『長谷川利行 七色の東京』展
於・府中市美術館
会期=2018/5/19~7/8
(その他全国5ヶ所の美術館を巡回)
入館料=900円(一般)
カタログ=2300円
長谷川利行も池袋モンパルナスを代表する画家の一人である。東京落合・池袋の芸術家村に住んだわけではないが、その作品は同時代の若い画家たちに大きな影響を与えた。利行の人柄が影響を与えたわけではない。利行は無頼の生活破綻者で、もう物故した画家だからその行状を面白可笑しく語れるが、特に晩年は、隣に座っていたら誰もが緊張しながら眉をしかめたことだろう。手を差し伸べても救えない人だった。救いの手を差し出した人を食い尽くしてしまうような人だった。
ただ利行に悪気はない。金がなくなれば人にせびる。酒を飲み最低限の画材を買う。買ってくれるなら絵も売る。金になるなら描く。金にならなくても描く。俗な出世欲はある。おべんちゃらも平気。だけど誰も額面通り受けとめない。金はあるだけ飲んでしまうし、万が一、利行が画壇で出世しても、展覧会の審査員や後進を指導するような責任ある立場に立つことなど考えられない。持っていないから金や出世に執着するが、得たところで満足するとは思えない。生活者としての利行はハチャメチャだ。絵だけが一貫しており高貴ですらある。
二十代半ばの長谷川利行
『長谷川利行 七色の東京』展図録より
長谷川利行は明治二十一年(一八九一年)七月九日に、京都府淀で五人兄弟の三男として生まれた。父利其は伏見警察木津分署長や裁判所書記などを務めたそれなりに社会的地位の高い人だった。母照子は淀藩御殿医小林家の出だと伝えられるので、長谷川家も御殿医に見合った家柄だったのだろう。利行は「私の家は旧家であって、広い庭の奥には古濠があった。(中略)私は実に水に縁のある淀町で生まれ、生ひ立つたのである。実際の生れは、伏見町の母屋に当る酒屋の倉で、オギヤアとやつたそうだ」と回想している。
明治半ばに生まれ、昭和十五年(一九四〇年)まで生きたついこの間の人なのだが(享年四十九歳)、利行の生涯には不明な点が多い。五人兄弟がいたはずだが利行の親類縁者はぜんぜんわからない。利行は大正八年(一九一九年)二十八歳の時に歌集『長谷川木葦集』を刊行していて、「子を抱きものいふわれの唇に幼な手をやりむづかりてやまず」などの歌があることから、結婚して子どもがいたようだ。フィクションでこんな歌を書ける人ではない。しかし妻子が誰だったのかもわかっていない。
三河島の路上で行き倒れ、板橋の東京市養育院に収容されて人知れず亡くなったことから、利行は貧乏な画家というイメージが強い。自業自得とはいえ、晩年は貧窮の極みにあったのも確かである。しかし前半生はむしろ恵まれた家庭に育ったはずである。利行は三十五歳頃まで実家から仕送りをもらっている。昭和十三年(一九三八年)に父が亡くなるが、翌年利行は父親の死を短歌に詠んでいる。
死ンだ父の感情がチカチカと迫つてくることなしに生きて居られない
老父が死んでからといふものは心軽やかに油絵を描いて居る
父上の石碑を建てに故郷にかへりゆくべく金策をする
ヲヤジが死んで終つたことに対し強いアンスヅウ(感激)がある
父の臨終にも逢はずして生きて居ることの真面目さがある
父とよび子と呼ばれる親愛さが己には喪くなつて居る
利行は「父上の石碑を建てに故郷にかへりゆくべく金策をする」と書いている。しかし父親の旧友が、父の死去の通知と同時に困窮した利行のために喪服を送ってくれたにもかかわらず、それを転売して飲んでしまい帰郷しなかった。ただ歌には父親に対するアンビバレントな感情が溢れている。父は偉大な存在であり、またそうとうに利行を援助してくれたはずだ。その意味で蕩児の系譜である。
わずかに知られている利行の年譜的事実を確認するのは、利行には最初から浮世離れしたところがあったからである。池袋モンパルナスの画家たちが活躍した大正デモクラシーの時代は、いわば画家の庶民化が進んだ時代だった。今でもそうだが画家や音楽家、詩人などには良家の子弟――もっと俗な言い方をすればお金持ちの子どもが多い。一人前になるには時間も費用もかかるのだ。明治時代の洋画家は良家の子弟がほとんどだった。しかし大正時代になると変わってくる。最貧層とは言えないまでも、中流くらいの家の子が画家を目指すようになった。池袋モンパルナスの画家たちの多くが中流階級出身である。しかし利行は違う。
利行は十八歳で京都の私立耐久中学(今の高校)を中退している。絵も学校に通ってみっちり学んだわけではない。早くから画家を志していたが、歌集を自費出版していることからもわかるように文学にも興味があった。自由詩も書いているが、かなりモダニズム詩に影響を受けている。大正十三年(一九二四年)には京都で家族と別居してアパートを借り絵を描いている。かなり余裕があり甘やかされた子だったと言っていい。
懇ろに屍を積みて大き火の吉原廓のあとどころかも
たばしれる暑熱の風のやけあとの灰のぬくもり死の臭ひ湧く
人知れず焼け残りたる吾が魂のわれとむつべる心は寂し
大正十二年(一九二三年)に関東大震災が起こったが、上京していた利行も被災し、それだけでなく焼け跡をあてもなく彷徨い歩いた。かなりショックを受けたことは、この年詠んだ短歌にも表現されている。ただ短歌史を見ても利行のように震災の悲惨ばかりに着目した歌はない。ある意味ボンボンが初めて現実の悲惨を目の当たりにして、嫌悪しながら引きつけられた気配がある。
利行は画風からいえばフォービズム系の画家に分類されるだろうが、本質的には誰の、あるいはどの絵画イズムの影響も受けていない。独自の画風だ。まったくなんの裏付けもなく、最初から頭の高い画家だったと言える。この奇妙といえば実に奇妙な芸術的頭の高さ、あるいは信念はどこから生じてきたのかと言えば、やはり生育環境に大きな要因があるだろう。多かれ少なかれ中流家庭の子弟にはすり込まれている〝生活のため〟という社会良識が利行には欠けている。絵を描き始めたら良い絵が描ければそれでよい、ほかはどうでもいい、どうなってもいいといった飛躍が彼にはある。
『汽罐車庫』昭和三年(一九二八年)頃
油彩、カンヴァス 縦一一二×横一九四センチ 鉄道博物館蔵
『汽罐車庫』は第十四回二科展樗牛賞受賞後の作品で、横二メートル近い大作である。図版で見るとこじんまりしているが、実物はそうとうに迫力がある。利行代表作の一つだ。利行は大正十五年・昭和元年(一九二六年)に東京に出たが、その年二科展と帝展に出品して入選している。翌年には協会展に三点入選した。二科の樗牛賞も受けている。新進画家として鮮烈に画壇にデビューしたのである。利行ほどの画才を当時の画家たちが見逃すはずもない。
ただ利行はほぼ生涯に渡って二科に出品し続けたが、だんだん入選が少なくなっていった。利行はしばしばそれについての不満を漏らしている。審査員と懇意でなければ入選しないのだとも書いた。ただ利行が画壇の賞と縁遠くなっていったのは、彼の処世術が下手くそだったからばかりではない。利行には絵の流通ルールに関する常識が欠落していた。
『水泳場』昭和七年(一九三二年)
油彩、カンヴァス 縦九〇・九×横一一六・七センチ 板橋区立美術館蔵
『水泳場』はすでに困窮し始めていた利行が、画家仲間のアトリエで三十分ほどで描いたという伝説的作品である。『汽罐車庫』ほどではないが、この作品もかなり大きい。そして乱暴な筆致である。三十分で描いたかどうかは別として、かなりの早描きだったのは確かだろう。
ただ日本の家屋は狭い。こんな大きな絵を飾っておける家は大金持ちだけだ。そして画風は前衛である。何が書いてあるのかわからないメチャクチャな絵だと思う人も多いだろう。利行の絵だから価値があり、利行の画業を通覧しているから貴重な作品になっているという面がある。
小説家や詩人がメディアの依頼によって、依頼に応じた作品を書くのはごく普通である。それは画家も同じなのだ。画商が把握しているコレクターの好みに応じて絵を描くことはよくある。しかし利行はそんなことをしない。できないというよりやろうとしなかった節がある。大きな絵を描きたければ描く。好きに描く。利行が画壇からじょじょに疎まれていったのは、彼には画壇ルールに合わせようという気持ちがこれっぽっちもなかったからである。
『カフェ・オリエント』昭和十一年(一九三六年)
油彩、カンヴァス 縦三八×横四五・五センチ 個人蔵
浅草のカフェを描いた作品だ。利行作品は極彩色で強烈な色彩が特徴だが、いっぽうで非常に白が目立つ作家でもある。晩年になるにつれて利行ホワイトとでも呼ぶべき白が際立ってくる。『カフェ・オリエント』もそうで、白の中にカフェの机や椅子、人物が浮かび上がっているような作品だ。
抽象的に見えるかもしれないが、利行は徹底して写生の画家だった。道ばたでもカフェの片隅でも画架を置いて実景を写生した。もちろん目立っただろう。奇異の目でも見られたはずである。それに利行は当時有名画家ではなかった。しかしそんなことを意に介した節はまったくない。
芸術家は作品のためなら、仕事のためならなんでもできるという面がある。乱暴なことを言えば、絵を描いているのを人に見られて恥ずかしいと思う人は素人なのである。利行は画壇的には不遇であってもその出発点からプロだった。絵を描きたい風景や題材を見つければ場所がどこだろうと描く。それが仕事だからである。
『少女』昭和十年(一九三五年)
油彩、カンヴァス 縦五三・二×横四一・二センチ 群馬県立近代美術館蔵
利行人物画の傑作の一つである。この作品でも白が映えている。もちろん単純な白ではない。青っぽい色を塗ってそこに白を重ねて質感を出している。少女の肌の色も絶妙だ。こういった絵は一目見ていわゆる〝売り絵〟として描かれた作品ではないとわかる。買われるとしても、利行という画家の魅力を理解している人しか買わないだろう。妥協しなかったのかできなかったのかは卵鶏の関係だが、利行作品は本質的に画家が描きたかった絵しかない。
『パンジー』昭和十三年(一九三八年)
油彩、カンヴァス 縦二三・五×横四〇センチ 愛知県立美術館蔵
死去前年の作品になる。この作品でも白の海に赤や青や緑が浮かんでいる。荒い筆遣いだが、タッチはだいぶ弱いように見える。気力体力が衰えていたのかもしれない。ただ衰えても利行は利行だ。
利行は幸せな画家だったのか、それとも不幸だったのか。利行が絵画史上の大画家となり、その人生を知っているわたしたちにはちょっと答えにくい。行き倒れの死は確かに悲惨だ。しかし初期から晩年まで、少なくとも絵に関しては利行にはブレがない。好き勝手に描いて生きた。それを押し通した。芸術家としては幸せだったと言えるのではなかろうか。
鶴山裕司
(2018/03/28)
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