する知識は、遊んでいるうちに身につくことが多い。遊びは本当に好きでなければ続かない。また遊んでいる時の人は無防備である。自ずとその生地が見えたりする。スーツを着ている人間は、その全体像の半分くらいしか見えていない。
宇多さんは興味のおもむくままいろんなジャンルの専門家と対話しておられるが、今回は原点に還って芭蕉がテーマである。大阪伊丹にある柿衛文庫で芭蕉の手紙二十三通を展示する特別展が開催された。その手紙を元に近世文学専門の堀信夫さんと対談しておられる。
芭蕉は江戸元禄を代表する作家だが、堀さんによると井原西鶴の手紙は六通、近松門左衛門の手紙は九通くらいしか確認されていないのに、芭蕉の手紙は二五〇通くらいあり毎年なんらかの新発見があるらしい。芭蕉の手紙の残存数が多いのは「全国で指導を手紙で行っていた」(堀先生)からのようだ。それだけ門弟の数が多く、元禄時代には金銭的報酬を伴う指導システムが確立されていたということだ。芭蕉は旅の人だがどこに行っても歓待された。日本全国に弟子やパトロンがいた証左ですな。
雑誌には図版は掲載されていないが、柿衛文庫芭蕉展では有名な「風雅三等之文」が展示された。近江の菅沼曲水に送った手紙である。風雅、つまり俳諧を三つの等級に分けて論じているので芭蕉の俳句観がよくわかる手紙として有名だ。重要な箇所が対談でも引用されていたが、やはり何回読んでも示唆に富んでいる。
風雅の道筋、大かた世上三等に相見えそうろう。点取に昼夜を尽くし、勝負を争い、道を見ずして、走り廻るものあり。彼ら風雅のうろたえ者に似申しそうらえども、点者の妻子、腹をふくらかし、店主の金箱を賑わしそうらえば、ひがことせんには勝りたるべし。
またその身富貴にして、目に立つ慰みは世上をはばかり、人ごと言はんにはしかじと、日夜二巻三巻点取り、勝ちたるものも誇らず、負けたるものもしいて怒らず、(中略)こと終わって即点など興ずることども、ひとえに少年の読みがるたに等し。されども料理をととのへ、酒を飽くまでにして、貧なる者を助け、点者を肥えしむること、これまた道の建立の一筋なるべきか。
俳諧は庶民の気楽なお遊びとして普及したが、その大きな牽引力が「点取」だった。会合(いわゆる運座)を開いて俳句を詠み、句に点数をつけて優劣を競うのである。商品や賞金を賭けて行うことも多く、そうなるとさらに熱が入った。また俳句を採点する宗匠には謝礼が支払われた。幕末には点取俳句の大ブームが起こっている。芭蕉は点取俳句に入れあげる者たちは「風雅のうろたえ者」だと批判しているが、宗匠(点者)とその家族を潤し席を提供する者(店主)も儲かるのだから、それでいいじゃないかと書いている。
第二段では旦那衆のお遊びについて書いている。富貴の旦那衆で知的な人たちは、目立ったお遊びを嫌うので歌仙を巻いたりする。点数を付けるのは同じだが勝っても負けても泰然としている。子どもがやる読みがるた(桃山時代からある賭けカルタ)のようなものだ。しかし料理や酒を出して俳句宗匠を歓待するわけだから、これもまあいいじゃないかと突き放した。当時のいわゆる大結社を率いる宗匠だけあって、芭蕉は清濁併せ吞む人だった。ただもちろんそれだけで終わらないから芭蕉は俳聖なのである。
また、志を勤め情を慰め、あながち他の是非をとらず、これより実の道にも入るべき器なりなど、はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸を洗ひ、杜氏が方寸に入るやから、わづかに都鄙かぞへて十の指伏さず。
手紙の三段目が芭蕉が理想とする俳人の姿だが、それは「俳句への熱い情熱(志)を持ち、句作によって精神をなだめ、他人の批評に左右されずに本当の俳句の道(実の道)に入れる器を持っている人だ」と書いている。また俳句は藤原定家、西行、白楽天、杜甫と比肩し得るレベルのものでなければならない。都にもそんな俳人は十指に満たないが、手紙の受け取り人、菅沼曲水はそんな俳人の一人だと書いている。お世辞ではない。芭蕉が清濁併せ吞む人でも「うろたえ者」に心の内を明かしたりはしない。
俳句の歴史を繙けば、芭蕉以前にろくな俳句はないのだから、芭蕉が定家、西行、白楽天、杜甫らの詩を理想としたのは当然である。芭蕉は俳句を優れた短歌や漢詩に比肩し得るレベルにまで昇華させようとしていたわけだ。ただ芭蕉以降、俳人たちは基本的には芭蕉の教えを忠実になぞることになる。短歌は自然発生的で、そこから物語や歌謡、それに俳句が分化していったが、現代に至るまで俳句文学の絶対的な祖は芭蕉である。
宇多 今の句会でも、点にこだわる人が多いんです。誰に何点入った、私は入らなかったと大騒ぎになる(笑)。でも、みんながみんな、定家とか西行とか白楽天とか杜甫とかになっても面白くないと思いますね。
堀 そうですね。現在の俳人すべてが一等級の状態になってしまうと、堅苦しくなるか。俳諧は大衆の文学としてやっていることが大切だと思います。「俳人」をポエット(poet)と訳し、そういう人が日本にたくさんいるとヨーロッパの人に話すと、ギョッとされます。ヨーロッパの人が考えるような「詩人」ではないけれど、そうかといって単なる歌留多遊びをしているかというとそうではない。やはり現代の俳諧の普及は決して悪いことではないと思います。
そして、点取りに興じているうちに空しくなって、ワンランク上へ行くことは、現代の俳人でもありうるのではないでしょうか。
宇多 ありますね。二の場にありながら、志を三に持ってくるような方はいます。「風雅のうろたえもの」はちょっと困るけれども。
(第10回 宇多喜代子の「今、会いたい人」「芭蕉の手紙」宇多喜代子×堀信夫」)
形式は様々に変化したが、芭蕉元禄時代と現代の俳壇は構造的に相似である。毎年「俳句でもやろうか」と大量参入してくる初心者俳人がいるから俳壇は活気がある。複数の商業誌が出て、新聞などの投稿欄に入選するのを生きがいとする初心者が有名俳人の本を買ってくれるから俳句本がたくさん出版されている。見返りを生きがいとする点取俳句となんら変わらない。一直線に俳句は文学だと主張し、ストイックに俳句文学を探究する俳人でもその恩恵を受けている。
また結社主宰(俳句宗匠)の報酬で生活している俳人は少なくなったが、ささやかな金銭のやり取りが行われているのも元禄時代と変わらない。句集を出すのに主宰に序文を書いてもらえば現金か商品券を渡したりする。結社員からお祝い金をいただくこともある。悪いことではない。大結社の主宰以外、一匹狼でもそうとうに優秀で有名な俳人でなければ本は自費出版になる。頼母子講として結社が機能していれば本を出しやすい。
私はよく、こういうことを考える。読者のテンションが最高に上がっているときなら、ページの真ん中に小さく「蚊」と書かれているだけでも感動できるだろうと。これこそまさに最短詩である。でも、それはどこか不安だ。かなり珍しいテンションのときにしか通用しないからだ。(中略)「蚊」だけでなく、言葉にもう少し長さが必要なのだと感じるに違いない。では、どんな言葉を足したらいいのだろう。どんな言葉をそこに加えたら、「これでいい」ということになるのだろう。
この疑問が、私が俳句をする原点だ。私は、言葉にポエジーの生じる最短の現場に立ち会いたいと、いつも思っている。そして五七五は、その欲求をすっと受け入れてくれる。私が俳句をやめないでいるのは、五七五が、言葉の最小のはたらきを見せてくれるからだ。
(鴇田智哉 わたしの定型論「最短の場へ」)
鴇田智哉さんは、若い俳人の中で間違いなく最も才能ある作家である。その才能は突出している。エッセイを読んでも、彼が俳人というより詩人共通の知性と感性を持っていることがわかる。ただ少数の仲間はいるようだが結社を持っていないようだ。もしかすると俳壇では冷や飯食いになるかもしれない。それは仕方がない。作家が選んだ道である。
俳句が芭蕉元禄時代からちっとも変わっていないということは、俳句の原点はその気になれば誰でも会得できるということでもある。俳壇では師系と呼ばれるものがあって、たとえば師・虚子とか師・兜太とか略歴に書いたりする。じゃあ師系によって俳句に大きな違いが出るのかというと、そうでもない。大きな違いが出るのは結社末端の結社員だけであり、師に比肩し凌ぐような力を持った作家は違う。
子規でも虚子でも兜太でもいいのだが、優れた俳人は必ず一定の認識地平に到達する。誰がやっても同じだと言っていい。人間に好き好きがあるのは当然で、肌の合う合わないもあるわけだから師を選ぶことも起こる。しかし優れた師につけば俳句で到達する地点は皆同じである。もちろん単独者か結社主宰かで現世の賑わいが違ってくる。それを大きな差と見るか小さな差と見るかは当人次第である。
岡野隆
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