世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
十六、鶏蜥蜴
中野駅前のバス停で降り、サンプラザ側に抜け、アーケードの商店街を突っ切り、早稲田通りを渡って更に数分、その蕎麦屋はあった。ナオは「ちょっと歩く」と言っていたが、ざっと十五分弱。少し汗ばんだ。
ここよ、と言われて目に入ったのは立派な一軒家。看板もない。民家風、というか民家そのものだ。ん? と目で尋ねた俺に「ここでいいの」と微笑み、インターホンに向かって「ナオです」と告げる。どうぞ、と応じたのは低い男の声。名乗ったということは会員制のようなシステムだろうか。しばらくするとドアが開き男の声がした。姿はギリギリ見えない。
「いらっしゃい。今日は蕎麦だね」
「はい、食べる方です」
不可解なやりとりの意味を考えつつ、ナオの後をついて店、というか家に上がる。玄関で靴も脱いだ。説明しろよ、という意味で「おじゃましまーす」と呟いてみたがナオは振り向きもしない。聞こえなかったわけではなく、「まあまあすぐに分かるから」ということだろう。
無音の廊下は砂壁に挟まれていた。突き当りには大きな壺に生けられた花。小学生の頃通っていた書道教室に似ている気がする。先頭を歩く男は黒い作務衣姿。痩せて背が高く、長い髪を束ねている。通された部屋は広い和室で、掘り炬燵式のテーブルが六席。 先客はナシ。男はそのまま奥へ引っ込んだので、結局顔は確認できなかった。
「蕎麦屋?」
小さい声で訊いたのは、何となく彼に聞かれているような気がしたからだ。盗聴器などではなく特殊能力によって。そう思いたくなるほど、彼の後ろ姿はミステリアスだった。
「うん、蕎麦屋」
「彼が作るの?」
「いや、お兄さんの方」
卓上にも壁にもメニューは書いていない。お任せのみか、と財布の中身を確認しようとしたが、知っている店なら大丈夫だろうとテーブルに突っ伏した。頬が冷たくて気持ちいい。
「まさかあの程度の距離で疲れたんじゃないでしょうね」この部屋には障子を通して柔らかい光が降り注いでいる。「運動不足ってわけじゃないでしょう?」
新宿でグラグラ揺れていたのが嘘のように、俺の内側は穏やかだ。畳の匂いも心地いい。でも「ノケモノ」という四文字を浮かべると胃の辺りが疼いた。もう少しこうしていようかな、と目を閉じた瞬間声がする。
「お待たせしました」
黒作務衣だ。慌てて上体を起こす。目が合うと彼は口角を上げて頷いた。ミステリアスな後ろ姿を裏切らない顔立ちだ。
「最初はビールで大丈夫?」
「はい、お願いします。あとお蕎麦、最初に一枚だけ貰っていいですか?」
「了解。今日は田舎蕎麦」
「あ、嬉しい。じゃ、お願いします」
二人が喋っている間、黒作務衣は何に似ているんだろうと考えていた。誰、ではなく、何。色白、面長、切れ長の目。物、ではなく、獣。そう、ニワトリとトカゲのちょうど間くらい――、ニワトリトカゲだ。そんな直球なあだ名、さすがにナオには言えない。
「ここ、よく来るのか?」
「いや、年に数回かな」
やっぱり高い店かもしれない。床の間の掛け軸を眺めながらカードは使えないだろうなと考えていた。
冷えた瓶ビールに添えられていたのはそら豆。意外と普通だ。こちらは鹿児島産です、みたいな説明もナシ。これだからメニューの無い店は怖い。少し間を置いて海老とゴーヤとオクラの天ぷら。揚げたてで美味いがこれも普通。お代わりのビールと共に運ばれたのは、粗めに潰したポテトサラダ。これも美味くて普通。俺たちは「美味しいねえ」「うん」「美味いな、これ」「ねえ、本当」としか喋っていない。
「あのさ、彼は運ぶだけ?」
「うん、ノダさんは運ぶだけ」
名前まで普通だ。ニワトリトカゲには似つかわしくない。せめて「忰山田」、いや、もっと分かりやすい「黒作務衣」みたいなヤツがいいのに。
「っていうか、ノダさんはお兄さんを手伝ってるのよ。本業はまた別」
何となく合点がいった。お兄さんの方のノダさんは案外普通のルックスかもしれない。
「本業って?」
「彫り師」
「え?」
「刺青を彫る人」
ようやくすっきりした。そうそう、ニワトリトカゲの職業は彫り師が似合う。ばっちりぴったりだからすっきりだ。きっと芸名みたいなものもあるはずだ。彫り竜とか彫り鬼とか。まさか「ノダさん」のままではないだろう。その存在を尋ねようとした瞬間、ナオがシャツの袖をたくし上げた。
「これ、ノダさんにやってもらったの」
あ、と思わず声が出た。やっぱり俺は勘が悪い。彫り師、と聞いてどうしてすぐユリシーズが浮かばないんだ。ニワトリトカゲの芸名なんてどうでもいい。俺の頭の中が見えているのか、しょうがないわよという感じでナオは笑っている。そこへ「お待たせしました」と噂の主が蕎麦を運んできた。見るからに歯ごたえがありそうな田舎蕎麦。この黒い作務衣の下には無数の刺青が隠れているのではと、単純で勘が悪い俺は想像してしまう。
「何やってんの、そんなもの見せびらかして」ニワトリトカゲが初めて笑った。「うち罰金取るよ」
「見せびらかしてんじゃないわよ。今ちょうど話してたところだったから」
「こちらは彼氏? 旦那?」
「え? ……えっと、その間くらい……」
驚きが顔に出ないよう、掘り炬燵の下で足をぎゅっと組んだ。ニワトリトカゲは口角を上げて俺の顔を見ている。彼氏と旦那の間ってことは、婚約者なのだろうか。もう一度両足にぎゅっと力を入れてみた。
「ノダさん、ケン坊って覚えてますか?」
「ん?」
「昔、一度私が連れてきて……」
「ああ、あのマッチョな男か。たしかサトミちゃんを紹介したんだよね」
「はい、やってもらってました」
「彼女、今沖縄。新しい技術を勉強してる」
右田氏の刺青を女性が彫ったとは思わなかったし、それ以前に女性の彫り師という存在を知らなかった。
「そうそう彼ね、ケン坊の友達なの。何日か前も一緒に遊んでたみたい」
胃の辺りがまた疼いた。右田氏からあの日のことを聞いていたのか。だから俺は今日この店に来て、ニワトリトカゲに会って、ナオと向かい合いで酒を呑んでいるのか。
「つまめる物、もうちょっと出そうか?」
「うん、お願いします」
また二人きりになった。まず食べちゃえば、と田舎蕎麦を指差すナオ。予想どおり美味しかった……はずだ。これから色々と訊かれるのに味わう余裕なんてない。今確かにナオは「まず」と言った。食べた後、何かあるのは確定している。「絶対怒られんだろうなあ」とか「最悪別れ話が出るんじゃないか」とかグルグル考えながら食べているせいで、麺の歯ごたえくらいしか印象に残らなかった。俺は昔から感情の振り幅が広がると身体が疲れる。
途中、ニワトリトカゲが蕎麦湯を持って来た時以外、ナオは口を利かなかった。俺たち以外に客が来る気配もない。本当に静かだ。時計もないし音楽もない。そんな沈黙が破られたのは蕎麦湯を飲んでいる時。ナオの目には力が入っている。今にも眉間に皺が寄りそうだ。
「一緒に遊んだんでしょ?」
うん、と頷く。嘘をついても仕方ない。とろみの強い蕎麦湯が胃に落ちていった。じゃあいいわ、とナオは表情を緩める。
「今、ごまかされたらアレだったけど、だったら大丈夫」
アレが何なのかは知りたくもないが、これ以上厄介なことにはならないような気がする。でも油断は禁物。口は禍の元だ。よく考えて喋れ、不安なら黙れ。
「ケン坊は大丈夫だった? あまり向いてないような気がするんだよね」
あの「高級品」の話だろう。向いてる向いてないは分からない。彼があれで楽しかったならそれでいい。ただ俺はもう御一緒したくないというだけだ。
「ああ見えてあいつ、意外とメンタル弱いからねえ」
弱いどころじゃないぞ。あのまま死んだりしてないだろうな。ジェーンともう一人の女の子も大丈夫だったのか。あの日の朝の帰り際、誰かに話しかけられた気がしたけど、あれは無視しない方がよかったかな。
「ビール、もう一本もらう? それとも他のにする?」
「いや、ビールがいい」
やっと喋れた。今の俺には酒を選ぶくらいしか、不安なく喋れることはないらしい。しかもまだ話は始まったばかり。ナオは田舎蕎麦を一口も食べなかった。あとでもう一枚頼む気だ。
「まあ、いちいち細かく知りたいわけじゃないのよ。正直に報告されても嘘をつかれてもゲンナリしそうだから」
あなたの予想は正しいです、という態度を考えたが何ひとつ浮かばなかった。ニワトリトカゲが置いていったビールをナオのグラスに注ぐ。
「だからこの間の話はポーンと飛ばして訊きたいの。それより今後、どうするつもりかなって」
金輪際あの様なことは致しません、と血判状を提出してもいいが、この人はそういう嘘を必ず見抜くだろう。俺の血に何の意味もないことをちゃんと知っている。今差し出すべきは他の物だ。それが何かはまだ分からない。
「大体こんな感じだったんだろうなあ、っていう予想はあるのよ。まさか聞きたい?」
いや、と首を振る。当たっていても外れていてもゲンナリするだろう。だよね、という感じでポテトサラダに箸を伸ばすナオ。きっと俺から何かを貰いたいに違いない。血判状なんかではない何か。嘘でもその場しのぎでもない安心できる何か。俺だって渡せるものなら渡したい。
「私自身どうしたいかよく分かってないんだよね。あれやめて、これやめて、って頼んでさ、結果その通りにしてくれたからってワー嬉しいってならないと思うのよ」
「そう……なの?」
「なら最初からそういうことをしない人を選んでるはずだから」
そうか、と納得して笑われた。そして「もうやめよう」とナオは言う。
「だって今は妹さんのことで手一杯だもんね」
その通りだが素直に受け入れてはいけない。どっちも俺にとっては同じくらい重い。こっちが先で、あっちが後で、なんて順番はつけたくない。
俺はきっと右田氏が取り揃えているような「高級品」に未練はない。必要なのはどちらかといえばバイアグラのジェネリックだ。じゃあ、あっちはどうだろう。例えばこの前だったらジェーンたちとのぐちょぐちょ。ああいう時間に未練はないのか。ない、と言い切れないなら黙った方がいい。だから俺は冷めた海老の天ぷらを口に突っ込んだ。
行為は同じでも相手がジェーンかナオかで意味は変わってくる。学生の頃のナオと今のナオを比べても意味は違う。モーパッサンのバーバラや韓国のミンちゃんだって言わずもがなだ。だから罪悪感はゼロに等しい――。
まずはそのことを伝えるべきかもしれないが、ためらっているのは当然すぎる話だからだ。得意気に喋った挙句、心底がっかりされるのは目に見えている。重要なのは違うという事実ではなくその理由……だろうか。自信はない。ぐちょぐちょ問題は複雑だ。だからポテトサラダの残りを口に詰め込んだ。
「妹さんに連絡はしないの?」
ふっ切れたような声色だった。とっくに心底がっかりしていたのかもしれない。
冴子から最後にメールが来たのは、先週ナオと神楽坂で中華料理を食べている時だった。それ以降に色々あったからもっと前のような気がする。あれから一週間しか経っていないが、「今とりあえず連絡した方がいいかもな」と考える。
ノケモノの僻みではなく、失踪中の冴子に伝えることなど本当に何もない。当然安太にもない。駒場のコンビニに行けば確実に会えるけどそんな気もない。でもこの雰囲気が変わるなら、冴子にメールをするくらいお安い御用だ。そんな気持ちで「した方がいいかな?」と訊くと「しなくていいの?」と質問を質問で返された。
「じゃあ、してみようかな」
そう言ってスマホを取り出すと「じゃあ、って、何よ」とまた笑われた。よし、と踏ん切りがつく。こうやって笑ってくれるなら、そしてこの雰囲気が変わるなら、あいつにメールを出してみよう。ナオには悪いけど、ぐちょぐちょ問題の処理についてはもう少しだけ待ってほしい。
元気か、とまず打ってみた。でもそこから何も続かない。余計なことを書きたくないのはノケモノの僻みだ。だから必要最低限のことしか伝えたくなかった。
元気か、の後が浮かばないまま時間だけが過ぎていく。ナオはニワトリトカゲにまたビールを頼み、添えられた板わさをつまみ始めた。見た目は普通。きっとあれも美味いはずだ。
ここが限界だな、と「元気か」の三文字を冴子に送る。これ以上考えても無理だ。卓上に置いたスマホをチラッとナオが見る。
「送ったの?」
「うん」
内容は訊かずにビールを注いでくれた。ありがとう、と言った途端スマホが震える。俺もナオも画面に視線を投げた。冴子からだ。早いな、と呟き内容を確認すると「元気よ」の三文字のみ。自分のことは棚に上げ「短けえよ」とツッコんだ。
「ん? 何て送ったの?」
「元気か、って……」
また笑われた。まあ、これでいい。一応「了解しました」とだけ送っておいたが、その後あいつから返信はなかった。
蕎麦屋を出てからナオに訊いたのは、ユリシーズを彫った場所のことだ。
「あの家の中で彫ったのか?」
「うん、二階に部屋があるの」
すげえな、と感心すると「変わってるよね」と自分の腕のユリシーズをしげしげと眺めていた。何度見ても綺麗な色だ。
会計は二人で七千円ちょっと。あんなに個性的な店なのに価格はとても普通だった。カードも使えるらしい。帰り際、ニワトリトカゲは「また寄って下さいね」と俺に頭を下げた。至近距離で向かい合うと、身長が高いせいか威圧感が凄い。
結局店を出るまで他の客は来なかったし、料理担当の兄の姿は見られなかった。訊けばナオも見たことはないと言う。実はニワトリトカゲがひとりで切り盛りしているかも、と想像して可笑しくなった。彼なら蕎麦も刺青も何とかやってしまうような気がする。
「そういえばさ、あの人の刺青はどんなのなんだ?」
「いや、見たことないなあ。少なくとも普段見えるところには彫ってないはず」
「案外ひとつもなかったりしてな、刺青」
「え? ヤバくない? それ」
「それはそれであの人っぽいだろ」
ナオと話しながら、スマホで調べていたのは「ニワトリトカゲ」の漢字。鶏蜥蜴、という字面は彼にとても似合っている。
(第16回 了)
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