『特別展 仁和寺と御室派のみほとけ-天平と真言密教の名宝-』展
於・東京国立博物館 平成館
会期=2018/1/16~3/31
入館料=1600円(一般)
カタログ=2800円
JR東海のテレビコマーシャル「そうだ、京都行こう」でお馴染みの、仁和寺の宝物展である。一般には御室桜で有名だ。四月下旬に咲く八重桜だが、温暖化だから御室桜の開花時期も繰り上がっているかな。それに最近の京都は外国人観光客で押すな押すなの大盛況だから、仁和寺の花見も恐ろしいことになっているかもしれませんね。
焼物好きは野々村仁清の御室焼を思い出すかもしれない。仁清窯は仁和寺門前にあった。もちろん仁和寺の許可を得ている。仁清は通称清右衛門だが、仁和寺門跡から「仁」をもらって仁清を号した。今回の展覧会に仁清作品はなかったが、仁清の大パトロンは宇多源氏の佐々木京極家である。ほかの陶工と同様、仁清の生涯の詳細はほとんどわかっていないが、仁和寺との縁は深かったと見ていいだろう。
言うまでもないが仁和寺は御室とも呼ばれる。由来は譲位された宇多法皇がお住みになった部屋があるからである。天皇(法皇)が住む部屋を御室と呼んだのだ。それがいつしか仁和寺の別称になった。というか仁和寺は宇多天皇創建である。話は前後するが、まず仁和寺の歴史をザッとおさらいしておきましょう。
仁和寺は元々光孝天皇が発願された寺だが、果たせずお亡くなりになった。そのため意志を継いだ息子の宇多天皇が仁和四年(八八八年)に創建なさった。年号の仁和を取って仁和寺と呼ばれたのである。宇多天皇は寛平五年(八九三年)に醍醐天皇に譲位され、昌泰二年(八九九年)に出家し仁和寺に入り法皇となった。仁和寺は真言密教の寺であり、法皇も深く密教に帰依された。延喜元年(九〇一年)には伝法灌頂を受け、阿闍梨となって弟子たちを指導した。密教は様々な法統となって受け継がれたが、仁和寺は現在、全国約七九〇の寺を束ねる真言宗御室派の総本山である。
宇多法皇は承平元年(九三一年)に崩御したが、仁和寺は由緒正しい御願寺であり、代々皇族が門跡を務めるのが慣例だった。これは明治維新まで続いた。もちろん創建当初の姿のまま現在に至ったわけではない。たびたびの火災で伽藍を焼失したほか、応仁の乱ですべての堂塔が焼かれ焼け野原になった。大事な仏像や経典は近くの真光院に移していたので無事だったが、以後真光院が仁和寺本坊の役割を担うことになった。
再興が叶ったのは応仁の乱から約一五〇年も後の寛永十一年(一六三四年)である。仁和寺大二十一世覚深法親王が徳川三代将軍家光に再興を申し入れ、幕府の力で伽藍が再建されたのだった。この時京都御所の建て替えも同時に行われ、御所の殿舎が移築された。完全に復興が成ったのは正保四年(一六四七年)のことである。再興に十三年も費やした大事業だった。今の仁和寺金堂は御所の紫宸殿(天皇が儀式や公務を行う建物)をお堂に改めたものである。仁王門を潜って真っ直ぐ行くと見えてくる、あの鳥が羽を休めたようなどっしりとした姿の立派な建物だ。当然国宝指定されている。
つまり伽藍は創建当時のままではないが、仁和寺は現在まで一一〇〇年以上も続いている寺ということになる。とてつもなく長い。今回の展覧会は千年の長きに渡って仁和寺で受け継がれてきた主な寺宝、それに御室派寺院の秘宝を展示する企画だった。そのため広い川に点々と頭をのぞかせる飛び石を伝ってゆくような展覧会だったという印象は否めない。こういった展覧会ではよくあることだが、一つ一つの展示物が膨大な背景を持っているのだ。ただどんな場合でも創始者は偉大である。仁和寺の基盤はやはり宇多法皇にある。
『宇多法皇像』
一幅 絹本着色 縦一三二・八×横七〇・二センチ 室町時代 十五世紀 仁和寺蔵
第五十九代天皇宇多は藤原摂関家の影響力を抑止しようとしたことで知られる。受験で日本史を勉強した方は聞いたことのある阿衡事件ですね。宇多は源氏に臣籍降下していたのを藤原基経の推挽によって皇太子となり、天皇に即位した。即位後すぐに基経を関白に任ずる詔勅を出したのだが、この時左大弁橘広相が書いた「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」の文章に基経が噛み付いた。広相は中国の故事を引用しただけだが、基経は阿衡は位は高いが役職のないお飾りではないかと難癖をつけたのだった。結果宇多は広相を解任し、基経は天皇が変わっても藤原北家の権勢が絶大であることを朝廷内外に示した。宇多の広相の寵愛を疎ましく思っていたのかもしれない。
宇多は光孝天皇の第七皇子でいったんは臣籍降下までしているのだから、擁立そのものが基経の政略の一環だった。ただ基経が予想していたより遙かに英明で覇気の強い天皇だった。菅原道真らを重用して藤原家の権勢を削ごうとした。宇多は在位十年で譲位し醍醐天皇が即位した。藤原北家は基経から時平に代替わりしていたが、宇多は醍醐に命じて道真を権大納言に任じ大納言時平と二頭政治を行わせようとした。この人事は藤原家を憚る公卿の出仕拒否を引き起こしたが、宇多法皇の働きかけでなんとか新政が船出した。
ただ道真は昌泰の変(昌泰四年[九〇一年])で、宇多の子で婿である斉世親王を皇位に就かせようとした嫌疑で失脚し、太宰府に左遷されてしまった。相変わらず藤原家の力は強く時平の権謀術策が優ったのだった。道真は今では日本各地の天満宮に祀られる学問の神様である。『菅家文草』などを読むと確かに頭の切れる人だ。しかしちょっと鼻持ちならないところがあり、失脚の恨み辛みも激しかった。後に怨霊神として恐れられるだけの素地はありますな。道真の文章を、都の人たちはこぞって読んでいたということでもある。官僚としては優秀だったろうが、あまり人好きのする方だったとは思えない。
それはともかく宇多法皇は道真左遷の年(昌泰四年だが改元して延喜元年になっていた)に伝法灌頂を受けて阿闍梨になった。僧侶として弟子を持つことができるようになったわけだが、それにより政界に距離を置いたわけではない。むしろ影響力は強まった。この時代政治と宗教は密接に関係していた。当時は最澄を開基とする天台宗の力が強かったが、宇多は空海を師と仰ぎ真言密教の教えを広めた。平安時代は院政の時代だが、宇多は法皇という比較的自由な立場で隠然とした政治的影響力を持ち続けたのである。
宇多の治世は後に理想化されて寛平の治と呼ばれるようになった。道真と基経の政争が背景にあるが遣唐使を廃止したのは宇多である。『日本三代実録』などの歴史書も時平や道長に編纂させた。在原業平と言うと必ず引き合いに出される「体貌閑麗、放縦不拘 略無才学、善作倭歌」(ハンサムで美丈夫だったが漢学の知識は無く、女を口説く和歌が上手かった)の記述がある歴史書である。天皇時代に寛平御時菊合、寛平御時后宮歌合を行い、法皇になってからも亭子院歌合などの歌会を開いている。
つまり『古今和歌集』『源氏物語』『新古今和歌集』と続く国風文化の基礎は宇多の治世に定まった。ただ今では平安文学と言うと和歌と日記、物語の平仮名文学しか思い浮かばないが、当時文学は漢詩漢文を指していた。女手の平仮名文学は添え物だったのである。また国風文化は中国文化をローカライズしたものであり、その基盤は仏教に置かれていた。仏教思想がなければ和歌、日記、物語文学は深みを持たない。宇多法皇は仁和寺で仏教思想を貴族社会に広めた人でもある。
『孔雀明王像』
一幅 絹本着色 縦一六七・一×横一〇二・六センチ 中国・北宋時代 十~十一世紀 仁和寺蔵
宇多の時代より少し下がるが、中国から将来された大きな孔雀明王像である。密教だけにある明王で、だいぶ退色しているが往事は絢爛豪華な像だった。この孔雀明王像を本尊として孔雀経法と呼ばれる密教の呪法祈願が行われた。いつ孔雀経が日本にもたらされたのかは定かでないが、空海が弘仁二年(八一〇年)に鎮護国家のために高雄山寺(神護寺)で『仁王経』『守護国界主経』、それに『孔雀経(仏母大孔雀明王経)』を修したことで広く知られるようになった。『孔雀経』は鎮護国家の大法祈願の修法だが、孔雀は毒蛇を食べると信じられていたことから天変地異や病気平癒、安産祈願などさまざまな災厄を払うために修された。もちろん個人で孔雀経法を受けることができるのは超のつく貴人だけだった。
仁和寺には有名な高倉天皇唯一の遺墨(宸翰)が伝わっている。第六世守覚法親王が中宮徳子のために孔雀経修法を行い、無事皇子が生まれたことに対する礼状である。言うまでもなくこの皇子は壇ノ浦に沈んだ安徳幼帝だ。この時の修法の内容は『孔雀経法開白次第』に記されていて、これも出品されていた。孔雀経修法は効験絶大とされ、仁和寺門跡相承の秘儀となり、『孔雀明王像』や『孔雀経』の持ち出しが固く禁じられた。平安時代後期には仁和寺の独占修法になっていたようだ。
孔雀経に限らないが、いわゆる加持祈祷は密室で行われるわけではない。当時の貴人には大勢の女房らが仕えており僧侶とともに祈り修法を見守った。百年ほど後になるが、たとえば『源氏物語』では葵の上や紫の上が病に倒れた際に盛んに祈祷を行っている。孔雀経かどうかはわからないが密教の修法である。
平安時代の人々は強い自我意識を持っていたが、一方で濃厚な共同幻想世界に生きていた。『源氏』『葵』の帖では葵の上が夕霧を産むが大変な難産で、盛んに加持祈祷が行われた。人々は葵の上に取り憑いた物怪は六条御息所の生霊ではないかと噂する。光源氏に御息所という愛人がいることは誰もが知っていた。源氏の愛人夕顔が亡くなった時にも御息所の生き霊がとり殺したのだという噂が立った。位の高い御息所はライバル女性に嫉妬することなどプライドが許さないが、人々はプライドが高いからこそ嫉妬心も強いのだろうと思ったのである。
根も葉もない噂話だが、御息所自身が人々の噂の影響を受けてしまう。葵の上が出産で苦しんでいる時に、御息所はふと気を失って目覚めた時に、護摩の匂いがしたように感じた。加持祈祷の際の護摩が衣に移ったのだ。意識を失っていた間に魂が身体から抜け出て、葵の上の枕元に行ったのではないかと怯えるのである。
こういった共同幻想は平安時代ならではのものである。病は気からと言うと俗に過ぎるが、密教の修法は人々の深層心理に働きかけ、一定の方向に導く強靱な力を持っていた。集団トランス状態から生まれる共同幻想だ。平安和歌の多くは相聞歌だが、想いの念が相手の心の奥底を揺り動かすという共同幻想がなければあれほど強い和歌は生まれない。
仁和寺本『孔雀明王像』はより霊力が高い(と考えられた)本場中国の仏画であり、携帯に便利な軸である。薄暗い部屋の中に絢爛豪華な軸を掲げ、盛んに護摩を焚いて大音声で経を唱える。そういった修法で何度も使われた軸だろう。密教の教義について知らなくても、残された物からそのあり方をうかがい知ることができる。
『三十帖冊子』 空海直筆目録部分
空海ほか筆 三十帖 紙本墨書 縦一二・八~一五・八×横一四・一~一八・七センチ 平安時代 九世紀 仁和寺蔵
『宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱』
一合 乾漆製、漆塗・蒔絵 縦三七×横二四・四センチ 平安時代 十世紀 仁和寺蔵
『三十帖冊子』は空海が、唐の長安青龍寺で恵果阿闍梨から伝授相承した密教儀軌や密教経典を、唐の写経生らとともに書写して日本に持ち帰ったものである。本当に小さな冊子に細字でびっしりと経典が書き込んである。書体も様々で、大勢の写経生が動員されたことがわかる。ただ字体は謹厳だ。空海の唐の滞在期間はわずか二年ほどだが、恐るべき熱意で密教を吸収受容したことがうかがい知れる。これも原本はなかなか見られない。本などは美術展では一番観覧に不向きだが、長い列に並んでまじまじと見てしまった。
『宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱』は、醍醐天皇が『三十帖冊子』の散逸を防ぐために作らせた箱である。最初期の経箱の遺例である。補修はされているだろうが驚くべき状態の良さだ。最初に空海を庇護したのは嵯峨天皇で高野山を下賜するなどした。しかし人間の業績の真価はその死後に定まる。特に文学者や思想家はそうだ。生きている間の存在感が消えてなお、人の心と精神を揺り動かせるかどうかが問われる。
宇多天皇は空海より約半世紀ほど後の人だから当然実際に相対したことはない。しかし宇多が最も心惹かれたのは空海の思想と教えであり、自ら阿闍梨という宗教者になった。時代精神の大きなうねりが密教的な方向へ進んでゆくのを敏感に感受したためでもあるだろう。いつの時代も現実は残酷で理不尽だが、平安時代ほど人間の意識が救いと絶望の間を大きく往還し続けた時代はない。宇多法皇を嚆矢として仁和寺門跡が皇統によって受け継がれたことは、密教が国家的仏教の位置づけを得たことを意味する。
『医心方』
二帖 紙本墨書 縦二七×横一六・七センチ 平安時代 十二世紀 仁和寺蔵
仁和寺本の『医心方』も実物を見たかったものの一つだ。『医心方』は中国の前漢から随、唐時代の医学書のダイジェストである。中国では全巻残っていないが、日本では正親町天皇が典薬頭・半井光成に下賜された本が全巻揃っている。『医心方』最古の写本である。仁和寺本は半井本より書写時代が若く、かつ全十巻のうち五巻しかない。ただ半井本と同様秘宝だった。森鷗外は『伊沢蘭軒』で「仁和寺本と称する一本があつた。そしてその秘して人に示さぬことは、半井本と殊なることがなかった」と書いている。
『医心方』は幕末の寛政三年(一七九一年)に、幕府による国家的事業として半井本の臨模復刻が行われた。これについても鷗外が『渋江抽斎』や『伊沢蘭軒』で書いている。『伊沢蘭軒』には「隋唐経籍志に就いて検すれば、佚亡の書の甚多いことが知られる。それゆえせめては間接に此時代の事を知らうといふ願望が生ずる。これは独り医家を然りとするのみでは無い。考古学者と雖亦同じである」とある。
幕末には西洋の技術文化が流入し始めていたが、一方で国学も盛んだった。あまり注目されることはないが、漢学の世界でも考証学者を中心にした古典籍の研究が行われていた。『医心方』臨模復刻はそのメルクマールである。当然、半井本と併せて仁和寺本も考証された。
仁和寺に『医心方』が伝来したのは半ば当然である。僧侶は修法で病などを治そうとするが、同時に薬(漢方)の調合なども行った。生と死を司る僧侶は漢方の研究も行っていたのである。江戸になるとそれを儒者が担うようになり、漢籍を通じて西洋医学の先進性を知った儒者の中から蘭方医が生まれて来る。和文の和歌や俳句、物語と漢詩漢文は異質の表現に見えるが、和文表現に決定的影響を与えた新たな思想や文化は、常に中国経由の漢文によってもたらされている。
『僧形八幡神影向図』
一幅 絹本着色 縦九一・七×横五〇・一センチ 鎌倉時代 十三世紀 仁和寺蔵
仁和寺の『僧形八幡神影向図』は、いわゆる神仏習合図の中で一番好きな作品だ。平安時代に仏教が盛んになると、日本の神様(神道の八百万の神々)は、本当は様々な仏が姿を変えて現れた姿であるという思想が生まれた。本地垂迹説である。ただ神道は日本古来の宗教であり、元寇で神風が吹いて元軍を撃退したという奇跡(と信じられた)もあって、鎌倉時代にはその反動として反本地垂迹説も唱えられるようになった。宗教的には大問題だが、日本では神道と仏教が混交しながら信じられて来た。
『僧形八幡神影向図』には僧侶と跪拝する二人の貴族が描かれている。装束から文官と武官である。彼らの上に金色の人型の影が浮かんでいる。これが八幡神で、僧侶は八幡神が影向(仮の姿をとって現れた)した姿であると示唆されている。つまり神様にははっきりとしたお姿がない。それに対して仏教の仏は人型で良いのである。
神は不朽普遍であり、絶対ではあるが思想的深みを持たない。それに対して仏教の始祖・仏陀は――後に神格化されることになるが――修行者であり人間として寂滅(死亡)した。それゆえ仏教は現世的な苦悩と愉楽を往還する。平安時代には仏像の影響もあって盛んに神像が作られたが神は本来的に姿形を持たない。仁和寺『僧形八幡神影向図』は神と仏のあり方を最も端的に表現した宗教画だろう。
日本は島国であり、ほっておけば停滞しがちな日本文化は、常に外国からの刺激を求め続けてきた。密教の時代の後には禅の時代があり、江戸になると仏教に代わって儒教の時代になる。その次は欧米文化の時代だ。細かく見ていけば、さらに様々な思想文化が重層化している。その重層化した文化基盤が日本文化を生んでいる。
ただ今に至るまで仏教の影響は決定的だ。密教的な妄想空間の中で煌びやかな想像世界を垣間見る芸術と、禅的な無の意識で現世を冷たく眺める芸術は日本文化の中に混在している。また現在では天皇家は神道の実質的最高祭主の位置付けだが、歴史的に見ればそう単純ではない。天皇家はずっと仏教とともにあり、貴族知識人層から庶民に至るまで絶大な影響を与え続けた。そして日本文化の骨格は平安中期の『古今和歌集』によって形作られたのであり、宇多法皇仁和寺がその端緒に位置している。
鶴山裕司
(2018/03/15)
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