『生誕150年 横山大観』展
於・東京国立近代美術館
会期=2018/4/13~5/27
入館料=1500円(一般)
カタログ=2500円
横山大観大先生の生誕150年記念展覧会である。言うまでもなく大観は、明治維新以降の日本画の中で最も評価が高い――ということは最も売買価格が高い画家である。これまでも大小問わず、何度も回顧展が開かれている。今回は九十二点の出品で、目玉はなんといっても『生々流転』だ。ただ押しも押されぬ大家ではあるが、大観を理解するのはそんなに簡単ではない。
美術館の常設展で初めて大観を見た時、「はー、これが大観先生かぁ。いい絵をお描きになる」と思った。ただポツポツ作品を目にする機会が増えるにつれ、「ん?」という感じになってくる。ポイントを抑えれば一貫しているのだが、大観はものすごく幅広い画風の画家である。様々なタイプの絵を描く。中には「これが大観の作品かね」と首を傾げるような絵もある。一点だけ作品を取りあげれば竹内栖鳳や速水御舟、上村松園らの代表作の方が目に残るかもしれない。
にも関わらず、近現代日本画の歴史における大観のポジションは不変である。大観は御維新以降で最も偉大な日本画家なのだ。それはなぜか。一番納得できる答えを与えてくれたのは詩人の小熊秀雄だった。
世の中には芸術の値打を、そのままに理解できない人がいる。それを金銭に換えて初めてわかる人がいる。「良い絵がないか」と画家のところへやっていかないで「高価な絵がないか――」といってやって来る購買者がいる。(中略)資本主義の世の中では、価格の高いものほど優良なものということになっている。(中略)ただ芸術哲学などという精神的分野に於いてだけ、価格とそのものの質とが必ずしも同一ではない。(中略)
横山大観の赤誠礼賛はいいが美術ジャーナリズムが大観の芸術の正統な理解を同時にしなければ無意味であろうと思う。大観の何処が偉いのだろうという、大観再認識を行なう必要がある。(中略)大観の偉さというのは、筆者に言わせれば、彼が日本画の伝統と運命を共にしてゆくという態度の偉大さだと思う。そのことを彼のために理解してやらないのは可哀そうだ。政治的大観、画策的大観、主将的大観そういう印象を一般人にふかく印象づけられていて、作品的大観はこれらの通俗的なものに掩われている。(中略)
日本画と運命を共にしてゆくという作家は横山大観であるが、彼の場合はその伝統的諸形式に対する精神的圧力の加えかた、その形式の新しい手段への置換えなど、なみなみならぬ苦心が払われている点を見落すことができないだろう。
(小熊秀雄「時局と日本画―横山大観の場合―」(「早稲田大学新聞」昭和十五年[一九四〇年五月八日])
小熊が大観論を書いた昭和十五年(一九四〇年)当時、大観はすでに賛辞に包まれた大画家で、画壇のトップに君臨していた。賞賛は絶対的で、それが空虚に聞こえるほど大観評価は高かった。ちなみに小熊は大観論を書いた年の十一月に、赤貧の中、肺結核で亡くなった。小熊は一般的にはプロレタリア詩人ということになっているが、彼が書き残した詩や散文を読む限り正しい評価ではない。小熊の鋭い社会批判意識が当時の時局とぶつかってしまっただけのことだ。大観論にしても小熊の批評は同時代の誰よりもリベラルである。
わたしたちは「腑に落ちる」という言い方をすることがある。腑に落ちるとは頭でわかったということではない。肉体的に納得し理解できたということである。何かを、誰かを論じるときに、参考資料なしで行う人は少ない。小熊の時代でも大観論はたくさん書かれていた。現代はなおさらで膨大な大観論が積み上がっている。また現代の情報化社会では、過去の批評の優れた成果を簡単に入手できる。美術に限らないがその気になれば誰でもそれなりのことを言えてしまうのだ。ただそれらしい批評は頭の上を通り過ぎてゆくだけだ。腑に落ちなければ意味がない。
小熊は池袋モンパルナスの芸術家村に住み、多くの画家たちと親しかった。彼らに対する批評も書いているが手厳しい。しかし今読むと個々の画家たちの資質を正確に見抜き、その進むべき方向を示唆している。モンパルナスの画家たちは酒を飲んで大騒ぎする遊び仲間たちでもあったが、芸術的評価は峻別していた。単純だが大観には「日本画の伝統と運命を共にしてゆくという態度の偉大さ」があるという小熊の批評は腑に落ちる。大観の画風は変幻自在だがそこにあるのは強い使命感だ。大観作品の「精神的圧力」は高い。
『屈原』
絹本着色 額 縦一三二・七×横二八九・七センチ 明治三十一年(一八九八年)十月 厳島神社蔵
言わずと知れた大観初期の代表作である。大観は明治元年(一八六八年)に水戸藩士酒井捨彦と寿恵の長男として生まれた。御維新後に一家は東京に出るが、生涯水戸藩士の子であることを誇りとした。二十歳の時に母方の横山家を相続している。当初建築家を目指していたが画家を志すようになり、創設されたばかりの東京美術学校に入学した。第一期生であり、美校で大観の才能を見出したのが校長の岡倉天心だった。
ただよく知られているように明治三十一年(一八九八年)の美校騒動で、天心は美校の校長職を追われてしまう。維新後の欧化主義の嵐によって日本画は大きく変化を余儀なくされていたが、天心は日本画を含む日本美術の擁護者だった。天心を支えたのが帝国大学のお雇い外国人教師として来日していたフェノロサだった。ビゲローとともに、日本を除けば世界屈指のボストン美術館日本(東洋)美術コレクションを蒐集した人でもある。晩年に天心はボストン美術館のキューレーターとして数々の日本美術の名品を斡旋した。ボストンの日本美術コレクションの質の高さは天心という希代の目利きのおかげでもある。
天心は美校開校時に洋画科を創設しなかった。洋画を排したというより、時期尚早と考えていたようだ。ただそれが騒動の発端となった。日本人の新文化吸収のスピードは凄まじく、明治も三十年代になると、多くの画家たちが私費でヨーロッパ留学して技術と思想を身につけていた。彼らから、「なぜ洋画科がないのか」という不満の声があがったのは当然だった。ただ批判は天心の些細な学校運営にまで及ぶようになった。著作だけからはうかがい知れないが、平櫛田中の彫像を見ても、天心は相当に威圧的な人――少なくとも威圧的雰囲気を持った人――だったようである。天心は校長職を辞して日本美術院を興した。大観、下村観山、菱田春草らの画家たちが大観と行動をともにした。
ただ今も昔も変わらないが、いわゆる補助金なしで絵の団体を維持してゆくのは難しい。画業をビジネスとして考えてみればすぐわかる。多作の画家でも年間一〇〇点は厳しいだろう。二、三〇点がいいところかもしれない。そして右から左に作品が売れるのはほんの一部の画家だけだ。絵具代などもバカにならない。いくら天心という尊敬すべき指導者がいるとはいえ、少人数の画家たちが絵を描いて売って、その上絵画団体まで維持してゆくのは至難の業である。
果たして日本美術院絵画部は、明治三十九年(一九〇六年)に東京から茨城の五浦に移転することになった。美術院の都落ちと陰口を叩かれた。明治四十四年(一九一一年)の盟友菱田春草の死、そして大正二年(一三年)の天心死去の頃までが、大観が一番生活に苦しんだ時期である。五浦時代は絵が売れず、春草とともに釣りをして魚を獲って糊口を凌いでいた。私生活では二人の妻と長女を亡くしている。大正末以降の大観からは想像しにくいが、彼は意地を張り通し、生活を犠牲にしてまで画業に打ち込んだ人だった。
話を戻すと『屈原』は天心が美校を追われた年に描かれた。大観自身が天心の無念を屈原に重ねたと回顧している。屈原は言うまでもなく中国は楚の時代の政治家・詩人で、『離騒』の作者として名高い。讒言により国を追われて自死したと伝えられる。剣呑な顔つきの屈原に天心の心情を重ねたのは確かだろう。背景には瘴気のようなものが漂っているようにも見える。その意味で人間心理の理解に基づく観念的作品である。ただ大観は思想や観念を重視してそれにこだわり続けた画家ではなかった。
『ガンヂスの水』
絹本着色 額 縦四八・四×横七二・七センチ 明治三十九年(一九〇六年)四月 シーピー化成株式会社蔵
大観はインドやアメリカ、ヨーロッパに渡って絵を学び、現地で絵を描いて販売などもした。アメリカ絵画については学ぶべきものがないと回想しているが、ナイアガラの滝などの画題を得ている。『ガンヂスの水』は明治三十六年(一九〇三年)のインド旅行でのスケッチを元に、三年後の三十九年(〇六)に描かれた作品である。〝朦朧体〟と呼ばれる画法で描かれている。日本画では輪郭線で人や物の形をクッキリ描くのが基本だが、朦朧体はその名の通り、紙や絹の上に墨や絵具をぼやかすようにして広げてゆく手法である。
朦朧体は天心の「絵で空気や光を表す方法はないか」という言葉から始まった。もちろん当時すでに印象派が紹介され始めていて、光や空気感を直接的に表現する洋画を大観たちは目にしていた。ただ天心の要望は印象派を真似ることにはなく、あくまで日本画にその成果を取り入れるこにあった。天心という人は禅問答のような形で画家たちを指導することがあったが、それを真正面から受けとめ咀嚼できる画家たちを選んでもいた。朦朧体の画法で最も優れた成果をあげたのは春草である。彼は若死にしてしまったのでその後の変化は知りようがないが、大観は朦朧体に留まることなく新たな画風を追い求めていった。
『山路』
絹本着色 額 縦一五一・四×横六九・四センチ 明治四十四年(一九一一年)四月 永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)
『山茶花と栗鼠』
絹本金地彩色 屏風(二曲一双) 各縦一七〇・五×横一六四・六センチ 大正二年(一九一三年)四月 セゾン現代美術館蔵
『游刃有余地』
絹本彩色 軸(双幅) 各縦一八七・八×横八六・三センチ 大正三年(一九一四年)四月 東京国立博物館蔵
パッと見ればわかるように、『山路』の、特に手前の葉の描き方は洋画のタッチを取り入れている。『山茶花と栗鼠』右双の木の幹の描き方はたらし込みで、琳派の技法が使われている。旅行などで見聞した新たな画題はもちろん、大観は同時代の欧米美術や過去の日本画からも貪欲に学んで技法を吸収していった。『游刃有余地』は『荘子』「養生主篇」を絵画化したものである。中国は梁の王が牛を捌く丁の技を誉めたところ、丁は技ではなく道だと答えたという故事を踏まえている。
大観は大正三年(一九一四年)の天心一周忌に日本美術院を再興したが、『游刃有余地』は第一回再興院展に出品された作品である。「文展(明治四十年[一九〇七年]に始まった日本最初の官展である文部省美術展覧会で、当時最も権威ある絵画賞だった)を向こうにまわし、大いに抱負を示し、主張を高揚せん」とした作品だと回想している。財政難から日本美術院の活動は休止状態だったが、大観はあくまで天心の志を受け継ごうとした。『游刃有余地』の〝技〟ではなく〝道〟だという主題は大観の志を代弁している。いくら技巧が優れていても、道、すなわち人間として筋が通っていなければ作品は人々の腑に落ちないということである。
ただ初期の『屈原』のような意志的表現は『游刃有余地』にはない。絵が描かれた背景を知らなければ見事な歴史画(故事画)に見えるだろう。大観の人間心理の解釈方法が大きく変わったわけではない。大観は『屈原』のような内面的な絵も、『游刃有余地』のような高貴に独立した精神的絵画をも描ける画家なのだ。大観の画風は大きく変わってゆくが、体得した画法を手放さないところに大きな特徴がある。画題などに応じて様々な画法を使い分ける。
天心は最後まで下村観山を自らの最も優れた弟子と考えていた節がある。もちろん大観を冷遇したわけではない。ただ天心と大観の微かな距離は、大観が天心の意図を超えてゆくような力を持った画家だったことにあるだろう。観山の方が従順だったということだ。しかしやはり大観は天心の愛弟子である。「佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於て大自在を得」という『臨済録』の教えは、東洋の芸術家にはなじみ深いものである。
『生々流転』
絹本墨画 巻子 縦五五・三×横四〇七〇センチ 重要文化財 大正十二年(一九二三年)九月 東京国立博物館蔵
同部分
『生々流転』は大観代表作の一つである。なんと横四〇メートルもある。相当大きな図録でないと鑑賞は難しいが、冒頭は春の山で鹿が遊んでいるのが見える。それが夏、秋、冬と移り変わってゆく。墨一色で季節の移ろいを描いている。
画法もどんどん変わる。徐々に絵がぼんやりしてゆくのがわかるだろう。いわゆる朦朧体だ。ただそれは時間経過をも含んでいるからである。冒頭は朝であり、夏、秋、冬と季節が移ろうのに合わせて夕方から夜になってゆく。またそれは輪廻転生(『生々流転』)に代表される東洋思想の表現でもある。作品末尾で風景が闇に溶解し、渦巻き状の雲が現れる。龍かもしれないが、この荘子的な無=闇の世界からまた新たに春が、朝の光が差し込んでくるという意匠である。
『生々流転』は再興院展十周年記念展覧会に合わせて制作された。『屈原』や『游刃有余地』もそうだが、大観はこれはという時にきっちり代表作を描き残している。大観が大観たる所以である。特に院展再興後は大観が若手が師と仰ぎ見る画家で指導者だった。フラグシップとなる画家が意気軒昂ならそれに続こうとする者が増える。今村紫紅らを始めとして、大観の元から数々の画家たちが育った。
大観作品には「ん、これは前田青邨の歴史画か?」と思うような作品などもある。もちろん逆なのだ。大観が数々の日本画の技法を作り画題を開拓した。大観作品に現代日本画家のような強い自我意識が見えにくいのは、彼が日本画の画法・画題そのものの開拓者だからである。どんなジャンルでも最初に新しいことを始めた人は偉大だ。日本画では大観が初めての人である。
『群青富士』
絹本金地彩色 屏風(六曲一双) 各縦一七六×横三八四センチ 大正六年(一九一七年)頃 静岡県立美術館蔵
『夜桜』
紙本彩色 屏風(六曲一双) 各縦一七七・五×横三七六・八センチ 昭和四年(一九二九年)十一月 大倉集古館蔵
大観と言えば富士。図録などで絵を見るときは、その大きさも意識した方がよい。『群青富士』は並べると七メートル半を超える。縦は一七六センチと人の身長くらいある。そんな巨大な画面にスッキリと富士だけ描いている。特に左双は雲と山の緑だけだ。よほどの自信がなければこんな絵は画けない。『夜桜』も巨大な作品。丸く盛り上がるような夜桜が描かれている。昭和四年(一九二九年)に大観は六十一歳だが、闇から盛り上がるような桜は彼の旺盛な精神の表象でもある。
なお大観は夏目漱石や正岡子規、尾崎紅葉や幸田露伴より一歳年下だが、戦後の昭和三十三年(一九五八年)まで生きた。享年八十九歳。その間には第二次世界大戦があり、画壇の重鎮として大観も積極的に軍部に協力した。ただ画家の戦争責任については慎重に考えた方がいいと思う。特に日本の画家に対して、ヨーロッパの画家と同じ基準で戦争責任を問うのはどうかと思う。これについては稿を改めて論じたい。
鶴山裕司
(2018/03/30)
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