骨董の世界では、よく「骨董ではあんまり夢は見ない方がいい」と言う。たいていは値段や真贋を巡る話をしている時だ。相場よりもの凄く安い値段の骨董(いわゆる掘り出し物)や珍品には気をつけた方がいいということである。確かになんでも鑑定団では、時々タダみたいな値段で手に入れた物が何百万円と鑑定されることがある。しかしそれはビギナーズラックであり、ずっと骨董を買ったり売ったりしていると、そうそうラッキーは降ってこない。
ただ夢やロマンがなければ骨董は面白くないのも確かである。天平時代の瓦などは残闕なら比較的安く入手できるが、実際に手に取ると「これが天平の甍かぁ」と遠い目になってしまう。ロマンのあり方は人それぞれだが、今はもう失われてしまった文化を、物を通してリアルな手触りとして感じ取れるから骨董は面白いのだ。
で、今回は、少なくとも僕が遠い目になってしまった骨董である。ビザンティン陶器、今は亡きビザンティン帝国で作られた陶器である。首都はコンスタンティノープル、今のトルコ共和国のイスタンブルにあった。
現在のトルコ共和国の位置を、ちょいと範囲を拡げて図版掲載してみた。トルコはシリア、イラク、イラン、アルメニア、ジョージア、ギリシャ、ブルガリアと国境を接していて、黒海沿岸にルーマニア、ウクライナ、ロシアがある。地中海にはレバノン、イスラエル、エジプト、リビア、チュニジア、イアタリアなどの国々が並ぶ。黒海はマルマラ海からエーゲ海を通って地中海に繋がっているが、トルコ領のボスポラス海峡とダーダネルス海峡を抜けなければ行けない。もちろん相当距離があるが、まあ地図を見るだけでも面倒くさそうな地政学的位置である。実際、このエリアの歴史は非常に複雑だ。
ビザンティン帝国の滅亡は、僕が学生だった一九八〇年代頃まではヨーロッパの視点で語られるのが普通だった。ほんの三十年ほど前なのだが、当時はまだまだヨーロッパ史観が標準だった。日本はヨーロッパ中心史観と関係がないと言えばないのだが、御維新以降、ヨーロッパ兄さんには非常にお世話になっている。衣食住から政治経済医療科学化学までたくさんのことを教えてもらった。だから先端技術等々を学ぶのはもちろん、八〇年代頃までヨーロッパ文化の理解欲求も盛んだった。ギボン大先生の長い長い『ローマ帝国衰亡史』も学生の間でけっこう読まれていた。ただま、なぜローマの歴史を知りたいのか、知らなければならないのかという動機付けがなければ、もんのすごく退屈な史書であります。
しかし二〇〇〇年前後から世界情勢が変わってきた。メルクマールになったのは二〇〇一年のアメリカ同時多発テロだろう。中東というか、イスラームが世界に与える影響が非常にクローズアップされてきたのである。イスラーム教やイスラーム世界の歴史に関する興味も一昔前より格段に進んだ。ただアメリカ同時多発テロは突然起こったわけではない。その前から不穏な空気は流れていた。極東にいる僕ですら、一九九〇年代後半にパレスチナ問題を中心とする本を読み漁っていた。アメリカ同時多発テロには驚いたが、ああ、やっぱり起こったかとも思った。
僕は『国書』という詩集に『中東』篇を作り五篇詩を書いたが、一九九〇年代末頃からイスラーム世界が政治的にも歴史、思想的にも重要になるという予感があった。イスラームが提示している問題が人間の生を巡る根本的なものだったからである。極論を言えば神的なるものと人間存在を巡る問題である。
杓子定規に言えば欧米社会は神と現実社会を切り離すことで空前の繁栄を謳歌して来た。しかし繁栄の行く先が見えず、先進国の人々は何を生の倫理や指標とすべきなのか惑い始めている。一方でイスラーム世界はありとあらゆる人間的矛盾を抱え、欧米社会の繁栄から大きく立ち後れながら、ずっと神と人間存在のあり方を問い続けて来た。
もちろん宗教は考えるものではなく信じるものである。だからキリスト教徒でもムスリムでもない僕には、敬虔な信徒たちの心中は具体的にはわからない。ただ基本的にキリスト教史観に基づいている現代思想は、それだけを基盤にしていては早晩行き詰まると思う。イスラームや禅を含む東洋思想をマージしてアウフヘーベンしてゆく時期に差しかかっている。
思想は単独で生まれることはない。社会全体の大きな動揺や変化に連動している。でなければ思想が肉体的説得力を持つことはないのだ。歴史上、新たな思想を生むメルクマールになった出来事はいくつもある。アメリカ同時多発テロもその一つになるだろう。ビザンティン帝国滅亡も大きな結節点の一つだった。中世から近世のとば口でこの大事件は起こった。以後ヨーロッパは大航海時代に入り繁栄を誇るようになり、イスラーム世界は限られたエリアで繁栄を謳歌しながら、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて露わになる現代性からじょじょに立ち後れていった。東ローマを亡ぼしたにも関わらず、である。なぜそんなことになったのだろうか。まずはざっとビザンティン帝国の滅亡経緯をおさらいしておきましょう。
ローマ帝国は巨大過ぎる版図を誇っていたが、遂にどんなに手を尽くしても帝国全土を管理・支配しきれなくなった。そのためテオドシウス一世没後の三九五年に帝国は東西に分割・統治されることになった(分割時期は諸説ある)。しかし西ローマ帝国は四七六年に滅び、帝国を精神的に結びつけていたローマ法王庁だけが残った。東ローマは生き残ったわけだが、帝国の首都はずっと、キリスト教を初めて国教に定めたコンスタンティヌス一世が築いたコンスタンティノープルだった。コンスタンティノープルはキリスト教徒にとっても聖都だったのである。
なお分断後の帝国を東西ローマと呼び、東ローマをビザンティン帝国と呼ぶのは後世になってからである。ギリシャ語とラテン語が公用語だったのでギリシャ人の国とも呼ばれるが、実際の人種構成は様々だった。当時の人たちは自分たちは誇り高きローマ人であり、単にローマ帝国の住民だと考えていた。ただ今では西ローマ滅亡後の東ローマはビザンティン帝国と呼ぶのが一般的のようだ。僕もそれにならうことにする。
ビザンティン帝国はサーサーン朝ペルシャ(ペルシャ人王国でイスラーム国家ではない)と対立していたが、六世紀には小アジアと東ヨーロッパの一部、それにほぼ地中海全域を版図に収める大帝国だった。しかしムハンマドが始めたイスラーム教によって(イスラーム側から言えばムハンマドに神の預言が降りた瞬間から)情勢が大きく変わってくる。ウマイヤ朝はまたたく間に中東から北アフリカを制圧する大帝国になった。ムハンマド死後しばらくして帝国は分裂するが、アッバース朝とファーティマ朝の二つのイスラーム帝国が中東と北アフリカを治めることに変わりはなかった。ビザンティン帝国の領土は今のトルコ領とギリシャの一部に押し込められていった。
ビザンティン帝国衰退の理由は複数ある。世襲王朝では必ず起こる皇位継承を巡る内紛、じょじょに力をつけていった東ヨーロッパ諸国との紛争、それに圧倒的武力で中東からアフリカに勢力を拡げていったイスラーム帝国との戦争が国力を奪った。加えてローマ法王庁との対立がビザンティン帝国を孤立させた。教義の違いからローマはカトリックの総本山に、ビザンティンは正教の総本山になってキリスト教世界は分裂・対立していたが、それはイタリアの国力が増した結果でもあった。
首都コンスタンティノープルは海路も陸路も交通の要所で、古来商業交易都市として繁栄してきた。しかし次第にムスリム商人と、当時はまだ分断国家だったイタリアのフィレンツェ、ジェノヴァ共和国の商人らが地中海貿易を独占するようになった。イスラーム帝国と地理的に離れていたこともあり、イタリア商人はムスリム商人と手を結んで交易を行った。ローマ法王庁の経済はイタリア商人の富で支えられていたので、最古のキリスト教国とはいえビザンティン帝国に一方的に肩入れするわけにはいかなかったのである。
またローマはカトリック総本山として、紆余曲折はあるが新興国のフランスやドイツなどの西ヨーロッパ諸国に君臨する政治経済ネットワークを確立していた。国王らを動かす力を持っていたのである。これに対して正教は各国正教会が独立しており、公会議で教義の統一などを図っていた。ビザンティン帝国は正教の総本山だが議長役という権威しか持っていなかったのだった。また正教各国の足並みは乱れがちで、西ヨーロッパ諸国ほどの軍事経済力もなかった。
十一世紀になるとイスラーム世界では、アラブ人に代わってトルコ人のセルジューク朝が覇権を握るようになる。やがてセルジューク朝は衰えたくさんの君候国に分裂するが、その中からやはりトルコ人のオスマン朝が勃興して、またたく間に東ヨーロッパを含む大帝国に成長した。オスマントルコ第七代スルタン(カリフと並ぶイスラーム帝国最高権者)のメフメト二世は、平和を求めた父・ムラト二世が隠棲した際に十二歳で王位に就いたが、宰相らの忠告を振り切ってコンスタンティノープル攻略を企てた。危惧した老臣らの画策でムラトが王位に復帰しメフメトの治世は二年で終わったが、ムラトが死去すると再びカリフに返り咲いた。弱冠十九歳の王だった。もう誰もメフメトのコンスタンティノープル攻略戦を止められなかった。戦いは一四五三年四月二日に始まった。
ビザンティン帝国皇帝コンスタンティヌス十一世は、自らの帝国が疲弊の極みにあることを知っていた。最盛期には三十万人に達したと言われるコンスタンティノープルの人口は七万人程度に減っていた。兵力は少なく傭兵を雇う十分な資金もなかった。メフメトの攻撃意図が露わになると、コンスタンティヌス帝はローマに使節を送って教皇ニコラウス五世に東方正教会をローマ・カトリックに統合させると申し出た。それによりイタリアはもちろん西ヨーロッパ諸国の援軍を期待したのである。しかし西ヨーロッパ諸国は数艘の食料補給船を派遣しただけで、結局援軍を送らなかった。(中編に続く)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
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