『アラビアの道 サウジアラビア王国の至宝』展
於・東京国立博物館 表慶館
会期=2018/1/23~3/18
入館料=1600円(一般)
カタログ=2800円
東博の次回展覧会の看板で『アラビアの道』と書いてあるのを見て、ああいいねぇ是非観覧に行こうと思った。イスラーム世界の遺物、大好きなのです。ただ帰りにまた看板の前を通りかかって、あれっマジっすかと二度見、三度見してしまった。『サウジアラビア王国の至宝』だって!? ギメとかトルコの国立美術館ならわかるけど、サウジだって!? サウジで考古学が発達していて、それを蒐集展示した博物館があるとは、申し訳ないが想像していなかった。まだイランの方がわかるよと思った。
言うまでもなくサウジはイスラーム教誕生の地である。イスラーム教最大かつ最重要の聖地、マッカがあるのがサウジなのだ。マッカは預言者ムハンマド生誕の地であり、今の国割りで言うとムハンマドはサウジアラビア人ということになる。そして言うまでもなくイスラームは政教一致である。ムハンマドが人々に伝えた神の言葉『クルアーン』が宗教はもちろん、生活、経済、政治の規範になっている。当然のことだがサウジはイスラーム世界の中で特別な位置を占め、それゆえ戒律(スンナ)も厳しい。
オマーン出身のイスラーム教徒(ムスリム)が知り合いにいるが、「サウジってどーよ」と聞いたら「行くとちょっと緊張するね」という答えだった。女性は必ずヒジャブで髪と顔を覆っていて、当たり前だが飲酒などスンナを破るとえらいことになるという印象らしい。それにサウジの秘密警察(宗教警察)、有名ですね。最近ではムハンマド皇太子によるサウジ人記者、ジャマル・カショギさんの暗殺が疑われたりしていて。殺害場所がトルコイスタンブルのサウジ総領事館って・・・。まあ日本やアメリカだって、他国から見ると奇妙な論理で動いてるなーと思われてしまう点はあるわけだけど、すべてにおいてイスラームの教えが重視されるムスリム社会を異教徒が正確に理解するのはなかなか難しい。
で、今回の展覧会はサウジアラビア国家遺産観光庁主催で、副長官のアリー・アルガッバーンさんがご挨拶を書いておられた。観光庁長官はスルターン・ビン・サルマーン・アブドゥルアジーズ・アール・サウード王子。協賛は世界最大のサウジ国有石油会社、アラムコですな。ちょい前にIPO(新規株式公開)があるんじゃないかと市場をざわつかせたが、どーやら中止になったようです。上場したら初値はいくら付いたんでしょうね。端っから買えない価格だったろうけど。
それはともかくアルガッバーン副長官によると、サウジではリヤド国立博物館の設立に向けて、考古学的発掘とその研究が進んでいるらしい。石油の国というイメージだけでなく、豊富な考古学遺物を活用して観光立国の道を模索する動きが出ているようだ。二〇一七年には第一回サウジ考古学総会も開かれている。規模はわからないが、日本を含めた西側諸国との共同発掘調査も行われている。今回の展覧会は、一部だがまとまって展示発表できる考古学調査のお披露目のようだ。
展覧会場は平成館ではなく表慶館。ちょっと小規模の展覧会である。表慶館は展覧会があるときだけ解放されるが、明治四十二年(一九〇九年)に大正天皇(当時は皇太子)のご成婚を祝う目的で建設された。設計は片山東熊。ネオ・バロック様式で外観も内装も素晴らしい。上野公園エリアでは国立西洋のコルビュジエ設計の建物が世界遺産になって大騒ぎだったが、東博の本館と表慶館、それに国立科学博物館の建物の方が断然いい。東博本館と表慶館は照明機材が貧弱だった時代に、太陽光での明かり取りまで繊細に計算した日本人設計者の知恵が結集された傑作である。
表慶館は和洋折衷のエキゾチックな建物だが、なぜかお洒落な展覧会が開かれることが多い。エルメス「レザー・フォーエバー」展やフランス人間国宝展など、最近ではおフランス系の展覧会が開かれた。美術館にエルメスの超高級オートクチュールバッグが展示され、フランス人間国宝制作のアンブレラや扇などが展示されているのはちょっと奇妙な光景だった。わたくし思わず値段表を探しました。現代作で買えるんだから、値段がわかんなきゃ意味ないじゃんと思ったけど、当然ありませなんだ。表慶館で超一流ファッションブランドのショーや即売会をやったら売れるだろうなぁ。あ、また脇道に逸れました。
『人形石柱』
カルヤト・アルカァファ(ハイ―ル)出土 前三五〇〇~二五〇〇年頃 砂岩 高九二×幅二一センチ サウジアラビア国立博物館蔵
『彩文土器』
フルサ-ニ-ヤ出土 前五〇〇〇~四〇〇〇年頃 土製 高一〇×径六・七センチ サウジアラビア国立博物館蔵
『石製容器』
前二五〇〇~二〇〇〇年頃 緑泥岩 高七・五×径一一・五センチ サウジアラビア国立博物館蔵
『人形石柱』はアラビア半島の遊牧民が作ったモニュメントで、こういった人物像が墓や祭祀施設からいくつも出土している。腰に短剣を差しているのでアラブ人の祖先らしい像だ。中東では今でも多くの男たちが、正装の際には腰に儀礼用の短剣を差している。ただサウジから出土したと言っても『彩文土器』や『石製容器』はアラブオリジナルではなく、異文化との交流を物語っている。
人類発祥の地がアフリカだということはDNAの研究などで確定している。アフリカから陸路や海路伝いに人類は全世界に拡がっていったわけだが、その痕跡を初源にまで遡って検証するのは難しい。特に考古学はそうで、何が出土するかによってそれまでの学説が修正されたりひっくり返ったりする。
『彩文土器』や『石製容器』と同じタイプの物が、チグリスユーフラテス川沿いの、いわゆるメソポタミア文明の遺跡からも数多く出土している。これらの製品が交易によってもたらされたのか、あるいはアラビアで模倣品が生産されたのかはわからない。ただエジプトから中東、インドエリアは地続きなので人と物の交流は盛んだった。またアラビア半島はもの凄く広い。地域ごとにかなり異なる文化が華開いていた。
『饗宴』
カルヤト・アルファーウ 一~二世紀頃 フレスコ 長五三×幅三六センチ サウジアラビア国立博物館蔵
『ヘラクレス』
カルヤト・アルファーウ 一~三世紀頃 青銅 高二五・三センチ キング・サウード大学博物館蔵
いきなり三千年ほど飛んでしまうが、西暦一世紀を超えると中東でもローマ帝国の影響が強くなる。古代文明のほとんどがそうだが、帝国誕生期には破竹の勢いで領土拡張が進むことが多い。今とは国境線や民俗意識がだいぶ違っていたんでしょうね。
今回の展覧会ではアラビア半島で栄えたいくつかの古代帝国発掘品が、まとめて展示されていた。カルヤト・アルファーウ出土品もその一つで、ルブゥ・アルハーリー砂漠の端っこに位置するオアシス都市だった。オアシスといっても砂漠の中にポツンと池があるような小さなものではなく、巨大である。カルヤト・アルファーウはローマの属州ではなく、キンダ王国と呼ばれる独立帝国だった。
『饗宴』は大きなフレスコ画の一部だが、描かれているのはディオニュソス神だ。葡萄(つまりワインの原料)が真ん中に描かれている。フレスコ画はローマで盛んに作られたが、『饗宴』の画はプリミティブである。ディオニュソスはギリシャの神々の一人として名高いが起源は東方にある。理知的なギリシャ文明が他方で必要とした、酩酊と狂乱を表象する神様である。画の技法はローマだが、ディオニュソス神の描き方はアラビア独自のものかもしれない。遠近法を使わない完全な二次元画法である。
ヘラクレスもギリシャの英雄神である。青銅製で二五センチほどと小さいので、アラビアで作られたのではなくローマのどこかの都市から運ばれてきたのだろう。カルヤト・アルファーウからはかなりの数のローマ製青銅立像や銀食器が出土している。一方でメソポタミアやエジプト文化の影響を受けた遺物、あるいは輸入品もある。紀元一世紀頃のアラビアでは様々な文化が入り交じり、やがて到来するアラビア独自の文化の下地が形作られていた。
『クーファからマッカへの里程標』
ダルブ・ズバイダ 八世紀後半 花崗岩または玄武岩 高五〇×幅四二×奥行一三センチ サウジアラビア国立博物館蔵
『アブドゥッラーの息子ユーフスの墓碑』
マッカ 一一九九年 玄武岩 高七〇×幅三四×奥行二三センチ ジェッダ博物館蔵
西暦で言うと紀元六二二年からイスラーム世界は歴史時代に入る。イスラーム教を創始したムハンマドはマッカの商人だったが、ある時から神の声が聞こえるようになった。彼は自分は気が狂ったのではないかと怯えるが、最初の妻ハディージャの励ましもあって布教を始めることにした。ただ当時のアラビア世界は多神教で、カアバ神殿にはたくさんの神像が置かれていた。アラビア各地から礼拝に訪れる人も多く、マッカは巡礼者で賑わい潤っていた。当然、マッカの人々は一神教を唱えるムハンマドを疎んだ。宗教対立だけでなく、経済的対立もあった。
身の危険を感じたムハンマドは近くのマディーナの町へ避難し、マディーナはマッカと対立していたこともあって大歓迎を受けた。マディーナの人々はムハンマドの教えを受け入れた。最初期のムスリムとなったのである。マディーナで力を蓄えたムハンマドは軍勢を引き連れてマッカに攻め上った。マッカの人々は町を無血開城し、ムハンマドはカアバ神殿の神像をすべて破壊してイスラーム教の基盤が定まった。聖遷である。それが西暦六二二年でヒジュラ暦元年である。
だから西暦六二二年以降は、イスラーム世界では暦は本当はヒジュラ暦で記さなければならない。いくつもの煌びやかな文明が華開いたが、ヒジュラ以前のアラビア世界は、ムスリムにとってはジャーヒリーヤ(無明)時代なのである。アッラーという唯一神をまだ知らなかった無知蒙昧の精神の暗黒時代だから、基本この時代の遺物をムスリムは長い間重視してこなかった。今でも偶像崇拝は――特にスンナ派では――御法度である。
『クーファからマッカへの里程標』は、ウマイヤ朝初代カリフ、ムアーウィヤ時代に建てられた里程標である。最初期のイスラーム文化の遺物の一つである。『アブドゥッラーの息子ユーフスの墓碑』は一一九九年と年代が分かっているからアッバース朝時代のものだ。すでにイスラーム様式が根付き、墓碑の上の方にモスク型のドームがある。恐らく『クルアーン』の章句と埋葬者の名前や部族名などが刻まれている。
ムハンマドは神の言葉を聞いて(預けられて)それを人々に伝えた預言者であり、自分は人間であり死後神格化することは許さないと言った。ムハンマド存命中にイスラーム帝国はあっという間に膨張し、中東から北アフリカ、スペインにまで及ぶ大帝国になった。ムハンマドの死後、ウマイヤ朝はムハンマド近親者によって受け継がれることになるが四代で絶えてしまう。この時代を〝正統カリフ時代〟という。いわばムハンマド血縁者による親政時代であり、ムスリムにとって神話時代に近い。パキスタンを始めとして新たに国(イスラームにとっての理想的国家)を興そうとする者は、必ずと言っていいほど正統カリフ時代の復活を理念として掲げる。最近ではISISもそうですな。
正統カリフ第四代のアリーはムアーウィヤとの戦いに破れ暗殺されてしまうのだが、ここからアリーを始祖とするシーア派が興った。アリーがシーア派初代イマームということになる。このあたりの教義は複雑だが、イスラームが政教一致(地上も天上も神のもの)であり、ムハンマド自身が預言者で神ではない、つまり〝神の代理人〟であったということを頭に入れておくと理解しやすい。イスラームにとって代理という概念は重要なのだ。
つまりアリーを倒してウマイヤ朝初代カリフとなったムアーウィヤから始まって、イスラームの大多数を占めるスンナ派はオスマン帝国時代に至るまで、カリフ、すなわち神の代理人ムハンマドの代理人であるカリフを指導者(イスラーム帝国の王)とした。シーア派はイスラーム以前に中東で最も文化の栄えたペルシャ人独自のイスラーム教だと言っていいが、彼らは正統カリフ最後のアリーの代理人という意味でイマームを指導者(王)としたのである。
このあたりのイスラーム世界の仕組みは複雑で、一筋縄ではいかない。宗教指導者が為政者として有能だとは限らないのは当然のことである。だから現実世界を統治できる優秀な政治家で武人が国のトップに立つのは自然である。ただイスラームは政教一致だから、国のトップは宗教上のトップでもなければならない。これが完全に一致するのは稀で、スンナ派ではウラマーと呼ばれる学者たちが王を補佐することが多い。イスラームでは聖職者はいないのでウラマーが実質的にそれに該当する。
シーア派ではイラン革命を主導したホメイニー氏が政治家兼宗教指導者として有名だが、彼のような人材はなかなか出ない。またホメイニー氏はイマームそのものではなく、イマームの代理人という意味で、単純化されてイマーム・ホメイニーと呼ばれたりするだけである。今のイランでも政治家と宗教指導者は基本的には別で、両者が微妙な形で対立し、時に協力し合いながら国を統治している。全身全霊で神を信じるなら地上も天上も神のもの、つまり政教一致は原理的でとてもわかりやすいのだが、それを実践するとなると様々な現実的問題が生じてしまうということである。
『クルアーン(コーラン)』
北アフリカまたは中東 アッバース朝時代・九世紀 羊皮紙 縦一四・五×幅四〇(見開き)センチ サウジアラビア国立博物館蔵
今回の展覧会で出品されていた、最も古い『クルアーン』である。『クルアーン』は神の言葉が記された聖典だから、当然だがとても大事にされる。古いものでも新しい印刷物でも同じである。また『クルアーン』はアラビア語で語られた神の言葉を書いたものだから、アラビア語版が最も神聖である。中東地域にアラビア語が普及したのは『クルアーン』の影響が大きい。装飾文字化も盛んに行われ、いわゆる習字のような装飾系の文字は、中国韓国日本などの東アジアと中東にしかない。中東にはいわゆる書家がいる。
ただイスラーム時代に入ってからの遺物を展覧会などで公開するのは、ムスリムにとってなかなか難しいだろう。日本でも秘仏などがあるのと同じように、生きた宗教遺物なのだから無闇に人の目にさらせない。イスラームの教えに従えばジャーヒリーヤ時代の多神教遺物は無価値だろうし、初期ウマイヤ朝の遺物は、もし残っていてもそうそう簡単に公開することはできないはずだ。サウジというお国柄を考えると、かなり頑張った展覧会だった。
『アブドゥルアジーズ王のクルアーン』
二〇世紀 紙、インク、金 縦二六・五×横一九×厚五センチ キング・アブドゥルアジーズ財団蔵
『クルアーン(コーラン)の箱』
パキスタン 二〇世紀 金属 縦二八×横三三×厚八センチ キング・アブドゥルアジーズ財団蔵
展覧会の最後のコーナーは、現在のサウジ王国を建国したアブドゥルアジーズ王のコーナーでした。『クルアーン』とその箱は、パキスタンから贈られた物である。
ユダヤ、キリスト、イスラーム教はよく知られているように、神を人格神とし、唯一神を信仰するセム族の宗教であるとして、セム一神教と総称される。ユダヤ教はヤハゥエを唯一絶対の創造神とするが、ユダヤ人にしか信仰が許されなかった。キリストはそれをすべての人々に解き放った。ユダヤ人しか飲めなかった葡萄酒が誰でも飲めるようになった――つまり「水が葡萄酒に変わった」のである。
イスラームはセム一神教の中では最も新しい宗教だが、ムハンマドはキリスト教の三位一体を退け、アッラーのほかに神なしと説いた。キリストはモーセらと同じ預言者であり、自分もまた預言者の一人であって神ではないと言ったのだった。これは正しいですね。キリストは神の子であって神そのものではないわけですから。キリストが神であるというのは、神の子として人間として生まれたキリストの中に神性が宿っているという意味である。
またムハンマドの教えには、砂漠の中東エリアで根深く存在する部族主義を打ち破る効果もあった。砂漠地帯では人々は離ればなれに住んでいて、○○族であるということを自らの誇り(アイデンティティ)にしていた。気候条件も厳しいので、飢えれば略奪もやむなしという暗黙の了解も存在していた。そんなアラブ社会に、ムハンマドはアッラーの元で人間はすべて平等であり、アッラーの教えに従って無茶な略奪等々を禁じるという倫理規範を打ち立てた。ムスリムがイスラーム以前のアラビア世界をジャーヒリーヤ(無明時代)と呼ぶ所以である。
ただアラブ世界では今でも部族主義が根強い。恐ろしく強い。第一次世界大戦でイギリス・フランスがオスマン帝国崩壊の秘密作戦を遂行したが(『アラビアのロレンス』で有名ですね)、その一番の原動力がアラブ世界に根強い部族主義を復活させることだった。要するにイスラームはアラブ人が始めたのに、なぜトルコ人が王なのか、ということである。ISISのマニフェストには、確かサイクス=ピコ協定の破棄も入っていましたな。
杓子定規に言えば、現在の中東国家は部族主義王国である。サウジアラビアはサウード家のアラビア王国という意味だ。トルコは民主化したがかなり危ういのは衆知の通り。ただオスマン以前も今も、イスラーム世界は王を戴く帝国であり、政教一致であったのは同じである。わたしたちは日本的民主主義、アメリカ的民主主義が一番と考えがちだが、それはどうかなーとは思う。特にイスラーム世界では、まず間違いなく西側民主主義制度は受け入れられない。
宗教理念としては、イスラームは単純明快な原理主義である。その教えは『アッラーのほかに神なし』に終始する。ただそれゆえ現実世界での葛藤が厳しい。政教分離のキリスト教などに比べて政教を一致させるのは恐ろしく難しいのだ。ただだからこそ、イスラーム世界の動向は貴重である。イスラーム世界は今もダイナミックに動き続けており、いつの日かイスラームを宗教・政治・経済の基盤とした、新しい社会フレームを作り出すかもしれない。そこでの矛盾の解消は、今は先進的と思われている西側文化にも影響を与えるでしょうね。
で、展覧会場を出て東博の売店でカタログを買ったら『サウジアラビア王国 諸文明の交流拠点』の小冊子と、大きなポスターまでお土産についてきた。気合いの入った展覧会だなー、サウジ大使館での展覧会開催レセプションはさぞ豪華だったろうなーと思ったのでした。
鶴山裕司
(2018/03/17)
■ 鶴山裕司さんの本 ■
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