特別展『池大雅 天衣無縫の旅の画家』展
於・京都国立博物館 平成知新館
会期=2018/4/7~5/20
入館料=1500円(一般)
カタログ=2500円
池大雅、大雅堂の展覧会である。本格的な回顧展としては、なんと八十五年ぶりだそうだ。京都国立博物館のみの開催と知って、ぬ~と悩んでしまったが、大雅堂なら行くしかあるまい。なんとか都合をつけて京都まで馳せ参じました。京都国立博物館本館は片山東熊設計。東博の表慶館や迎賓館(旧東宮御所)などの設計者である。何回か書いているが、建築で世界遺産に申請するなら、日本近代和洋折衷建築の祖とかなんとか理由をつけて、東博や京博の本館を推薦していただきたいですな。
京都では好物のけつね丼を食べました。安上がりぃ。わたくしの生涯の目標の一つに、銀座資生堂パーラーでオムライスの接待を受けるという夢があります。確かオムライスが4000円近いんだぜ。コーヒーとデザート頼んだら一人一万円近くになるです。あ、お姉ちゃんがいる銀座のバーとかには興味ありません。みなさまよろしく。
で、本題ですが大雅堂、大好きなのです。鼻がくっつくほど近くで大雅作品を見たのは二回しかないけど、彼の作品には気品がある。ニセモノはその数倍は見てるなぁ。江戸の南画家(文人画)には贋作が多いが、大雅もその例に洩れない。ニセモノを見ると目が曇ると言うが、それは見方による。雅印でしか真贋を判断しようのない大雅作品もあるが、たいていは人気の着色画だ。じっと見ていると、贋作には本歌ではあり得ない歪みが必ずある。大きな作品になればなるほど大雅を写すのは難しい。古美術の場合、贋作からでも得るものはある。これはだいじょうぶと判断して騙されたのならそれまで。買値は下回るだろうが、出来の良い大雅贋作として売り飛ばせばいい。
いまさらの説明になるが、明治維新前には洋画は存在せず、いわゆる日本画だけだった。そして日本画は唯一無二の自我意識を絵画で表現する芸術ではない。伝統に沿い、クライアントの要望に応じた絵を描くのが画家(絵師)の仕事だった。最近になって、ちょっと異様なほど伊藤若冲や曾我蕭白がもて囃されている。彼らが江戸の絵師としては例外的に、強い自我意識を作品で表現した、あるいは作品から強い自我意識が読み取れる画家だからである。
それはそれでけっこうなことだが、一方で江戸絵画の本質が無私に近い絵画精神にあったことは確認しておいた方がよい。御維新の激動を予感したかのように若冲や蕭白は自我意識を表現したが、強烈な自我意識は突き詰めれば無私に突き抜ける。若冲や蕭白を天才ともて囃すのは一時のブームであって、いずれまた応挙らの無私の画家たちが、天才といった無責任な賛辞とともにもて囃されることになるでしょうな。天才は天から与えられた生得の特権的かつ突出した才能を持つ人という意味だが、そんな芸術家、いません。
大雅は若冲や蕭白と同時代の京都の人である。ただし文人画家であり、応挙や若冲、蕭白のような専門絵師だとは言えない。文人画家は確かに絵と書で一家を成した。しかし絵や書を描く(書く)ことでその精神を表現した。この文人画の特徴について、大雅展図録巻頭で京博館長の佐々木丞平さんが「文人画の一番の基本は哲学といえるでしょう。絵画制作を通して哲学する、あるいは鑑賞を通して哲学するという、絵画の背景に深い考察を促すものが文人画です」とまとめた上で、実に簡潔かつ的確な文章を書いておられる。
ここにおける絵画とは、本来は趣味に描くという気楽なものではなく、漢詩などの深い教養に根ざした哲学的構成のものを意味し、写真のなかった当時においては絵画自体が言語では表せない周りの環境を伝える唯一のものでもあったため、現在考えるよりも遙かに学術的行為と見なされていました。文人画では、このように作品に込められた知的表現、哲学性、その内容やテーマ性、背景に内在しているものが重要なポイントであるといえます。
唐の文人張彦遠は『歴代名画記』の中の「画の源流を叙す」の章で、「意味の伝えようがないので書(文字表現)が生れ、形の表しようがないので画(図像表現)が生れた」としています。中国では「心からあふれた思いは詩となり、転じて絵となる」と言われ、言葉で表せないものを表現するのが絵であり、歴史的な事実や古い良い考えなどを具体的な「形」として理解しやすく後の人々に伝えることができるものとされています。
また絵を描こうと思えば、自然界の様々な事象を深く観察するので、大自然の構造などにも精通し、書物を読むのと同じように見聞を広め、知識を豊かにすることが出来ると考えられ、正に絵画が学術の一つと認識されていました。
大雅が文人画に関心を持ったのは、まずこうした文人画の姿勢そのものに共感する部分があったのではないでしょうか。
(佐々木丞平「自由な魂を求めて――池大雅が憧れた文人的世界」)
京博館長さんの文章を素晴らしいなどと言ったら、「お前何様だ」と叱られるが、学識と文章の流麗闊達が正比例しないのも事実である。文章にも絵画と同じく〝芸〟の側面はある。ある対象(ジャンル)を深く理解し、外側から相対化して対象を捉えていればいるほど的確な文章になる。専門用語をカッコに入れて省いてしまうとスカスカになるような美術評論は、要は対象への愛と理解が足りないわけだ。
佐々木さんが書いておられるように、東洋では書と画は意味と形の本質を表現するためにある。意味の本質を表現しようとすれば書になり、物の形の本質を表現しようとすれば絵になるということである。それが書画一体の文人画である。これはもちろん中国発祥の考え方だが、漢字(象形文字)を使った東アジア圏全体で共有されている。それは意味と図の調和ということでもある。ヨーロッパなど表音文字文化圏では高い精神性を表現する際に音楽も重視するが、漢字文化の東アジア圏では圧倒的に文字と図像を至高とする傾向がある。
二十世紀初頭に中国に滞在したフランス人作家、ヴィクトル・セガレンは、神聖表意文字が中国文化の根幹にあるという直観を元に『碑(Stèles)』という詩集を自費出版した。『碑』の初版では漢字の下にフランス語の詩を配した一篇の詩が、一枚の和紙に印刷されている。それを両側から木で挟んで束ねた凝った造本だ。『碑』でセガレンは一種の文人画を目論んでいた。もちろん人類皆兄弟であり、世界中で数々の文化的共通項を指摘することはできる。しかし最も東洋的(漢字文化圏的)特徴が表れた芸術ということになれば、書画一体の文人画がその代表になるだろう。
池大雅筆 自賛『三上孝軒・池大雅対話図』
紙本墨画 一幅 縦一二一・二×横五〇・九センチ 江戸時代 十八世紀 東京藝術大学蔵
大雅肖像画は青木夙夜、月峰、三浦思軒ら弟子筋の作品があるが、大雅自筆の自画像は『三上孝軒・池大雅対話図』のみである。三上孝軒の人となりは不明だが、大雅の絵の師の一人だったのではないかと言われている。かなり親しかったようだ。背中を向けているのが大雅で、一回り大きく描かれているのが孝軒である。賛に「四十初度を賀し奉る」とあることから孝軒四十歳で、大雅三十八、九歳頃の作品である。
大雅は人物画も数多く手がけたが、自画像が少ないところにも彼の文人画の特徴が表れている。『三上孝軒・池大雅対話図』にしても、二人の友情を表現するために自分が登場しているに過ぎない。下座に座り、身体を一回り小さく描いているのも大雅らしい。人気絵師だったが自己主張は少なく、清貧であることを気にかけない、むしろそれが常態だと考えているような文人画家だった。
大雅堂が書画の名海内に聞えて、今は字紙一まいが無価の宝珠となりし。翁が若い時、拝謁に参りたれば、ただはあはあと云て、頭を畳にすりつけ、すわり心のわろい事は、書損は丘につみ、墨はこぼれて恒水の第三河。
(上田秋成『肝大小心録』文化五年[一八〇八年])
『雨月物語』で知られる上田秋成は、ものすごく辛辣な批評家でもあった。『肝大小心録』は随筆の寄せ集めだが、まあとにかく辛口である。大雅も登場するが、例外的に批判をまぬかれている。大雅は腰が低く、家には書き損じが山と積まれ、飛び散った墨で畳は汚れていたと秋成は書いている。謝礼にも頓着せず、お金なら百文、芋や餅でも喜んで受け取っていたという。秋成が批判しているのは大雅に安い対価で絵を描かせたと自慢しているような金持ちたちである。大雅の死後、その作品価格が高騰していたのだった。
池大雅は享保八年(一七二三年)に、京都両替町銀座中村壮大氏の下役池野嘉左衛門の子として生まれた。出自は町民である。ただ四歳の時に父を亡くし、その後は母に育てられた。学問を叩き込まれたというより子どもの頃からの学問好きで、七歳の時に黄檗山杲堂禅寺の大梅和尚に書を披露して神童と讃えられている。十五、六歳頃から書画を作り扇屋を営んで生計を立てるようになるが、柳沢淇園、高芙蓉、韓天寿ら一回り年上の儒者文人の知遇を得て日に陰に援助を受けた。大雅が生涯腰が低かったのは文人の理想的あり方を実践したからだが、出自が町民だったことも影響しているだろう。
幼い頃から名だたる文人に愛され、穏やかな性格だった大雅の交友範囲は驚くほど広い。享保から天明にかけて一種の文化センターになっていた大坂の木村蒹葭堂は大雅の弟子である。白隠禅師、売茶翁、野呂介石、皆川淇園、与謝蕪村、大典顕常ら綺羅星のような文人たちと友誼を結んだ。円山応挙や曾我蕭白らの絵師たちとも交流があった。彼らについて書いてゆくときりがないが、幕末文人オールスターの交友録といったところである。
ただ大雅・蕪村と若冲との交流は確認できないようだ。大典と大雅・蕪村は親しかった。大典は若冲の庇護者で師だったから、彼を通して友誼を結んでもいいはずだが痕跡は残っていない。これは若冲と大雅・蕪村の知的バックグラウンドがあまりにも違っていたからだろう。大典は墓碑銘で、若冲は無教養で絵を描くこと以外取り柄がないと、露骨過ぎるほどの人物評を残している。若冲は漢詩漢籍に通じた文人の知的サークルと無縁だったようだ。若冲という絵師の特異さが表れた事象ではある。
『魚楽図』重要文化財
紙本墨画 一幅 縦一四九・五×横五三・八センチ 江戸時代 十八世紀 京都国立博物館蔵
『垂柳報芳菲図(霞彩嵐光図巻断簡)』
紙本着色 一幅 縦二八・二×横五二・三センチ 江戸時代 明和三年(一七六六年)
大雅は求めに応じて様々な絵と書を残したが、『魚楽図』や『垂柳報芳菲図(霞彩嵐光図巻断簡)』といった作品に最も大雅らしい特徴が表れている。いずれも風景画だが、特に点(米点という)の打ち方が大雅独自だ。大雅は木の葉などを点で表現することが多いが、点の打ち方一つ一つに確信がある。だから『魚楽図』のように大きな作品でも調和があり、S字型に流れるように風景が描かれている。小品ならごまかせるが大きな作品になると大雅の画法を真似るのは至難の業になる。『垂柳報芳菲図(霞彩嵐光図巻断簡)』のように描き込みの多い作品でも同様である。大雅らしい作品に仕上げようとすれば、部分と全体のバランスが崩れる。「これは大雅なの?」といった作風の絵の方が、判断に迷うことが多い。
『三岳紀行図屏風』部分
紙本墨画/墨書 八曲一隻 各扇 縦九〇・五×横四二センチ 江戸時代 宝暦十年(一七六〇年) 京都国立博物館蔵
『三岳紀行図屏風』は大雅三十八歳の時に、高芙蓉、韓天寿とともに白山・立山・富士山を巡った時のスケッチ帖と文章記録である。元々は持ち運びに便利な冊子だったが今は屏風に仕立てられている。江戸以前の絵画は実景を見ていない、西洋絵画の模写とは無縁であるといった言説がまかり通ったりしているが、『三岳紀行図屏風』などを見ればそれが間違いだとわかるだろう。もちろん西洋画の遠近法を使った写生ではない。また画帳にスケッチした実景をそのまま軸や屏風に活かしたわけでもない。本式の文人画になれば、写生の実景に知的解釈が加わる。それはヨーロッパ古典絵画でも同様である。キリスト教的な神性がフィルターとして作用するか、東洋的な循環的調和世界観がフィルターとして作用するかの違いである。
池大雅・与謝蕪村筆『十便十宜図』(国宝)より大雅作品部分
紙本着色 各図 縦一七・九×横一七・九センチ 江戸時代 明和八年(一七七一年) 公益法人川端康成記念會蔵
最後は超有名な国宝の、池大雅・与謝蕪村筆『十便十宜図』。言うまでもなく、李魚の「伊園十便十宜詩」を題材に、大雅が十便図を、蕪村が十宜図を描いた画帳である。書も大雅と蕪村の手になる。大雅四十九歳、蕪村五十六歳の作なので、両者とも脂がのりきった時期の傑作である。
この作品は川端康成所蔵だったことでも知られる。川端は文人画を愛し、浦上玉堂の代表作『凍雲篩雪図』も所蔵していた。もうだいぶ長いこと川端旧蔵の古美術展は開かれていないが、過去の図録を見ると実に奇妙である。まあはっきり言えば玉石混淆で、真贋の怪しい作品もかなり含まれている。しかし飛びきり素晴らしい作品を持っていた。目利きだったのか一瞬首を傾げるが、希代の目利きだったと言っていいだろう。
川端康成は最も日本的な小説を書いた作家の一人である。ただそこには近現代の濁りのようなものが流れ込んでいる。割り切れない妖しさのある小説家なのだ。その川端が愛したのがほとんど透明に澄んだ大雅や蕪村、玉堂らの文人作品だった。江戸後期文人画は一瞬の光輝であり、その後失われた。富岡鉄斎がそれを受け継いだくらいである。鉄斎が最も尊敬した文人画家が大雅だった。ただ文人画は昭和時代には遠い過去の遺物になっていた。川端はそれを現代の濁りの内に継承した節がある。それはそれで文人画の伝統と言えるでしょうね。
鶴山裕司
(2018/03/29)
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