世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
十七、ささやかな夢
店を出てナオが足を向けたのは中野駅の方。一軒付き合ってほしい場所があるらしい。
「ささやかな夢を叶えに行くのよ」
「夢って?」
「本当にささやかだから、向こうに着いてから話すね」
平日の夕方前、駅まで続く呑み屋街に人通りは少ないが、もう開けている店には結構な数の人が入っている。パッと見、一番目立つのは年寄り。性別は男。大声で盛り上がっている姿は若い連中と変わらない。
一杯だけ呑んでかない? と誘ったが「着くまで我慢してよ」と断られた。なんだ、これから行くところは呑めるのか。夢を叶えるなんて言うから、てっきり神社やパワースポットの類かと思っていた。電車が走る高架をくぐって駅の反対側へ出る。もう結構歩いたはずだ。あそこの屋上さ、とナオが指差したのはマルイ。
「昔、子供向けのスペースがあったんだよね。ほら、コインゲームとか飴をすくい上げるゲームとかあるヤツ」
「ああ、俺も田舎で行ったことあるな」
小学生の頃に冴子と二人で行った広島で、爺さんや叔母さんに連れて行ってもらった覚えがある。俺は景品が出るようなゲームよりピンボールが好きだった。
「ああいうのって、今あんまりないんだって」
「まあ流行んないのかなあ。行きたいところってあそこ?」
「だから今はもうないんだってば。でもね、もしあったら行きたいなって感じかも」
狭い路地を通って高円寺方面へ数分、ナオのお目当ての店はあった。古民家とまではいかないが、それなりに年季の入った建物だ。住宅街に無理なく溶け込んでいて、看板がなければ見過ごしていただろう。
「喫茶店?」
「そう。昭和な感じでしょ。一目惚れしたんだよね」
店内に客は二組。ナオは奥のソファー席に座った。メニューの一番下にある「黒ビール(小)」を指でなぞる。
「私、これ」
どうやらアルコールはそれだけらしい。俺も同じ物を頼んだ。程なく小皿に乗ったピーナッツと共に運ばれて来る。もしかしてこれが、ささやかな夢なのだろうか。静かな店内に気を遣い、小声で乾杯をした後すぐに訊いてみた。
「これが夢?」
「うん、叶っちゃった」
「ごめん、どうして夢?」
ふふふ、と笑ってナオは話し始めた。話したくて仕方なかった、という想いを隠さないのが気持ちいい。
「これ、いつ彫ったと思う?」右手で左腕に触れる。「さて、何年前でしょう?」
当てずっぽうに四年前と答えたら正解だった。二十五、六歳で初めて彫るのは早いのか、遅いのか。それとも案外平均的なのだろうか。
鶏蜥蜴のことは友達の紹介で知った。大学の同級生で彼に彫ってもらった女の子がいて、そのイルカの刺青が印象に残っていたという。
「あのイルカ、本当に可愛くて、パクって入れちゃおうかと思ったくらい」
「別にパクらなくても本人にちゃんと言えばいいだろ?」
「ええー、絶対イヤでしょ? 私だって友達に青い蝶を彫られたら嫌だもん」
その青い蝶、ユリシーズは意外にも鶏蜥蜴の提案だった。ナオのアイデアだと思い込んでいた俺は思わず訊き返す。
「え? そうだったの?」
「うん。ノダさんにあのイルカが好きって伝えたら、こんなブルーもあるよって色々教えてもらって。その中にこれがいたのよ」
そんな打ち合わせを経て、実際に彫ったのは数日後の昼下がり。ちょうど今日みたいな日だったの、とビールを飲んでまたグラスに注ぐ。鶏蜥蜴からは「施術当日はちゃんと食事をしてから来て下さい」と念を押されていた。腹が減っていると痛みを感じやすくなるらしい。
「さすがに一階で蕎麦を食べてからってわけにはいかないじゃない? でもこの辺詳しくないからノダさんに訊いたのよ。どこかいい店ありませんかって」
その結果教えてくれたのがこの喫茶店。彼に勧められたとおり玉子サンドを食べてから彫ってもらった。超美味しいんだから、という言葉につられて注文する。ついでにね、と瓶ももう一本ずつ頼んだ。やはり小瓶一本では物足りない。
「ん? で、どうしてここに来るのが夢なんだ?」
「当日は出血しやすくなるからって、彫る前も彫った後も呑めなかったのよ。でもね、こんないい店だからいつかは絶対呑みたいな、って思ってて。で、ようやくそれが叶ったってわけ」
でもさ、と言いかけてやめたのは野暮な話になりそうだからだ。だけどナオはそんな一瞬の迷いに敏感だ。
「呑みに来るくらい出来ただろって思ってるんでしょ?」
「ん、まあ……ちょっとな……」
「だって一人で来てもしょうがないじゃん?」
やはり野暮というか照れ臭い話になった。タイミングよく運ばれてきた黒ビールで喉を潤す。ナオの視線を感じながら呑むから味がよく分からない。ただよく分からないなりに思い出していたのは、さっきの店での鶏蜥蜴との会話だ。俺のことを彼氏か旦那かと訊かれた時、「その間くらい」と答えていた。その真意は分からないが、じゃあ知りたいかと言われれば微妙なところだ。ナオは俺と結婚したがっているのだろうか。
結婚――。分からない、としか言いようがない。近々結婚するというシバトモや、バツイチの安太に尋ねても仕方がないことは分かる。そんなことを考えていたから、ナオの一言にドキッとしてしまった。
「一度お母さんに会ったでしょ? マスカレードで」
思い出すまでに数秒かかったが、あのメッシュのオカッパ頭はちゃんと覚えている。まだナオと付き合っていなかったし、冴子も狂言失踪する前だった。もし今会うとしたら、あの時とは違ってずいぶん緊張するだろう。
「あの時も言ったと思うけど、色々うるさい人でね。嫌いっていうか苦手なのよ」
どうして母親の話を始めたのかは分からない。胸の内を読まれたみたいで軽く緊張する。
「友達みたいな親子っているじゃない? うちの母親、あれに憧れてんのよ」
その傾向が現れたのは高校に入ってから。それまでは躾に厳しく過保護だったという。真逆じゃん、と反応した俺に「見え方はね」と返すナオ。心なしか表情がきつい。
「見え方?」
「うん。中身は変わってない。同じなのよ。もちろん最初は分からなかった。私の聴いてる音楽を聴きたがったり、テレビに出てるタレントや役者に詳しくなったり、ちょいちょい夜遊び始めたりして、どうしちゃったのって感じ」
「夜遊びって何だ?」
「普通にバーでお酒飲んだりって感じ」
それまで口を開けば「勉強しなさい」、もしくは小言や注意ばかりだった母親が親しげに話しかけて来るようになった。「◯◯って曲、聴いたことある?」「◯◯って俳優、知ってる?」と話題を共有したがる姿が少し怖かったという。中でも適当にあしらった後の一瞬の表情が本当にヤバかったと笑い、目の前の玉子サンドを口に放り込んだ。
「分かるかな。今にも鬼の形相に変わりそうな感じ。こう変わる前の無の表情みたいな」
「それは確かに怖いかもな。でも、何かきっかけはあったんだろ? そこまで変わる理由っていうか……」
多分、と呟いた後、ナオはなかなか言葉を選べなかった。こういう時は待つに限る。玉子サンドを食べてみた。期待以上に美味しい。鶏蜥蜴がこの店で食べている姿を想像してみたが、やはり似合わない。
「挫折したんだと思う」
「え?」
「挫折よ、ざ・せ・つ。ほら、私、中学の終わりくらいからクラブとかに顔出すようになってさ、結局あの人は自分の思うような子育てが出来なかったわけじゃん? 先生にもよく呼び出されたし、謹慎とかにもなったしね。それが挫折だったんだと思う」
当時ナオの通っていた中高一貫の女子校は、偏差値こそ高くないが所謂「お嬢様学校」として有名なところだ。そこで呼び出しだ謹慎だとなると、思い描いていた理想とは違うのかもしれない。そんな挫折をなかったことにしようとして、母親がすり寄ってきたとナオは思っている。ただそれも「見え方」が変わっただけで中身はそのまま。結局は娘を管理したいだけだという。
「管理するためには私のことを知らなきゃダメでしょ? 小さい頃はあの人が知っているモノを押し付けておけばよかったけど、それを拒否されるようになっちゃったからね。だったら今度は自分から近付いてリサーチしようって感じなのよ」
意外だった。ナオは家に不満なんてないだろうと思っていた。俺も両親と仲が良いわけではないが、少なくともここまで複雑に絡み合ってはいないと思う。案外冴子も親に対して色々抱えているのかもしれない。
「学校卒業して家も出て、もうあの人も変わるのかなあ、なんて期待したけどちっとも変わらなくてね。ああやってうちの店にも来るしさ」
何しに来るんだ? という問いかけに「さあねえ」と首を振るナオ。一拍置いてから「だから彫ってみたのよ、これ」とシャツの袖をたくし上げた。
「もう昔とは違うんだよ、って言い聞かせる感じかな。あの人にも私にもね」
それも意外だった。綺麗な色の刺青には理由も動機も似合わない。純粋な勢いや直感で彫られるべきだ。でも今見えているユリシーズの青は変わらず美しい。ただのわがままかもしれないんだけど、とナオは袖を戻した。
「母親には母親らしくしててほしいのよ。昔みたいにね」
玉子サンドに手を伸ばしながら、その言葉を自分の家族に当てはめてみる。父親には父親らしく、母親には母親らしく。別にそんなことはどうでもいい。ただ冴子に関しては違った。妹には妹らしくいてほしいと、俺はどこかで望んでいるのかもしれない。
「あの日ね、私、誕生日だったのよ」
あの日? と訊き返しながら、まだ誕生日を知らなかったことに気付く。きっとナオも俺の誕生日を知らない。
「ほら、ボッタクリの『ランブル』に入っていくのを見て連絡した日よ。私、二十九歳になりたてだったの」
すっとぼけた振りをして「お誕生日おめでとう」と言ってみる。何か今にも大変な話が始まりそうで怖い。でも、そうではなかった。あの夜、三十歳まであと一年となったナオは憂鬱で、店を閉めてから一人で呑んでいたという。昼にはメッシュの入ったオカッパ頭の母親が来て、エステサロンのギフト券とバースデーカードを置いていった。
「仕事中だから、って言っちゃったのよね。ありがとうって言えば済むことなのに」
いつまでもこうしてられないな、という気持ちはあるがあまり向き合いたくはない。今日はどこかで軽く呑んでから帰ろう。そう思って店を出た直後に、古くから知っている俺を見かけた。本当は「そこボッタクリ!」と教えるだけでよかったが、わざわざ店の前で出て来るのを待った。
「一緒に呑みたかったのよ。呑んでね、昔の話をしたかったの。若くて意気がってた頃の話。もう発想がオバサンでヤバいよね。でもね、あの日は何だかそうしたかったんだ」
あの夜のことは呑みすぎて何ひとつ覚えていないが、どうやら昔の話をしていたようだ。こうして抜け落ちた記憶が埋まっていくのは気分がいいし、更にもうひとつ分かったこともある。ずっと疑問に思っていたことだ。どうしてナオは「ランブル」のことを色々調べてわざわざ教えてくれたのか――。今ようやくその謎が解けてきた。馬鹿馬鹿しいくらい単純な答えだが仕方ない。俺が昔からの知り合いだから、だ。
怒らないでね、と微笑んでから「一緒にいると昔の話も出来るし、気取ったって仕方ないしさ、すごく楽なんだよね」と打ち明けてくれた。肩の力が抜ける。健康的だな、と口に出したら「がっかりした?」と笑われた。鶏蜥蜴に彼氏と旦那の間くらいと紹介したのは案外本気なのかもしれない。
「ねえ、覚えてる?」二本目の黒ビールを空にしたナオが訊く。「ずいぶん前のことだけど……」
「何を?」
「高校生の頃、ほら、渋谷で……」
まさかあのことをナオと話す日が来るとは思わなかった。今、こういう関係だからこそ恥ずかしくなる。朝、足りなかった千円をラブホテルに払いに戻ったこともナオは覚えていた。あのちゃんとした姿が怖くてさ、と素直に伝えてみる。実は今だって少しはそう思っているが、それは言わないでおく。もうあれから十二、三年経った。今ここはあの頃の俺にとって遠すぎる未来。想像しようとさえ思わなかった。まあ、そんな発想がオジサンなんだなと可笑しくなる。
「私、滅多にあんなことしないんだからね」
軽く俯いたままナオが呟く。静かな店でよかった。そうでなければ聞き逃していただろう。
「金をちゃんと払うってこと?」
「違うよ。まあ、それも滅多にしないけどさ。ああいう……何て言うの? 無断外泊?」
懐かしい響きだとからかいながら思う。ナオの言うとおり、こんな風に昔の話が出来るのは楽だ。もしかするとラブホテルに足りない分を払ったのは、ナオがちゃんとした性格だからというより単に緊張のせいだったのかもしれない。
高校生ながらかなり酒も呑んでいたし、あの渋谷の夜の記憶はすっかり抜け落ちているが、きっと今とは行為の意味が違っていたような気がする。
「ねえ、覚えてる?」今度は俺が訊く番だ。「あの時、渋谷のどこのラブホテルに泊まったか」
「ええ? たしか道玄坂の奥の方じゃなかった? さすがに名前までは出て来ないけど……」
「じゃあ、他にはどんなことを覚えてる? 部屋の感じとか、俺がどんな風だったとか、何でもいいんだけど」
「いや、ほら、お酒も呑んでたから……。でも、本当に私、滅多にあんなことしなかったから!」
うまく言葉に出来ないので見過ごしそうだが、さっき蕎麦屋でも似たようなことを考えていた。多分、あの渋谷の夜も、その後に何度かあったナオとの夜も、そしてついこの間の下北のクラブのトイレでの夜も今とは意味が違う。目の前の本人に伝えるつもりはないが、モーパッサンのバーバラや韓国のミンちゃんを相手にした時と同じ、つまりぐちょぐちょだ。
「もう一本、呑んじゃおうか?」
空の瓶を手に取ったナオに頷きながらふと思う。俺がぐちょぐちょだと思っている幾つかの夜は、ナオにとってもぐちょぐちょだったのかもしれない――。
さすがに本人に確認は取れないが、滅多にしないとさっきから主張している「あんなこと」とは、無断外泊なんかではなくぐちょぐちょではないのか。そんな考えが見透かされないよう、窓の外を眺めながらビールが来るのを待つ。空の色は見えないが、さっきより日が落ち始めたのは分かった。予想以上に長く俺たちはこの店にいる。
お待たせしました、と二本の瓶ビールを運んできた中年の女性は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。ビールの御注文はおひとり様三本までですので、こちらで最後になります」
(第17回 了)
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